快感か幸福か(その7)
たとえばケーブルの聴き比べ、もしくはインシュレーターの聴き比べを行うために、
どこか誰かの部屋に仲間が、それぞれケーブルやインシュレーターを持ち寄って、音を聴く。
気の合う仲間同士であれば、楽しい、と思う。
でも同じケーブルやインシュレーターを持ち込むにしても、
たとえば誰かにシステムの調整を頼まれたときにも、そうするのはどうかと思う。
ここに書いたように、
私は調整を頼まれたときでも、直接手は出さない。
そしてもうひとつ、ケーブルやインシュレーター、置き台などのアクセサリーもいっさい持ち込まない。
なにか必要になったときでも、あくまでもその家にあるものを使う。
システムの調整(使いこなし)を頼まれて、いきなりケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込むのは、
使いこなしを売り物にしている人にとって、それは恥ずかしい行為なのではないだろうか。
ケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込み、それを変えていけば、音は確実に変る。
そのとき、使いこなしを売り物にしている人がやっていることは、いったいなんだろうか。
大事なのは結果である、つまり最終的に鳴ってくる音である、と、
使いこなしを売り物にしている人は、絶対に言う。
調整を依頼した人が満足してくれれば、それがケーブルを変えて(つまりケーブルを売りつけて)、
インシュレーター、置き台を変えて(売りつけて)の結果であっても、それでいいではないか、と。
だが、こういうとき、ほんとうに音は良くなっているんだろうか。
音は変っている。
その変った音を、いい音になった、と思い込まされているだけではないのか。
そう思うようになったのは、録音について書いている「50年」の項の(その9)に書いたことと関係している。