Archive for category テーマ

Date: 6月 15th, 2019
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その4)

同軸型ウーファーについて、私はどうも反対に考えていたようだ。
昨晩、ふと気づいた。
逆にすればいい、ということ。

そして逆にすることこそ、
本来目指していたところに辿りつけそうであることに気づいた。

同軸型ユニットではなく、ここで考えているのは同軸型ウーファーである。
小口径ウーファーと大口径ウーファーを組み合わせたユニットとしての同軸型ウーファーであり、
大口径ウーファーの欠点をどうにかしたい、と思っての発想だ。

同軸型ユニットといえば、ウーファーとトゥイーターの組合せが多い。
どんな同軸型ユニットであれ、トゥイーターよりウーファーの口径が大きい。

反対の同軸型ユニットというのは、存在しない。
このことが、同軸型ウーファーを考えるにあたって、発想の妨げになっていた。

中心に小口径ウーファー、その周囲に大口径ウーファーという配置は、
同軸型ユニットの配置から、なんら抜け出せていなかった。

同軸型という言葉にとらわれてしまっていた。

大口径ウーファーを中心にすればいい。
こんなことに、昨晩やっと気づいた。

大口径ウーファーの周囲に小口径ウーファーを複数配置する。

そのヴィジュアルを頭に描いていて、もうひとつ気づいたことがある。
ウェスターン・エレクトリックのバスレフ型のことである。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その5)

以前、「2014年ショウ雑感(ヘッドフォン祭)」でヘッドフォン祭は、
ヘッドフォンオーディオ祭という名称ではないことを書いた。

ヘッドフォンオーディオ祭だったら──、
そこにオーディオとつくことで、若い人(特に女性の若い人)は来なくなるのかもしれない。

私はオーディオという言葉が好きなのだが、
世間一般ではどうなのだろうか。

オーディオマニアはバカにされる、
オーディオマニアだと誰にもいえない、
これらは極端な例なのだろうか。

どうもそうではないような気がする。
そんな気がする、というだけで、確かめているわけではない。

けれど、(その3)と(その4)に書いたことは実際にあったことだ。
日本オーディオ協会の人たちは、そういうことが実際にある、ということを知っているのか。

若い人たちにも参加してほしい──、
これはオーディオ業界だけでなく、他の業界でもそうだろう。
先細りなのははっきりしている。

けれど、若い人でも、昔にくらべるとずっと少なくなってきているとはいえ、
オーディオに関心をもつ人はいる。

いるけれど、今回の小川理子理事長の発言にSNSでコメントしている人の中に、
とあるガレージメーカーの社長に、
「学生にはトップモデルは聴かせられない」と拒否された、というのがあった。

学生が買えるようなものしか聴かせない。
買えないような高価な製品を聴かせても、時間、労力の無駄、と、
そのガレージメーカーの社長は判断しての発言なのだろう。

そういう人がいる一方で、
とあるオーディオ店のある店員は、
学生相手にも、そんなイヤミをいうことなく、ハイエンドオーディオを試聴させてくれる、らしい。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その4)

北海道の若いオーディオマニアの件は、
この人一人だけの特別な例なのだろうか。

別項『「オーディスト」という言葉に対して(その25)』へのfacebbokでのコメントも、
同じといえる例でもあった。

四年ほど前に、とあるミュージックバーに行き、
幼いころから音に関心があって、いまではオーディオマニアになった──、
そんな話をしたら、バーの店員から散々バカにされたそうである。

このバーは、ミュージックバーを名乗っているくらいで、
トーレンスのアナログプレーヤーを使っていることを売りにしている、そうである。

そういうバーの店員でも、オーディオマニアをバカにしている。

北海道の若いオーディオマニアが、
オーディオマニアだ、と周りの人にいうことは、カミングアウトすることに近いのだろう。

若い人たちではないが、私より少し上の世代の人たちも、
そんな空気を感じとっているのかもしれない。

まったくオーディオと関係なく会った人と話しているうちに、
こちらがオーディオマニアだ、とわかると、
「いやー、実は私も……」と言ってくる人(といっても数人なのだが)がいた。

同世代の女性の知人は、中学生のころから、
絶対にオーディオマニアとは結婚しない、と決めていた、という。
彼女が中学生のころは、オーディオがまだブームだったころだ。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その3)

あのころはみんな若かった。
編集者だけではなく、筆者もそうだった。

私が最初に手にしたステレオサウンド 41号。
1976年12月発売の号だから、
1932年9月生れの、菅野先生、山中先生、長島先生は44歳、
1935年生れの瀬川先生は41歳。

あのころはそんなふうに感じたことはなかった。
けれどステレオサウンドを辞めて、三十年経つと、
みんな若かった、ということの実感が日増しに強くなってくる。

こんなふうに書いていると、若ければいいのか、と言う人があらわれそうである。
(その2)で、若ければいいなんていいたいのではない、と書いても、そう受けとる人がいたりする。

くり返すが、若ければいいわけではないし、歳をくっているからいいわけでもない。
ただただ、あのころはみんな若かった、このことだけを強調したいのと、
結局のところ、オーディオ業界もあのころは若かったといえるし、
あまり新陳代謝が行われなかったのか、
そのままみんなして同じように歳をとってしまった(老いてしまった)。

このことを実感している。
みんな一緒に歳をとってしまったから、気づきにくかったのか。

どうも私より下の世代は、オーディオに関心をもつ人は、急激に減っていったような気がする。

菅野先生からきいた話がある。
確か北海道の、若いオーディオマニアの話だった。

そのころ20代だったはずだ。
彼は、けっこう熱心なオーディオマニアらしい。
彼が行きつけのオーディオ店では、彼がいちばん若い常連客だった。

でも彼は、友人、知人に趣味がオーディオだ、とは言っていない。
バカにされることがわかっているから、らしい。

友人、知人にオーディオマニアだということを告白することは、
カミングアウトするようなもの、らしい。

Date: 6月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その2)

ステレオサウンド編集部も若かった──、
とつい書いてしまったが、
現編集部の年齢を知っているわけではない。

それでも私がいたころよりは平均年齢は上なのではないだろうか。
それに私がいたころ、平均年齢は少し下っていった。
SさんがHiVi編集部へ移り、Iさんが辞めたからだ。

それからJr.さん(Nさん)も辞めて、Nさんも辞めて、
一時期、黛さんと私、それに若いアルバイトの三人ということもあった。

そうなって平均年齢はさらに下っていた。

現編集長の染谷一氏の年齢は知らないが、
20代、30代ということはないだろう。
40代かな、と勝手に思っている。

奥付にある編集部員の名前で、知っているのは武田昭彦氏だけ。
彼は私より少し年下のはず。

編集協力の藤 康一郎氏の年齢は以前きいていたけれど忘れてしまった。
それでもそんなに若いわけではない。

副編集長の北川和広氏は、前編集長の小野寺弘滋氏のころからいる人だから、
やはり若くはないはずだ。

別に編集部の平均年齢が若ければいいなんていいたいのではない。
ただ、あの時代、みんな若かった、といいたいだけである。

SNSのコメントを読んでいて、このことを思い出していた。

Date: 6月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その1)

昨日と今日、SNSに、
オーディオ関係の、このニュースにコメントしているのをいくつかみかけた。

AV WATCHの記事にリンクしているが、
PHILE WEBでも取り上げられているから、読まれた方は多いだろう。

日本オーディオ協会の小川理子理事長が、
「今月末のOTOTENでは、今までのオーディオマニアの方だけでなく、若い人達にも参加して欲しい」
と発言したことへの、SNSでのコメントであった。

どうすれば、若い人たちがOTOTENの会場にやってくれるのか。
オーディオブームのころ、どの出展社も、
オーディオフェアでそんなことを考えていなかったのではないだろうか。

日本オーディオ協会も考えていなかったのではないだろうか。

それでもオーディオブームのころは、若い人たちが大勢、集まっていた。
何故なんだろうか。

ステレオサウンドで、1982年に始まった菅野先生のベストオーディオファイル。
ベストオーディオファイルに登場する人たちの年齢の若いことを、
それほど不思議には思わなかった。

20代、30代の人もけっこう登場しているし、
けっこうなオーディオシステムだったりする。

きちんと統計をとったわけではないが、
どちらかといえば若い人のほうが多い印象だ。

それから三十数年。
その人たちも50代、60代になっている。
この年代あたりが、いまのステレオサウンドの中心読者層になっている。

ベストオーディオファイルに登場する人たちだけが若かったのではない。
編集部も若かった。

私が編集部で働きはじめたのは、19の誕生日の約一週間前で、
ぎりぎり18だった。

私の七つ上に、Jr.さん(Nさん)がいた。
十上に、編集次長だった黛さんがいて、
同じ歳のNさんがいた。
ここまでが20代である。

それからSさんとIさんが、黛さんよりも少し上で30代前半だった(はず)。
1980年代のはじめ、ステレオサウンド編集部も若かった。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)

十数年前くらいからだろうか、
スピーカーシステムの音の精度、精確さは確実に向上してきている。

インターナショナルオーディオショウで聴くだけなのだが、
それでもYGアコースティクスののスピーカーシステムの音には、
ここ数年、感心するばかりだ。

B&Wのスピーカーシステムもそうだ、といえよう。
あくまでも聴いた範囲であって、
他にも精度の高さ、精確さをほこるスピーカーシステムはあるだろう。

とはいっても、一般には精度の高い音と高く評価されていても、
聴いてみると、この音のどこが? と思うスピーカーもないわけではない。

どこのメーカーなのかは書かないけれど、一社ではない。
インターナショナルオーディオショウ、オーディオ店で鳴っている音での印象であって、
愛情をもって鳴らしているユーザーの音を聴いての印象ではない。

でも二十年くらい前か、
知人があるメーカーのスピーカーシステムを購入した。

そのメーカーの音を、それまで一度もいいと思ったことがなかった。
ひどい音だ、と聴く度に思っていた。

なのにハイエンドユーザーのあいだでの世評は高かった。
そのスピーカーを知人が買ったわけだ。

聴きに来ませんか、という誘いがあった。
期待はしていなかったけれど、やっぱりひどかった。

知人もそう感じていたようで、すぐに売っぱらってしまった。
愛情をもって鳴らしてこそ──、というけれど、
それはあくまでもまともなスピーカーに関してであって、
そのスピーカーのように欠陥スピーカーといいたくなる場合は、例外というしかない。

どこかが間違っているとしかいいようのない音のスピーカーは、確かに存在する。
そういうスピーカーまでも、精度の高い音といわれているのをみていると、
精度の高い音、精確な音とはいったいなんだろう、と、
次元の低いところで考えなくてはならないのかと思ったりもするが、
そんなスピーカーをきちんと聴き分けて除いていけば、
確かにスピーカーの音の精度、精確さは確実に向上している。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その6)

二十年くらい前からだろうか、
写真と見紛わんばかりの絵を描く人が現れはじめた。

私が、そういう人を最初に見た(知った)のは、インターネットだったか。
世の中には、すごい人がいるもんだ、と感心した。

それからぽつぽつとそういう人が現れてきている。
インターネット、それもSNSを眺めていると、
そういう人の絵がタイムラインに流れてきて、
さらにはどうやって描いているのかも動画もあったりする。

写実性の技術は向上している──、といえるだろう。
と思いながらも、私はここでも五味先生が書かれてきたことを思い出す。
     *
 画家なら、セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える。音楽作品にはしかし、そういう自画像は一人として思い当たらない。バルトークの師だったというヤノーシュ・ケスラーという作曲家は、優れたアダージョを書けるには音楽家は実際の経験を経ねばならぬと教えたそうで(ただし何を? おそらく恋愛、もしくはそれにともなう失望や恍惚、悲哀だろうか? それならもうぼくはずいぶん経験ずみだし、よいアダージョが書けねばならないのに)、とバルトークは二十歳ごろ母への手紙に書いている。バルトークの作品にその苦悩の生涯を彷彿するのはたやすいことだが、どれを取上げても彼の肖像は浮かんでこないだろう。ケスラーの説が当たっているなら、ベートーヴェンは体験でたしかに比類ないアダージョを作っているが、いかなる他の音楽も到達しなかったとケンプの称えるそのアダージョの幽玄の趣、崇高でけざやかな美しさにもっとも不似合いなのがベートーヴェン自身のあの(醜い)マスクの印象になる。
 いまさら言うまでもないが、音楽は聴くもので見るものではない、肖像画が声を出すか? といった反論はわかりきっているので、音楽に自画像を求めるのが元来無理なら、自画像と呼ぶにふさわしい作品をたずねてみるまでである。ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
 音楽家は、自分の体験を音で描写はしないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョバンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝と見ることはできるだろう。
(「五味オーディオ教室」より)
     *
《セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える》
とある。

ここにも写実性が出てくる。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ピカソの自画像は、
写真を思わせるような絵ではない。

けれど《信じ難いほどの写実性》と、五味先生は表現されている。
《信じ難いほどの写実性》とは、高精度のカメラで撮影した写真のもつ写実性とは、
何が違うのか、ということは、すでに五味先生が書かれている。

《体験を描写しないで自画像を描ける道理がない》、
と書かれている。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ディスク/ブック

全身編集者

さきほど知ったばかりの本だ。

雑誌「ガロ」元副編集長だった白取千夏雄氏の半生記・半世紀──、
と出版社のおおかみ書房のサイトでは紹介されている。
自費出版に近いかたちのようで、書店売りはしていないらしい。

全身編集者」。
もうこれだけで、読みたくなってくる。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: 広告

ホーン今昔物語(It’s JBL・その6)

「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」を、広告だ、と私は捉えている。
そう考えたときに、「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」についてくる本の部分は、
いったい何なのだろうか。

書店で売られている以上、「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」の主体は本の部分のはず。
けれどファイナルのイヤフォンE1000が主体であって、本の部分こそおまけといえる。

この本の部分、
私は映画におけるパンフレットに近いような気がする。

映画館に行けば、上映している映画のパンフレットが売られている。
小学生、中学生のころは、ほとんど買っていた。

高校生のころからあまり買わなくなり、
ずいぶん買っていない。
なので、最近の映画のパンフレットの内容がどういうふうになっているのか全く知らない。

私が買っていたころと変っていないとして、
映画のパンフレットは、いわば解説である。

その映画の制作スタッフ、俳優の名前が記載されているし、
その映画の背景、シリーズものであればそういったことなどについての解説が載っている。

解説を書いているのは、たいていは映画評論家と呼ばれている人たちの誰かだ。
映画評論家が書いているからといって、
そこでの文章は、その映画の評論ではない(昔と同じならば)。

そして有名人による推薦文のようなものも載ってたりする。

「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」の本の部分は、
書店でぱらぱらとめくっただけだが、
映画のパンフレット的存在といっていいだろう。

こんなふうに考えてみると、
小野寺弘滋氏の「It’s JBL」はハーマンインターナショナルのサイトで公開するだけでなく、
パンフレット的に仕上げての小冊子という手もあると思う。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その9)

その2)で、facebookでのコメントを読んで、
続きを書くだけでなくタイトルも少し変更したことに触れた。

変更したことによって、(その8)までで書いてきたことは本題ではなくなっている。
(その10)から書くことが、ここでのテーマの本題になっていく。

(その2)の最後に、
ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる、としているように、
編集者の悪意に関係してくる実例を挙げていく。

これまでも別項で、細部をぼかしながら書いてきたことも、
ここでは、
メーカー名、型番、ステレオサウンドの号数、記事のタイトルなども、
少しはっきりさせていく予定である。

私が担当した記事だけでなく、
私が「編集者の悪意」もしくは「編集者の悪意のようなもの」を感じた記事についても触れていくことで、
編集者の悪意は、どこを向いてのものなのか、
そのあたりも考えていきたい。

(その10)を書くのは、少し先の予定。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その25)

6月5日のaudio wednesdayの準備をしていたときのことだ。
常連のHさんが、早めに来てくれて手伝ってくれた。

あれこれいくつかの話題を話していて、
そうだ、これもオーディストなんだなぁ、と合点のいくことがあった。

オーディスト(audist)とは聴覚障害者差別主義者という意味をもつスラングである。
その23)で、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)とは、
神の御言葉を聴けない者は不完全な人間である、
神から与えられた言葉を聴けない、話せない者は不完全な人間である、
と主張する人たちのことだ、と聞いているとも書いた。

今回考えたのは、このことに近いことでもある。
Hさんと話していたのは、
音楽評論家の多くは、音に関心を払わない、
再生するオーディオにも関心を払わない人が多い、ということだった。

いまはそうでもなくなりつつあるのかもしれないが、
私がオーディオに関心をもちはじめたころは、
音楽評論家で音にも強い関心をもつ人はほんとうに少なかった。

別に音楽評論家に限らない。
音楽好きで、レコード(録音物)を介して音楽を聴くことに熱心な人であっても、
音、再生装置にはまったく無関心という人も少なくない、というか、多いように感じる。

そんな話をしながら、そうか、と思ったのは、
音楽好きでありながら、音に関心を払わない人、
そういう人の中には、オーディオマニアをはっきりと軽蔑する人がいる、ということ、
そして、こういう人も、すこし違う意味でのオーディストなんだ、ということである。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(brandead)

brand + ing = branding
brand + ed = branded
brand + dead = brandead

Date: 6月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その3)

6月5日のaudio wednesdayで“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDをかけた。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDを、
audio wednesdayでかけるのは三度目。

今回はうまく鳴ってくれる予感はあった。
それでも鳴らしてみないことには、
スピーカーから音の聴かないことには、なんにもいえない。

前回、前々回の“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の音を聴いている人もいる。
今回初めて聴く人もいる。

最初の音が鳴ってくれば、わかる。
まったく不満がないわけではないが、いい感じで鳴ってくれた。

私がひとりでそう思っているわけではなく、
聴いていた人たちの感想をきいても、そうだった。

一曲目の「地中海の舞踏/広い河」、
特に後半の鳴り方は、冒頭の音からはちょっと想像できない感じで鳴ってくれた。

二人のギタリストがいるステージに、聴き手のわれわれも坐って聴いている、
そんな感じで、しかも演奏者の体温が、曲のクライマックスで上ってくるような感じさえあった。

そんなのは、聴き手の一方的な期待による錯覚といわれれば、そうかもしれない。
同じ音を、あの場で聴いても、そう感じない人もいるはずだ。

今回はそんな人はいなかっただけのことかもしれない。

それでも錯覚できない音と錯覚できる音、
どちらをとるのかとなったら、迷わず錯覚できる音をとる。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”はライヴ録音である。
ギタリストはステージにいて、観客はステージにはいない。

観客の位置で演奏を聴きたいという人には、
今回の音は、ある意味、ひどい音ということになる。

でも、私は“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDを、
そんな音で聴きたいとは思わない。

演奏者の体温が上昇するのにつれて、
聴き手のこちらの体温も上昇するような音で聴きたい。

そういう音で聴いてこそ、
私は“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”をすごい、とおもう。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その3)

その2)を書いたのは五年前。
前作の「ゴジラ」から、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」まで五年かかったわけである。

キングギドラが登場することは、五年前に発表されていた。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」では、
キングギドラではなくギドラとして登場する。

なぜ名称からキングが抜けているのかは、
次作「Godzilla vs. Kong」で明らかになるのかもしれない。

別項で書いたように、私にとってほぼ理想的なゴジラ映画だった。
ゴジラに対する思い入れは、世代によって大きく違うのかもしれない。

私が小学生のころ、ゴジラの映画、ガメラの映画もよく上映されていたし、
大半を映画館で観てきている。

私はそういう世代である。
前作の「ゴジラ」も満足といえば、満足していたけれど、
それでもサウンドトラックを買おう、とまではまったく思わなかった。

今回の「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、サウンドトラックを買おうと思っている。
私のようなゴジラ映画に思い入れをもつ者(世代)にとって、
今回の「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」で使われている音楽は、
自分の手で鳴らしてみたい、と思わせる。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」のサウンドトラックは、
e-onkyoにもラインナップされている。

「ゴジラ」で検索してもヒットせず、
「godzilla」で検索しなければならない。
しかもflacとMQAがあるが、どちらも44.1kHz/24ビットという中途半端なスペック。