Archive for category テーマ

Date: 3月 25th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(老害、独断と分断・その3)

にも関らず、私のこのツイートに反論めいたことを返信してきた人は、
そういう私の意図とはまったく違うように読んでしまっている。

そして、老害が、そこにはある、といわんばかりでもあった。

老害が、オーディオの世界にない、とはいわないが、
ほんとうに若い世代の人たちがいうところの老害とは、
いったいどういうことなのだろうか、という疑問も同時にわく。

私のツイートに反論めいたことをしてきた人の考える老害とは、
その人が勝手につくり出していることの可能性だって考えられる。

つまりその人の独断がつくり出している、ともいえるのではないか。
そして独断は老害をつくり出すだけでなく、上の世代との分断をもつくり出してしまうのではないのか。

さらにいえば、そんな人たちが年寄りになったときにこそ、
老害になってしまうのではないのか。

老害だ、老害だ、と批判している人のどれだけが、
ずっと上の世代と会話をしているのか。

Date: 3月 25th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(老害、独断と分断・その2)

《年寄りの話をきちんと聞けない、年寄りと会話できない人はオーディオに向いてない、と断言できる。》
そうツイートしただけで、
どこにも年寄りの話をありがたがれ、とか、
若者の意見に耳を貸すな、とは書いていないし、そういう意図はまったくない。

私の、このツイートに反論めいた返信をしてきた人は、
おそらく年寄りの方ときちんと会話したことがないのだと思う。

話したことはある、といわれるかもしれないが、
それは、ただ単に聞き流していただけではないのか。

早く終らないかなぁ……、そんなことも思って聞き流していただけで、
きちんと会話しよう、きちんと話を聞こうということをしたことがないのだろう。

ウォーミングアップというのは、どんなことにでもある。
話す、ということに関してもそうである。

特に高齢になってくるほど、話すということにおけるウォーミングアップは必要となってくる。
すべての高齢の方がそうなのだ、というつもりはないが、
私が接してきた人は、話し始めはゆっくりと、すこしたどたどしいと感じられたりするが、
しばらく話し続けているとウォーミングアップが終ったかのように、
話が淀みなく続いていく。

高齢の方のウォーミングアップにつきあえない人は、
最初の数分、もしくは十分(それ以上の場合もある)くらいで、
聴き手であることを放棄してしまうのではないのか。

ウォーミングアップとも関係してくることなのだが、
聴き手のペースで話をしてくれるわけでもない。

それから、同じ話が何度も出てくる、ということもある。
同じ人から何度も話をきいていくと、
それは以前きいた、ということがけっこさうある。

それでも続けてきいていけば、
前回とは違う話の展開になってきたりするのだから、
また同じ話か……、と思うことはそれほどない。

同世代の、似たような人たちとばかり会話している人は、
つきあってられないや、と思ってしまうだろう。
そういう意味あいをふくめて、
《年寄りの話をきちんと聞けない、年寄りと会話できない人はオーディオに向いてない、と断言できる。》
とツイートしたのである。

Date: 3月 25th, 2020
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

青雲の志

あまり目にすることも耳にすることもなくなってきている「青雲の志」。

オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)をわけるのは、
青雲の志をもっているかどうかだろうし、
オーディオ評論家(商売屋)にしかみえない人も、
以前は青雲の志をもっていたのかもしれない。

Date: 3月 25th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは……・その2)

このあいだの日曜日、写真家の野上眞宏さんの写真展「ON THE ROAD」に行ってきた。
ギャラリーに着いたとき、入口のところに男性二人が雑談をしていた。

スピーカーについてのことだった。
「ON THE ROAD」には、野上さんのシステムが持ち込まれていた。
SICAのフルレンジユニットの自作スピーカー、メリディアンの218などである。

雑談の二人は、フルレンジユニットの次のステップについて話していた。
「トゥイーターをつけるのはいいけれどね……」
「そうそう、ウーファーをつけたら泥沼だよね」
「ほんとそうだね」

そんな会話だった。

この人たちのオーディオのキャリアがどのくらいなのかは知らない。
でも、そんなことは関係なく、
日本では低音に関して、こういう認識の人たちが、やはりいるということを再確認できた。

ずっと以前から「質の悪い低音ならないほうがいい」とか
「低音を出して苦労するよりも……」とかいう人はいたし、知っている。

日本ではスーパーウーファーがあまり売れない、と聞いている。
スーパートゥイーターはそこそこ売れるのに、
オーディオの醍醐味といえる低音再生のためのスーパーウーファーは芳しくないようで、
あるオーディオ店ではスーパーウーファーの買い取りは行っていない、らしい。

なぜか日本のオーディオマニアは、低音再生に臆病なところがあるようだ。
もちろん日本のオーディオマニアのすべてがそうなのではないことはわかっているが、
それにしても……、といいたくなるのは、
低音に臆病な人が少なくないからだ。

ちなみに野上さんは自宅ではエンテックのウーファーを使われている。

Date: 3月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その20)

3月のaudio wednesdayでいっしょに聴いていたHさんも、
この日のカラスの「カルメン」の鳴り方はよかった、と感じられていたようだった。

Hさんは、ULTRA DACでのマリア・カラスも聴かれている。

まだまだだ、と思うところはけっこうある。
それでもULTRA DACと218の価格、
2,500,000円と125,000円、
ULTRA DACは218の二十台分である。

これだけの違いがあるのだから、
ULTRA DACでは通常のCD、218ではMQA Studioというハンディキャップをつけている。

それでも……、というところがあるのも事実だ。
けれど、別の意味で、それでも! といいたくなる音が、この日は聴けた。

218といっても、手を加えた218なのだから、
その自慢をしたいのではなく、ここでいいたいのは、
何もしないで、ただひたすら鳴らして聴くことの重要さである。

ひどい音が鳴ってきたからといって、
それをその場しのぎでごまかすようなことをしていたら、
もしくは、そのひどい音でなんとか聴けるようなソースばかりを鳴らしていたら、
この日のように、短時間での大きな変化は無理であろう。

とはいっても、いいかげんなセッティングではダメである。
きちんとしたセッティングがなされていれば、
鳴らすことの大切さがわかるはずである。

何かをすることだけが使いこなしではない。

Date: 3月 23rd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その8)

4月に開催予定だった春のヘッドフォン祭2020の中止が決まった。
延期ではなく中止である。
年二回開催されているから、秋は行われるだろうが、
先の見通しは誰にもわからないのだから、もしかすると……、という可能性も考えられる。

やはり4月開催予定だった北陸オーディオショウも中止を発表。
各地で予定されているオーディオショウは他にもある。
それらがどうなるのかは、まだわからない。

6月6日と7日開催のOTOTENは、いまのところ何もアナウンスしていない。
開催予定のようである。

4月と6月とでは、状況も変化しているかもしれない。
よい方向なのか悪い方向なのか。

収束の方向に向わなければ、OTOTENも中止になるかもしれない。
そうなると秋のインターナショナルオーディオショウもどうなるのかなんともいえない。

OTOTENとインターナショナルオーディオショウがもし中止になれば、
オーディオ業界への影響は決して小さくないはずだ。

これを機にストリーミング中継を真剣に考えていくべきではないのか。
OTOTENもインターナショナルオーディオショウも、東京で開催される。
遠くから来場する人もいるが、やはり来れない人のほうが多い。

無観客でのコンサートの中継も行われたのだから、
オーディオショウも、そんな中継では微妙な音の違いを伝えられないと決めつけるのではなしに、
柔軟に取り組んでいく必要はあると思う。

人気のブースは人でいっぱいになる。
音を鳴らす環境としては、
つまり音を聴いてもらうには、決していいとはいえないブースも少なくない。
ならば、いっそのこと無観客で、マイクロフォンを立てての中継もありではないだろうか。

最良の位置と思えるところにマイクロフォンを立てる。
日本でも5Gが開始になる。

人が集まってこそのオーディオショウなのはわかっている。
それでも、今回のようなケースが、これからも発生することも十分あるし、
来られない人が大勢いるということも考えてほしい。

Date: 3月 23rd, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その19)

3月のaudio wednesdayで最初にかけたのは、
コンドラシンとアルゲリッチによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲だった。

コンドラシンによる「シェエラザード」とのカップリングのSACDだ。
各機器の結線が終った段階で、
すぐにでも音を鳴らしたかったので、まず「シェエラザード」をかけた。
鳴らしながら、スピーカーのガタとり、位置の微調整などをやって、
チャイコフスキーにを鳴らした。

「シェエラザード」もよい鳴り方とはいえなかったけれど、
チャイコフスキーは、さらにひどく感じた。

そのがさつな音から、二時間弱。
途中でメリディアンの218を使うようになったけれど、それ以外はなにもしなかった。
とにかく、鳴ってくる音の変化を聴いていただけだった。

それでもオーディオのおもしろいところは、
そうやって鳴らしたあとで、(その18)で書いているように、
MCD350からiPhoneにかえて、レネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”を鳴らしてみると、
最初の音からは想像できないほど、まともになっている。

もちろん2月のaudio wednesdayの音にはまだまだではあるけれど、
こういう変化が音に現れてくるなら、音楽が、その魅力を伝える鳴り方へと変っていく。

いくつか鳴らした後に、マリア・カラスの「カルメン」をかけた。
MQA Studio、96kHz、24ビットでの音は、まだまだ不備のある音ではあっても、
聴き惚れるくらいにまで変っていた。

何度も書いているように、
マリア・カラスの「カルメン」に関しては、
ULTRA DACで、通常のCDをshortフィルターで再生した音が、
私にとっての、喫茶茶会記での音のひとつの基準になっている。

その音に、218でどこまで迫れるかも、私にとって挑戦である。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: 映画

JUDY(その5)

越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。

別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。

ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。

私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その1)

コンサート・ドロップアウトを宣言し、
「コンサートは死んだ」と語ったグレン・グールド。

グールドの死後、コンサートは廃れるどころか、その真逆である。
グールドの予言は外れた、ともいえる。

コンサート(ライヴ会場)には行くけれど、
レコード(録音メディア)はあまり購入しない、という人が増えている、ときく。

人気のある歌手の、近年のコンサートの様子は、大型テーマパークのようでもある。
このままますます肥大化していくようにも思えた。

そこに新型コロナである。
音楽コンサートだけでなく、大型イベントが中止もしくは延期になっている。

私が好きな自転車レースも、そうとうに影響を受けている。
不謹慎といわれるだろうが、グールドの予言が現実のものになりつつある。

とはいえグールドの予言そのままというわけではない。
電子メディアの発達によってコンサートが廃れていっているわけではない。

新型コロナが今後どうなっていくのか、私にはわからない。
早くに収束していくのかもしれないし、ずっと長引くのかもしれない。

そのため、ある試みがなされている。
無観客で演奏会、
その様子をストリーミング中継する。

これこそ電子メディアの発達による音楽鑑賞のひとつである。
そうなると、クラシックの演奏会では、基本的に無縁の存在であるマイクロフォンが、
ステージの上に立つことになる。

Date: 3月 21st, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その12)

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴きおわって、
一人でよかった……、と思っていた。

聴きおわって、鏡を見たわけではないがもしかすると赤面していたかもしれない。

誰かといっしょに聴いていたとしても、
隣にいる人が、私の心の裡までわかるわけではない。

それでも一人でよかった。
悟られなくてよかった……、と思っていた。

まぶしすぎて直視できない──、
そんな表現があるが、それに近い感じでもあった。

青々とした(緑が濃すぎる)ジャケットそのままの演奏を、
どこかうらやましくも感じていたのかもしれない。

若いな──、と感じていたのではない。
こういう青春は私にはなかったぁ……、
そんなおもいがどこからかわきあがってきた。

そしてしばらくして、ここに書いてきた同級生のことを思い出していた。
彼らは、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を、どう聴くのだろうか。

いい曲ですね、いい演奏ですね、
そういう感想なのかもしれない。

彼らがどういう感想を持つのかはなんともいえないが、
私のように、まぶしすぎて直視できない的な感覚はないのではないか。

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲は、もう聴いていない。
一回だけ聴いて、二回目はまだである。

一回目と同じように感じるとはいえない。
また違うことを感じるのかもしれない。

でも、まだ聴こうとはなかなか思えない。
いつか聴く日が訪れるのか、それとも二回目はないのか。

青春が遠い遠い彼方に感じられた日に聴くのだろうか。

Date: 3月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その11)

青春とは、いったいいつのことを指すのだろうか。
辞書には、《若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期》とある。

具体的な数字で、いつからいつまでとは記していない。
心の持ちよう、ともいわれる。

そうだろうとは思うのだけれど、
一般的な意味での青春とは、やはり中学生、高校生のころだろうか。

多感な時期ともいわれる。
多感な青春時代、ともいう。

ほんとうにそうだろうか、と思うところが私にはある。
多感な時代を送ってこなかったのかもしれないが、
そのころ多感だったかどうか、自分で判断することだろうか。

とにかく青春時代、
この項でこれまで書いてきたM君、T君、A君は、
それぞれに青春時代を謳歌していたのかもしれない。

青春時代の謳歌、といっても、
部活動に励み、勉強にも励み、
友人も多く、時には恋もして──、というようなのを、そういいたいわけではない。

目標を立てて、そこに向っていくことを、青春の謳歌といいたい。
M君、T君、A君は、そういうところでの謳歌のような気がしてならない。

どちらがほんとうの青春の謳歌だ、なんてことをいいたいわけではない。
私は、どちらの青春の謳歌も、ほぼ無縁な中学、高校時代をおくってきた。

そんな私が、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いて、
青春時代とは──、そんなことをおもってしまった。

むせかえるような濃密な芳香を、そこに感じたからである。
聴いていて、どこか気恥ずかしいものも感じていた。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その22)

誰だったのかは忘れてしまっているが、
外国の著名な女優だったかもしれない、
「長い時間をかけて、やっと手に入れた皺」──、
そんなことを読んだ記憶がある。

エージングとは、そういうことではないだろうか。
スピーカーのエージングということが、むかしむかしからいわれ続けてきている。

エージングとは、いったいどういうことなのか。
人それぞれ違ってくることだろうが、
私には、皺を刻んでいくことのような気がするし、
それだけでなく、皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーとが、
大きく分ければ、そうであるような気がする。

どのスピーカーが、皺が似合うのか。
これも人によって多少は違ってこよう。

これまで、この項で書いてきている例でのスピーカーは、
私からすれば、もっもと皺が似合うスピーカーのひとつである。

アンチエージングということで、
皺を完全に拒否する生き方もある。

そういう生き方もあるだろうし、
そういう音のスピーカー、
つまり皺がまったく似合わない、
いつまで経っても似合いそうにない音のスピーカーもある、といえる。

どちらのタイプのスピーカーを選択するかで、
スピーカーのエージングとはどういうことなのか、
そのことに対する考え方は大きく違ってくるはずだ。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その4)

越後獅子、
五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくる「越後獅子」は、
映画の序盤で浮んできていた。

中盤以降は、ロンドン公演がおもに描かれている。
「JUDY」は、実話をベースとしたフィクションということになっている。
とはいえ、ほぼ実話なのだろう、とおもって観ていた。

ジュディ・ガーランドは、ロンドン公演が終って半年後に亡くなっている。
自殺ともいわれている、そうだ。

そういう状態のジュディ・ガーランドがみせるロンドン公演でのパフォーマンス、
それが成しえるのは、やはり越後獅子ゆえなのだと、どうしても思ってしまう。

もちろん才能があってのことなのは重々わかっている。
それでも映画が描かれるシーンは、越後獅子としての時代がなければ……、とおもってしまう。

映画を観る前に、レネー・ゼルウィガーの歌唱によるサウンドトラックを聴いていた。
このサウンドトラックの最後に、“Over The Rainbow”である。

映画を観ていると、“Over The Rainbow”が劇中で歌われるのは、
最後のシーンだな、と誰もが気づくだろう。

最後のシーンでうたわれる。
そして映画「JUDY」も終る。

映画で使われた“Over The Rainbow”と、
サウンドトラックの“Over The Rainbow”は、
どちらもレネー・ゼルウィガーが歌っているが、同じなわけではない。

なぜなのかは、ここで書いてしまうと、
これから観る人を怒らせてしまうことにもなるだろうから省く。

そごでどういうことが起るのかも、
映画をこれまで観続けてきた人ならば、想像の範囲のことだ。
それでも、このシーンは胸に響く。

しかも、このことは実際に起ったことだ、ときいている。

これをもって、ジュディ・ガーランドは、最後の最後で幸せだった、とはいわない。
越後獅子の最期のようにも、私の目には映った。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: audio wednesday

第111回audio wednesdayのお知らせ(218+α)

4月1日のaudio wednesdayは、
メリディアンの218に、いくつかのオーディオ用アクセサリーを、
あれこれ試しながらの試聴になる。

オーディオ用アクセサリーと書いてしまったが、
オーディオ用アクセサリーとして市販されているモノは、一つだけ持っていく。

あとはオーディオ用と謳っているモノではない。

ただ、メインとなるモノが、まだ海外から届いていない。
予定ではそろそろ届くはずなのだが、
もしかすると今回は間に合わないかもしれない。

テーマがテーマだけに、しっかりと試聴してもらいたい、と考えている。
そのため、最初の二時間(19時から21時まで)は、ディスクに一枚に絞る。

どれにしようかと迷っていたが、
別項で触れているアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲にするつもりでいる。

おもに四楽章と五楽章を鳴らし、
あいだに一楽章をはさんでいく予定でいる。

とにかく開始からほぼ二時間は、このディスク以外はかけない。
218+αのテーマを一段落してからの21時以降、
さまざまなディスクをかけていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 3月 17th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その11)

別項「218はWONDER DACをめざす」で書いてきていること、
218に手を加えてきていることは、ここでのテーマとは絡んでくる。

218に手を加えているのは、私好みの音にしたい、ということではない。
218はWONDER DACをめざす(その16)」で引用した菅野先生の文章、
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創る》、
ここでのローテクと私が218に加えているローテクとは完全に一致しているわけではないが、
それでもローテクであり、218に加えたローテクとは、
ハイテク本来の性能を活かしていくための手法である。

音をよくしよう──、
ということではなく、
音を悪くしている因子をできるかぎり抑えていこう、というものである。

その結果として、ハイテクがもつ高い性能が、音に活かされてくるようになる。

私ひとりが思っているだけなのだろうが、
手を加えた218は、私にとって“plain sounding, high thinking”そのものである。