Archive for category テーマ

Date: 1月 16th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その7)

その6)で、時間軸領域の特性こそ重要だ、
と主張する人が増えてきていると書いたし、
岩崎先生の文章を引用もしている。

岩崎先生の文章を引用したのは、
感覚的に時間軸の重要性を感じとっていた人がいる、ということを言いたかったからだ。

岩崎先生は、こんなことも書かれている。
     *
アドリブを重視するジャズにおいて、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
これが意味するところを、どう捉えるか。
よほどひどい曲解をしないかぎり、わかってもらえるはずだ。

岩崎先生だけではない。
長島先生も、よくいわれていた。
「音楽はパルスの集合体だ」と。

私は何度も長島先生から、このことを直接聞いている。
私以外にも聞いている人は少なくないはずだ。

少なからぬ人たちが、(私が知るかぎり)1970年代ごろには、
感覚的に、そうだ、と感じとっていたわけだ。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その6)

「リバーエンド・カフェ」の、あのシーンで思い出したことは、まだある。
井上先生が書かれていたことだ。

ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
各筆者による「私とJBL」が載っている。

井上先生は、こんなことを書かれている。
     *
 奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオに近い当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームである。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚嘆したのである。
     *
こんなことを思い出すのは、マンガの読み方として邪道なのかもしれない。
それでも、やはり思い出してしまうし、
思い出すからこそ、気づくことがあるものだ。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その5)

オーディオのロマン(ふとおもったこと)」は、2018年4月に書いている。

そこに、こんなことを書いている。

JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、と。
もちろんJBLで聴いている人すべてがそうだとはいわないし、
現在のJBLのラインナップのすべてを、ここに含める気もさらさらないが、
私がJBLときいてイメージするスピーカーシステムで聴いている人は、
やはりロマンティストだ。

このことを思い出していた。
こんなことを書くと、4343もそうなのか、という声があるはずだ。

マンガ「リバーエンド・カフェ」に登場するのは、実質的にJBLの4343である。
スタジオモニターとしての4343、
つまり検聴用である4343。

その音に、なぜロマンがあるのか、もしくは感じるのか。

録音という仕事用につくられたスピーカーシステムだろ、
その音にロマンがあるはずがない。

そういわれれば、そうである。
私も、そう思わないわけではない。

それでも、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストであるというし、
そういうスピーカーだからこそ、
「リバーエンド・カフェ」のあのシーンには、4343がよく似合う。

Date: 1月 15th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その21)

メーカー(ブランド)の論理とオーディオマニアの論理は同じではないわけだが、
そもそも、この二つの論理は違うものなのか、
両者のあいだに溝があるのか、もしくはズレているだけなのか。

ケース・バイ・ケースなのだろう。
とにかく同じであることは稀なのだろう、というか、
同じであることはないのだろう。

それはそれでいい、と思っている。
この両者の論理のあいだを埋めていく、
もしくは橋をかけていくのが、オーディオ評論家の仕事のはずだ。

それができてこそオーディオ評論家(職能家)だと思っている。

マークレビンソンのML50、マッキントッシュのいくつかのモデル。
これらに共通するパチモン的新製品について考えていると、
こんなことを思うとともに、これらのパチモン的新製品が登場してくるのは、
上書きしかできない人が増えて来つつあるのかもしれない、
上書きしかできない人が開発に携わっているからかも、とも思えてくる。

別項「2021年をふりかえって(その19)」で、
ゲスな人に共通しているのは、上書きしかできないことなのだろう、と書いている。

そうなのかどうかはいまのところなんともいえないが、
ふとそんな気がした。

同時に上書きだけしかできない人が作る新製品も、
上書きだけの製品にしかすぎず、それは新製品とは呼べない何かともいいたくなる。

Date: 1月 14th, 2022
Cate: 老い
1 msg

老いとオーディオ(若さとは・その8)

心に近い音について、あれこれ書いているところだ。
耳に近い音より心に近い音──、
私が嫌う老成ぶる若いオーディオマニアのなかには、
心に近い音を求めています、という人がきっといるように思えてならない。

若いうちから、心に近い音がほんとうにわかるものだろうか。
私は、この三年ほどぐらいから、心に近い音をなんとなく考えるようになってきて、
すこしばかり自信をもって心に近い音と書けるようになってきた。

若いオーディオマニアにいいたいのは、
若いうちから心に近い音を求めることはやらないほうがいい。

耳に近い音を求めてもいいのだ。
むしろ積極的に求めていってもらいたいぐらいだ。

その耳に近い音にしても、さまざまな音を求めて、そして出してきてこそ、
ようやくわかることのはずなのだ。

無理に、自分自身を小さな枠にはめ込もうとしない方がいい。
小さな壺のなかにこもってしまい、孤高の境地を味わうのが老成ぶることなのかもしれないが、
そんなことを若いうちにやっていて、何になるというのだ。

若いうちはお金もあまりなかったりする。
そのため、あえてそういうところに身をおいて、自分を誤魔化し続けているのが、
ラクといえば楽なのだろう。

それでしたり顔ができるのならば、その人的には満足なのかもしれない。
でも、それはオーディオでなくてもいいはずだ。

あえて、いまの時代にオーディオを趣味としているのであれば、
無茶無理をしてほしい。老成ぶるのだけはやめてほしい。

そんなオーディオをやっていては、どんなに齢を重ねても、
心に近い音は見つけられないようにおもえてならないからだ。

Date: 1月 13th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その20)

私には、マークレビンソンやマッキントッシュが、
自社製品のパチモン的新製品を出す理由が理解できない、というか、納得できない。

マッキントッシュは立て続けにパチモン的新製品を出してくる。
ということは、売れるからなのだろう。

売れるモノを作らなければならない──、
そのことはわかっている。

どんなにいいモノを作っても、売れなければ、それで終りである。
事業を継続するためにも売れるモノが必要となる。

それがパチモン的新製品だとしたら──。

これからもマッキントッシュからはパチモン的新製品が出てくる、と思っている。
マークレビンソンからも、ML50がすぐに完売でもしたら、
同じように続けて出してくる可能性もある。

ブランド(メーカー)の論理とオーディオマニアの論理は同じではない。
そのことはわかっていたつもりだった。

けれど、パチモン的新製品が続いていること、
拡がっていく気配があること、
そんな空気を感じとっているいまは、
それぞれの論理の違いをわかっていなかったと思い知らされている。

Date: 1月 13th, 2022
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その42)

別項「PCM-D100の登場」で書いているように、録音も自作である。
ソフトウェアの自作である。

私ぐらいの世代だと、中学生、高校生のころ、
カセットテープに、好きな曲ばかりを集めた、
いわゆる自分だけのベスト盤(テープ)を作っていた人もけっこういるはずだ。
それから友達に渡すためのテープを、同じように作っていた人もいよう。

私は、FM放送で聴きたい曲を録音するくらいで、
LPの音をカセットテープに録音して、それで聴くというのはやらなかった。

カセットテープに録音すれば、その分だけ音が悪くなるし、
音が悪くなることに時間と手間をかけることが無意味に思えたからだった。

やっと買えたLPを傷つけないためにも、
カセットテープに録音して聴いていた──、という話はよくきく。

その気持はわかるけれど、アナログプレーヤーの調整をきちんとやっていれば、
そうそうレコードの盤面(溝)は傷むものではないし、
それに粗悪なカートリッジではなく、きちんとしたカートリッジでかけることを、
私は重視していた。

それからカセットテープを交換する相手もいなかった。
とはいえ、カセットテープにそうやって録音していく行為は、自作の一歩ではある。

CDをリッピングしたり、ストリーミングを利用している人が、
プレイリストを作る。
これもカセッテープに好きな曲を集めて録音(ダビング)していたのと同じ行為、
そんなふうに思えてくる。

TIDALもプレイリストを、当然作れる。
けれど、プレイリストをまったく作っていない。

カセッテープに好きな曲を集めて聴くのと、
TIDALでプレイリストを作って聴くのとでは、音質の劣化が生じないという違いがある。

どんな最新の注意を払って、最高の機種で録音したところで、
カセットテープへのダビングでは、音質が少なからず悪くなる。

けれどTIDALでどんなプレイリストをつくろうとも、
そのプレイリストのまま再生しても、プレイリストを使わない時の音と、
違いはない、といえる。

ならばプレイリストを作ったほうが、聴きたい曲をすぐに聴けるというのはわかっている。
それでもTIDALで頑なにプレイリストを作らないのは、
プレイリストを作ることで、聴く音楽の範囲が狭められるような感じがするからだ。

Date: 1月 12th, 2022
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと・その4)

ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
私にとっての「オーディオ」はまさにこれであり、このことを問い続けていくしかない。

Date: 1月 12th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その76)

オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう。
上書きしかできない者は「心に近い」音を求めることは無理なのかもしれない。

Date: 1月 12th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その19)

マークレビンソンもマッキントッシュも、創業者の名前がつけられたブランドである。
この二社だけでなく、他にも創業者の名前がそのままブランドになった会社はいくつもある。

創業者はいつかは、そのブランドからいなくなる。
会社から去っていくこともあるし、この世から去っていくこともある。

創業者がいなくなれば、そのブランドも変っていく。
そういうものであり、その変化は嘆くことではない。

そうとわかっていても、今回のマークレビンソンのML50、
マッキントッシュのいくつかの製品を見ると、そういうこととは何か違うような気がしてならない。

創業者が去ったことだけによる変化なのだろうか──、と思ってしまう。
投資会社に買収されたことによる変化だけなのだろうか、とも思う。

陳腐なことをいうんだな、と笑われそうだが、
愛の不在だ、としか、いいようがない。

ルコントを再建したベイクウェルには、愛があった。
だからこそ、といえる。

いまマッキントッシュ、マークレビンソンに残っている人たちに、
同じ意味での愛はあるのだろうか。

愛ゆえのパチモン的新製品だとしたら、もうほんとうに終りでしかない。

同時に、ルコントは洋菓子のブランドである。
洋菓子は嗜好品である。

ではオーディオは?
そのあたりのことも考えているわけだが、
ここから先は、ここでのテーマとは大きく離れてきそうなので、割愛する。

Date: 1月 11th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その18)

マークレビンソンのML50が、つい最近発表になったばかりだから、
ついML50だけを取り上げてしまったけれど、
ML50だけではない、自らのブランドのパチモンを出してくるのは。

ここ数年のマッキントッシュの一部のモデルは、
マッキントッシュのパチモンとしか思えないかっこうをしている。

「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」よりも早く、
「マッキントッシュがマッキントッシュでなくなるとき」がおとずれていた。

ただ、こちらも、現行のラインナップのすべてがパチモン的なわけではない。
マッキントッシュらしいアンプもある。
けれど、パチモン的新製品が、あまりにもパチモン的すぎる。

今回のマークレビンソンのML50が、いまのところ、これ一機種だけである。
ML50があっさり限定台数が売り切れてしまったりしたら、
この路線が今後続いていくことだって考えられる。

でも、いまのところML50だけである。

マッキントッシュは、もうそうではなくなっている。
一つ一つ機種名をあげたりは、もうしない。
別項で、これまで書いてきているからだ。

こういうパチモン的新製品を見るのは、つらい。
特に、昔憧れていたブランドの製品だと、よけいにそうである。

オーディオ・ブランドも、いまや投資対象であり、
一つのブランドがある会社が買収し、また別の会社に買収され──、
そんなことがけっこう続いている。

買収されることが、すべて悪とは考えていないけれど、
時にはそう口走りたくなることがある。

別項「オーディオと偏愛(その4)」で、ルコントのことを書いている。
だからよけいにML50の写真を見ていると、愚痴ってしまいたくなる。

Date: 1月 10th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その17)

一年ほど前の(その16)で、この項は終りのつもりでいた。
けれど、いまこうやって、また書いているのは蛇足かもしれないと思いつつも、
やっぱり書いておこう、という気持のほうが強い。

その1)は七年ほど前。
だから、少しくり返しになるが、黒田先生の「風見鶏の示す道を」のことを書いておく。

《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》

ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。

駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
     *
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
     *
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。

13歳のときに、「風見鶏の示す道を」を読んでいる。
それだけに記憶に強く残っている。

どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。

このレコード(録音物)だけが、行き先を告げてくれる。
けれど、その携えているレコードを、乗客(聴き手)は、どうやって選んだのだろうか。

嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードが示すのは、
どこまでいっても、耳に近い音なのではないだろうか。

心に近い音を示してくれることはないはずだ。

Date: 1月 10th, 2022
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その43)

つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。

Date: 1月 9th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その17)

別項で「オーディオがオーディオでなくなるとき」を書いている。
そこで、「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」についても、
考えて書いていきたい、としている。

今回マークレビンソンのML50の写真を見て、まず思ったのは、
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」が、
いよいよ来たな、だった。

個人的には、マーク・レヴィンソンが離れた時点で、
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」だったわけだが、
それでもNo.20は、新体制の意気込みを感じさせるに足る製品で、
あえて、そんなことを言葉として発することはしなかった。

mark levinsonのロゴも少し変更になってから、
ずいぶん変ってしまったなぁ……、とは感じていた。

でも今回のML50を見ていると、
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」が来たな、と感じたのは、
マークレビンソンがマークレビンソンのパチモンを作ってどうするんだ!──、
そういう想いが根底にあるからだ。

しかも創立五十周年記念モデルである。
どういう発想から、こんな製品を出すことになったのだろうか。
ここが、ほんとうに知りたい。

私がオーディオに興味をもった1976年において、
マークレビンソンのLNP2とJC2は、すでに高い知名度と評価を得ていた。

その約一年後にML2が登場した。
ほんとうにわくわくして、その登場を待っていたし、
実際のML2の音を聴いた時は、衝撃でもあったから、
LNP2の登場に、当時、衝撃を受けた人たちの気持はわからないわけではない。

そのマークレビンソンが五十年を迎える。
その記念モデルがML50とは、なんとも寂しい、という気持以上に、
落ちぶれてしまった感が強い。

しかも現行のラインナップもそうであるならば仕方ない、とあきらめるしかないのだが、
そうではないのだから、よけいに理解に苦しむ。

Date: 1月 9th, 2022
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その8)

別項「B&W 800シリーズとオーディオ評論家」を書きながら、
この項のテーマを思い出していた。

B&Wの800シリーズのスピーカーシステムは、
感覚の逸脱のブレーキなのか、
それともアクセルなのか。

もしかすると、そのどちらでもなく自動運転のようなものなのか。