Archive for category テーマ

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その9)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版には、
SAEのMark 2500も登場している。

この「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での試聴がきっかけとなって、
瀬川先生はMark 2500を買いこまれてしまった。
そのことは、テスト後記にも書かれている。

で、ここでまたテーマから逸れてしまうのだが、
瀬川先生のテスト後記には、ジュリアン・ハーシュのことが出てくる。

ジュリアン・ハーシュといって、いまはどのくらい通じるのだろうか。
ジュリアン・ハーシュの名前は知らなくても、
アンプの理想像の代名詞的に使われる“straight wire with gain”。

この表現を使ったのが、ジュリアン・ハーシュで、
彼はアメリカのオーディオ誌“Stereo Review”の書き手の一人である。

瀬川先生は、ジュリアン・ハーシュについてこう書かれている。
     *
 もっとも、アメリカのオーディオ界では(いまや日本でも輸出に重点を置いているメーカにとっては)有名なこの男のラボ(自宅の地下室)に招かれて話をした折、こんな男の耳など全くアテにならないという印象を持ったほどだから、ハーシュの(測定や分析能力は別として)音質評価を私は一切信用していないのだが、右の例を別にしても、国産のアンプが海外ではそれなりに高い評価を受ける例が少しずつ増えていることは事実なのだ。
     *
これを読んでどうおもうかは、その人の勝手(自由)である。

話を元にもどそう。

Date: 4月 6th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その8)

瀬川先生は、GASのアンプの音について、
《もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じ》と語られているが、
このことについては補足が必要だろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版で、こう語られている。
     *
 音は、ぼくの聴き方ではやや太っているんだけれど、それはたとえば太ったいやらしさじゃなくて、いかにもあるべきところにきちんと肉がついていて、安定感がよくどっしりと地面に立っているという安心感を感じる。だから、どのレコードを聴いても、もうこのアンプで聴いていれば本当に安心できるという気がするわけです。
 しかし、このアンプを自分で買うだろうかと考えると、必ずしもそうはいえないわけです(笑)。なぜかということを考えていたんですけれども、一つのたとえでいえば、このアンプは男性的な音だと思うんです。立派な、見事な男と会っている、あるいは眺めているような感じの音で、ぼくは自分が男だから゛やはりもう少し女っぽくないとやりきれないところがあるんです。同じ言葉をしゃべっても、男がしゃべるのと女がしゃべるのとの違いみたいなもので、ぼくはやはり女がしゃべってくれた方が魅力を感じるわけですね。その意味でテァドラ+アンプジラはとても男性的だし、LNP−2と510Mは比較の上で女性的です。
     *
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でも、
井上先生、黒田先生は試聴メンバーである。岡先生も入っている。

「HIGH-TECHNIC SERIES 3」の巻頭座談会とあわせて読むことで、
瀬川先生がどういう音を求められていたのかが、よりはっきりと浮び上ってくる。

少しテーマから逸れてしまうが、
ステレオサウンドの瀬川冬樹著作集「良い音は 良いスピーカーとは?」、
このムックに不満があるのと、こういう点である。

合わせて読むことで、瀬川先生がどういう音を求められていたのか、
それを知る手がかりになる記事の掲載という視点が欠けている。

そういう視点を持った編集者が、ステレオサウンドという会社にはもういないのだろう。

Date: 4月 6th, 2022
Cate: 輸入商社/代理店

十数年前のことを思い出す(その3)

2019年10月9日、
メリディアンの輸入元が、12月からオンキヨーになる、ということを聞いた。

驚きよりも、大丈夫なのか……、という不安の方が大きかった。
予感は的中することになった。

2019年12月からだったのが、2020年1月に、というふうになったし、
2020年1月になっても、オンキヨーのウェブサイトにメリディアンのページが作られることはなかった。

2020年、2021年、オンキヨーは何もしなかった、
何もできなかった、といっていい。
オーディオ雑誌にメリディアンが登場することはなかった。

やっと、そのメリディアンの輸入元がハイレス・ミュージックになる。
ハイレス・ミュージックが再開することになったわけだ。

こういう例は珍しい。
その1)で触れたジャーマン・フィジックスは、輸入元が変り、
数年後には取り扱い中止。結局、どこも扱わなくなってしまっている。

メリディアンはそうならなかった。
そうなる可能性もあった、と思っている。

ハイレス・ミュージックが再開しなければ、どこも手を上げなかっただろう。

Date: 4月 5th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その7)

GASのアンプの音のことで思い出すのは、
ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 3」である。

アンプの別冊ではなく、トゥイーターの別冊である。
なのにGASのアンプの音に関連して思い出すのは、巻頭座談会があるからだ。

JBLの4343のトゥイーターを、他社製のトゥイーター五機種につけかえての試聴。
井上先生、黒田先生、瀬川先生による試聴と座談会である。

ピラミッドのリボン型トゥイーターのT1のところ、
瀬川先生が、こんなことを語られている。
     *
瀬川 この「ピラミッド」の音を「2405」との比較でいうと、たとえば、アンプの聴き比べをしている時の、「ガス」対「マークレビンソン」の音のように思えてならないのです。「2405」の場合にはいまも三人三様の言い方をしたけれども、かなりくまどりのはっきりした、いわば言葉に出していえる差みたいなものが表に押し出されて、そこがたいへん快くもある。あるいはそれが少し硬めの艶を乗せて快く聴かせる。と同時に、玄の音などで、やや金っ気を混ぜて聴かせるという、いやみな点もある。これは「マークレビンソン」のアンプにもあるのですけれど、あのいかにも線の細い、高域を少し強調するところですね。それが「マークレビンソン」をきらう人にとっては相当気になる部分だとぼくは解釈している。
 ただ、ぼく個人の言い方をすれば、それは大変好きな部分なんです。それが「ガス」系のアンプにすると、もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じで、そして、高域のキラキラ光ったところが抑えられてくる。つまり、トータルで言えばより自然になったという言い方が成り立つと思うのです。「ピラミッド」をスーパートゥイーターにつけた「4343」は、あらゆる楽器に対してここにいるぞ、ここにいるぞみたいなことを言ってこないで、ごく自然に目の前に展開したという印象が強いんです。
     *
「HIGH-TECHNIC SERIES 3」を読んだ時、
マークレビンソンのアンプは数回聴いていた。
でもGASのアンプは聴く機会がなかった。

それもあって、2405とピラミッドの音についての座談会を、
私はマークレビンソンとGASの音の違いについてのことでもある──、
そう受けとりながらくり返し読んでは、その音を想像していた。

念のため書いておくと、
ここでの「マークレビンソン」のアンプとは、
LNP2であったりML1(JC2)であったりするわけで、ML7以降の音のことではない。

Date: 4月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

グールドの「熱情」

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番には、
「熱情」という通称がついている。

この通称にとらわえてしまうと、演奏の評価を誤ってしまうのかもしれないが、
それでもグレン・グールドの「熱情」は、
グールドによるベートーヴェンの他のピアノ・ソナタほどには際立っているとは、
これまで感じたことはなかった。

「熱情」をそれほど聴くわけではない。
他のピアニストの演奏でも、それほど聴かない。

昨年、TIDALでグールドのコロムビアでのすべての録音がMQA Studioで聴けるようになってから、
すべてのアルバムを聴き直しているところ。

今日は、「熱情」がおさめられているアルバムを聴いていた。
前回、グールドの「熱情」を聴いたのがいつだったのか、
正確に思い出せないほどにひさしぶりのグールドの「熱情」となった。

第二楽章を聴いていて、ハッとした。
こんなに美しかったか、とハッとした。

ピアノの演奏よりも、むしろグールドのハミングの美しさに、ハッとしたものだった。

MQAだからなのだ、と勝手に思っている。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その44)

つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(ABBA・その3)

昨年11月に出たABBAのひさしぶりのアルバム“Voyage”は、
MQA(96kHz)で聴ける。

“Voyage”の発売に合わせて、
これまでのアルバムもMQAで聴けるようになるのか、と期待していたが、
そんなことはなかった。

6月1日に、CDボックスが出る、という。
ということはリマスターでの発売なのか、
だとしたらTIDALでMQAで、今度こそ聴けるようになる──かもしれない。

ABBAのボックス発売のニュースを見ても、
リマスターされたのかどうかははっきりしない。

それでも期待しているし、
今回MQAで聴けるようにならなければ、当分無理であろう。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その7)

インターネットが普及して、
ヤフオク!も広く浸透しているからこそ、
今回のケースのように、THAEDRAを格安で、
それだけでなく家から一歩も出ずに手に入れることが、
つまり再会することができた。

以前だったら、THAEDRAが欲しい、
もう一度THAEDRAと思い立ったら、
中古オーディオ店を巡回していくか、
オーディオ雑誌の売買欄をこまめにチェックしていくしかない。

どちらにしても労力は、けっこうなものである。

それがいまや椅子に腰掛けたまま、iPhoneを触っているだけで済む。
手軽すぎる、といってもいいくらいである。

でも、だからといってありがたみが薄れるわけでもない。
20代のころ、SUMOのThe Goldを手に入れたときも、今回の件に近かった。

The Goldが欲しい! と思うようになった。
12月だった。
ステレオサウンドの最新刊も出たばかりで、ちょうどぽっかりと時間が空いていた。

出社していたけれど、ふらっと会社を抜け出して秋葉原に行った。
なぜだか、予感があったからだ。

ダイナミックオーディオに行った。
The Goldが、そこにあった。
私を待っていたかのように、そこにいた。

隣にはTHAEDRAもあった。
両方とも欲しかったけれど、この時はThe Goldだけしか買えなかった。
予算が足りなかった。

The Goldは、こんなふうにしてあっさりと自分のモノとなった。
不思議なものだ。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その6)

20代のころ、GASのTHAEDRAを使っていた。
1980年代後半である。

THAEDRAが登場して、ほぼ十年経ったころの話だ。
なので、そのころTHAEDRAを使っていた人も少なくなかったし、
THAEDRAを使っている、と周りのオーディオマニアにいったとしよう。

その時、「いまさらTHAEDRAねぇ……」という人はいなかった、といってよいだろう。
それから三十年以上が経ち、
「THAEDRAをヤフオク!で落札した」と不用意にいおうものなら、
「いまさらTHAEDRAねぇ……」と返してくる人はいる──、と思う。

たとえば、これがTHAEDRAではなく、マランツのModel 7だったらどうだろうか。
「いまさらModel 7ねぇ……」という人はいるだろうか。

おそらくいるだろうけれど、
「いまさらTHAEDRAねぇ……」という人よりもずっと少ないように思う。

MODEL 7はTHAEDRAより、ずっと以前に登場している。
なのに「いまさらModel 7ねぇ……」という人はずっと少ない。

理由はいくつか考えられる。
そのうちの一つは、資産価値ということがあるように感じられる。

いまマランツのModel 7の中古相場は高騰している。
百万円を超える場合も珍しくなくなってきている。
三百万近い値がつけられていたケースもある。

私がオーディオに興味をもったころ、1976年ごろは三十万円ほどだった。
そのころ登場したTHAEDRAの定価は六十六万円だった。

それから四十年以上が経ち、Model 7の相場は高くなる一方で、
THAEDRAの相場は低くなってきている。

低くなってきたからこそ、今回私は三万円ほどで手にすることができたわけなのだが。

Date: 4月 2nd, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その12)

32、65、29、46、49、45、37、29、43、22、36、20、40、38、24。
28、32、25、26、28、46、29、41、29、37、35。

上が「コンポーネントステレオの世界 ’77」に登場する架空読者の年齢、
下が「コンポーネントステレオの世界 ’78」での架空読者の年齢である。

ステレオサウンドは、組合せの別冊を出さなくなって、かなり経つ。
もしいま出したとしても、この時の「コンポーネントステレオの世界」のように、
架空読者からの手紙を掲載しての組合せという形はとらないだろう。

それでも、もしこの時の「コンポーネントステレオの世界」と同じことを、
いまやろうとしたら、架空読者の年齢はどうなるのだろうか、
をちょっと想像してみてほしい。

50代、60代、70代の読者が中心となるのだろうか。
でも、そういった年代の人たちがステレオサウンドに、組合せの相談をする──、
そういう設定に、もう無理があるような気もするから、
20代、30代の読者を中心として想定するのだろうか。

20代、30代の人たちが聴く音楽を、どう設定するのだろうか。
どんなレコード(録音物)を持ってくるのだろうか。

「コンポーネントステレオの世界」の’77年版と’78年版では、LPだけだった。
いまの状況は、もうそうではない。
パッケージメディアにしてもいくつかあるし、
ストリーミングがメインという人もいるわけだから。

「コンポーネントステレオの世界」の2023年版がもし出るのならば、
想定する読者(聴き手)次第では、そうとうに面白い内容に仕上げられるのではないか。

Date: 4月 1st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ブルーノ・ワルターの「田園」(その2)

ワルター好きの何人かの知人の口から、
そういえば「田園」について、なにかを聞いた記憶がない。

不思議なもので、数人の知人がワルターの指揮について語るのは、
ブラームスについてが多かった。

たまたま、私の知人でワルター好きという数人がそうだった、というだけで、
多くのワルター好きの人がそうだとは思っていないのだが、
それでも、ごく少数のサンプルなのはわかっていても、
このことはなかなかに興味深いな、と感じている。

ワルター好きの知人も「田園」は聴いているはずだ。
なのに、ワルターの「田園」が素晴らしい、とは一度も聞いていないのはどうしてなのだろうか。

ブラームスの演奏については力説する知人なのに、
「田園」については何も語らなかった。

つまりはそれほどいいとは感じていないからなのだろう。
知人の性格からして、そうだ、といえる。

どうしてなのだろうか。

そういえば、内田光子が何かのインタヴューで語っていた。
ブルーノ・ワルターという指揮者は道端に花が咲いていたら、
立ち止って、その花を愛でる。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、気には留めても、
足を停めることはなく、そのまま進んでいく──、
これも掲載されている本が手元にないから、
記憶に頼っての引用でしかないが、
これは核心をついているのではないだろうか。

内田光子は、どちらが優れた指揮者か、といいたいのではなく、
二人の指揮者の違いについて語っていた。

交流が途絶えてしまったワルター好きの知人に、なぜ? と訊くことはしない。
訊いたところで、納得できる答が返ってくるとも思えない。

それはそれでいい。どうでもいいことだ。
とにかくワルター/コロムビア交響楽団の「田園」は素晴らしい。

Date: 4月 1st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ブルーノ・ワルターの「田園」(その1)

福永陽一郎氏は、ブルーノ・ワルターについて、
ベートーヴェンの『田園」交響曲を指揮するために存在した人──、
そういった書き方をされていた。

音楽之友社から出ていた「私のレコード棚から(世界の指揮者たち)」、
レコード芸術の名曲名盤、そのどちらでも書かれていた、と記憶している。

ワルター好きな人は、多い。
知人でもワルターの演奏を熱心に聴いている人が何人かいる。

さいわいなこと、というべきなのか、
ワルター好きの知人は、福永陽一郎氏の本を読んでいないようだ。
だからといって、こんなことが書かれているよ、と教えたこともない。

知人たちが福永陽一郎氏がワルターについて書いていることを知ったら、
なんというのだろうか。

福永陽一郎氏のワルターの評価は、高くないと記憶している。
いまどちらも本も手元にないので確かめられないけれど、
それでもワルターの「田園」だけは、絶賛といってもいいほどである。

ワルターはウィーン・フィルハーモニーとの録音もある。
1937年の録音である。
こちらも高く評価されているが、
1958年録音のコロムビア交響楽団との演奏は、さらに高い。

ワルターと「田園」交響曲について、
楽想と同心同体である──、
こんなふうに書かれていた、と記憶している。

福永陽一郎氏が書かれたのを読んだのは、20代のころだった。
もちろんワルター指揮の「田園」を買って聴いた。

名演だ、と感じたものの、
正直、福永陽一郎氏がそこまで高く評価される演奏だろうか──、とも思っていた。
それに、20代のころの私は、ベートーヴェンの交響曲に夢中だったけれど、
「田園」はあまり、というか、ほとんど聴かなかった。

その後も、そう変らなかった。
「田園」をすすんで聴くことは、そんなになかった。

ここ十年は、まったく聴いていなかった。
3月、何人かの指揮者の「田園」を、TIDALで聴いていた。

今日、ワルターの「田園」を聴いてみた。
MQA Studio(192kHz)で聴いた。

やっと福永陽一郎氏がいわれていたことがわかった。
ワルターという指揮者と「田園」交響曲の楽想は、
まさに同心同体という印象を受けた。

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その6)

1970年代に登場したトランジスターアンプをすべて聴いているわけではない。
なのにおもうのは、意外にもGASのTHAEDRAとSAEのMark 2500の組合せこそ、
マッキントッシュのC22とMC275のトランジスターアンプ版といえるのではないか、と。

C22とMC275の組合せ、C28とMC2105の組合せは聴いたことがある、
といっても、比較試聴しているわけではない。
それぞれ別の場所で、まったく違うスピーカーで聴いたことがある、というだけでしかない。

どちらのアンプの組合せも、新品同様の性能(音)を維持していたのかは、はっきりしない。
そういう状態での、いわば記憶のなかでの比較でしかないのだが、
C28+MC2105は、C22+MC275とはずいぶん違った方向の音のように感じてしまった。

もちろんC28+MC2105に、C22+MC275そっくりの音を求めていたわけではない。
私が感じている音の良さを引き継いでいてほしかった、というだけのことで、
私がそう感じないからといって、他の人もそうだ、とは思っていない。

また、その音を聴いてもいないのに、
THAEDRAを落札した時から、Mark 2500との組合せは、
私にとってのC22+MC275のトランジスターアンプ版といえる存在になってくれるのかも──、
そんな予感が生れてきた。

マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せも、
また充分魅力的なのだが、この組合せはC22+MC275のトランジスター版ではない。

LNP2とMark 2500の組合せも、ちょっと違う。
あくまでも感覚的なことでしかないし、
こんな感覚的なことは、誰かに理解してもらう、なんてこととは無縁のこと。

つまりは、書いても無駄なことなのかもしれないが、
それでも私にとって大事なのは、そう感じてしまった、ということである。

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その4)

1976年、「五味オーディオ教室」と出逢った私は、
その一ヵ月後くらいにステレオサウンドを書店で見つけた。

41号と別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」の巻頭は、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」である。
     *
 ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
 そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。しかし、少し視点をかえていうと、彼は、きかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
 しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね——という。そういって、いっこうかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうべートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね——というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができない。
 楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって、演奏家にきかされている——ということになる。
 レコードでは、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとりの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
 ここでひとこと、余計なことかとも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
 なぜなら、きかされていることを意識した時にはじめて、きこえてくる音楽に、みずから歩みよることができるからだ。きいているのは自分なんだとふんぞりかえった時、音楽は、きいてもらっているような顔をしながら、なにひとつきかせていないということが起こる。ききての、ききてとしての主体性も、そしてききてならではの栄光も、きかされることにある。
     *
中学二年の冬だった。
「風見鶏の示す道を」を、この時、くり返し読んでいてよかった、と思っている。

Date: 3月 30th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来た

三十分ほど前に、ヤフオク!で落札したGASのTHAEDRAが届いた。
SAEのMark 2500の上に置いて、眺めているところ。

ヤフオク!の写真のとおり、かなり程度はいい。
THAEDRAのリアパネルは酸化していたり、錆びついてたりしていることが、割と多い。

THAEDRAはヤフオク!に、よく出品されている。
このブログを読んで、THAEDRAを買ってみようかな、と思う人がいるのかどうかはわからない。
もしかすると一人くらいはいるのかもしれない。

そういう人に一つだけいえるのは、
リアパネルの写真がないTHAEDRAの出品は用心した方がいい、ぐらいである。
リアパネルの写真がなかったら、出品者に質問して写真を追加してもらった方がいい。

THAEDRAの音は──、というと、まだ音を出していない。
音が出ない、とあったわけだから、来週あたり、少し時間がとれるようになったら、
内部をチェック、分解掃除して、それからになる。

20代のころ、SUMOのThe Gold(中古)を買った時も、そうした。
丸一日かけてすみずみまで分解掃除して、それから電源投入。
それから一週間は、なにかあっても大丈夫なように、10cmのフルレンジを鳴らしていた。

安心して使えるという確信が得られてから、
当時鳴らしていたセレッションのSL600に接続したものだ。

今回のTHAEDRAも、同じようにする。

別項「サイズ考(SAE Mark 2500を眺めていると)」でも書いているように、
THAEDRAも、いま見ると、意外にコンパクトなコントロールアンプとして映る。

それからMark 2500もAGIの511もそうなのだが、
このころのアメリカのアンプの板金加工は、いい感じだな、と思ってしまう。

天板といっても平らな金属板ではなく、側版もかねているからコの字型である。
曲げ加工が施されているわけだが、そのカーヴが、アメリカのアンプだな、と感じさせる。

金属から削り出された筐体も魅力的ではあるが、
この時代の筐体も、私にはとても魅力的である。