MQAで聴けるバルバラ(その1)
昨年7月に「MQAで聴けるグラシェラ・スサーナ」を書いた。
MQA-CDでグラシェラ・スサーナが聴ける日が来る、とは、夢にも思っていなかったから、
発売リストにグラシェラ・スサーナの名前を見つけた時には、
ひとりガッツポーズをしたくらいだ。
今年10月に、またユニバーサルミュージックからMQA-CDが発売になる。
そこに、バルバラの名前があった。
またひとりガッツポーズをしてしまった。
昨年7月に「MQAで聴けるグラシェラ・スサーナ」を書いた。
MQA-CDでグラシェラ・スサーナが聴ける日が来る、とは、夢にも思っていなかったから、
発売リストにグラシェラ・スサーナの名前を見つけた時には、
ひとりガッツポーズをしたくらいだ。
今年10月に、またユニバーサルミュージックからMQA-CDが発売になる。
そこに、バルバラの名前があった。
またひとりガッツポーズをしてしまった。
音の量感という表現は、もうずっと以前から使われてきている。
質と量。
質感と量感。
わかりやすいはずの量に関することであっても、
そこに感がつくと、わかりやすいとはいえなくなっていることに、
どれだけの人が気づいているのか、と疑問に思うことが、むしろ増えてきている。
特に低音の量感とでもいおうものなら、
こちらが意図するのと真逆の印象で受けとられることだってある。
ひどくなると、トーンコントロールで低音をブーストすることイコール低音の量感、
そんなふうに捉えている人すらいる。
ステレオサウンド 55号のプレーヤーの比較試聴記事で、
《中音域から低音にかけて、ふっくらと豊かで、これほど低音の量感というものを確かに聴かせてくれた音は、今回これを除いてほかに一機種もなかった》
と瀬川先生は、EMT 930stについて書かれている。
930stの音を、量感について誤解している人は、ぜひ聴いてほしい──、
と以前は、そう思っていた。
とはいえ、このころでも、930stは、どこかへ行けば、すぐに試聴できるというわけではなかった。
自分で購入するか、友人・知人のオーディオマニアが持っていれば、そこで聴くか、
そのぐらいしか機会はなかった。
それでも930stを、きちんとした状態で聴いてから、音の量感について語ってほしい、
そう思い続けていた。
930stは遠の昔に製造中止になっている。
そうなると、930stを聴いてみてほしい、とは、もういえない。
仮にいまも930stが現行製品だとしても、そうとうに高価だろうし、
そう簡単に聴けるわけではないだろう。
もっと身近で手頃で、しかも、誰が聴いても(鳴らしても)、ほぼ同じに鳴ってくれる──、
この難しい条件を、MQAは満たしている、といえる。
8月23日に、テクニクスのSL-G700が発売になる。
数ヵ月に発表になっていた製品なので、製品の内容そのものについては省くし、
音も聴いているわけではないので、SL-G700そのものについて書くわけではない。
テクニクスは、ご存知のように小川理子氏を前面に打ち出している。
うまく利用している、ともいえる。
そのためだろう、オーディオ関係のサイトだけでなく、
いろんなニュースサイトでも、テクニクスが新製品を発表すると取り上げてくれる傾向がある。
SL-G700も発売が近づいているから、オーディオ関係のサイトはもちろん、
オーディオとは関係のないニュースサイトでも紹介されている。
昨日も今日も、そういうサイトをみかけた。
Googleで検索してみると、まだ他にもあった。
SL-G700はSACDも再生できる。
そのことよりも、私がここでSL-G700に関することを書いているのは、
MQA対応であるからだ。
つまり、オーディオに強い関心を持っていない人の目にも、
SL-G700のことは留ることだろう。
とすれば、MQAということにも、当然目が留る。
MQAについて、SL-G700のニュースを読んだからすぐに理解できなくとも、
少なくともMQAの存在を知ることにはなる。
7日にはワーナーミュージックからMQA-CDが発売になった。
秋にはユニバーサルミュージックからも、またMQA-CDが出る。
こうやってオーディオマニア以外の人たちにも、
MQA、MQA-CDのことが知られるようになってくることを期待できる。
この一点だけで、SL-G700の登場を歓迎したい。
LS3/5Aを聴いたのは、ステレオサウンドで働くようになってからだった。
そのころにはロジャースからだけでなく、
いくつかのメーカーからもLS3/5Aが発売されていたけれど、
私が初めて聴いたLS3/5Aはロジャースの15Ω仕様のモノだった。
そしてアナログディスクによる音だった。
プログラムソースがCDが主になってからのLS3/5Aは、11Ω仕様になっていたことが多い。
いつごろ15Ωから11Ωになったのか、もう忘れてしまったが、
私にとって聴く機会のあったLS3/5Aは、LPからCDへの移行とほぼ一致していたようだった。
もちろん11Ω仕様のLS3/5Aをアナログディスクで、
15Ω仕様のLS3/5AをCDで聴いたこともある。
それでも私のなかでは、
LS3/5Aの印象として、いまも強くあるのは、
15Ω仕様をアナログディスクで鳴らした時の音である。
その音こそが、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」での井上先生の組合せからイメージした音であり、
その後、瀬川先生の文章からイメージしたLS3/5Aの音である。
少し横路にそれるが、なぜオーディオ雑誌ではLS3/5AをLS3/5aと表記するようになったのか。
以前、別項「サイズ考(その6)」でも指摘したときは、
主にインターネットでの表記がそうだったが、いつしかオーディオ雑誌もそうなってしまった。
復刻版は、確かにLS3/5aである。
だから、それはそれでいい。
けれどオリジナルは、LS3/5Aである。
エンクロージュアに貼ってある銘板にも、LS3/5Aとある。
大文字か小文字か。
わずかな違いといえばそうであるが、
わずかな違いに一喜一憂するのがオーディオの面白さであると思っている私は、
いまのオーディオ雑誌が、以前のLS3/5AまでもLS3/5aとしてしまうのを目にすると、
この人たちのオーディオの楽しみは、わずかな違いなどどうでもいいんだなぁ、と思ってしまう。
今回もそうだが、高校生だった時も、
SB-F01との距離は1mよりももっと近い。
スピーカーとヘッドフォンのあいだくらいの聴き方とでもいおうか、
イヤースピーカー的といったほうがいいのか、
耳との距離は50cmぐらいしかない。
小さい音場である。
その小さな音場で音楽を聴きながら、
LS3/5Aの音のことを想像していた。
ロジャースのLS3/5Aのことは、
私にとって初めてのステレオサウンドである41号とともに買ったもう一冊、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」で、
井上先生が女性ヴォーカルを聴くためのコンポーネントとして、
そのためのスピーカーシステムとして知った。
このころからLS3/5Aで、女性ヴォーカルを聴きたい、とずっと思っていた。
なのに聴く機会はなかなかおとずれなかった。
瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時も、
LS3/5Aを聴くことはなかった。
そのオーディオ店には展示してあった、と記憶しているが、
買えるだけの余裕のない高校生が、店員に聴かせてほしい、とは言い難かったし、
それだけでなく、オーディオ店の騒がしさの中で、本領を発揮するスピーカーではない、
そのことは理解しているつもりだったから、きちんとした条件で聴きたい、
それだけを思っていた。
音色としてはLS3/5AとSB-F01はずいぶん違うだろうな、と思っていたが、
そこでの音場の小ささと、近距離での聴き方は、
どこかに通じるところがあるのかもしれない──、
そんなことを思いながら、SB-F01でいろいろ試して聴いていた。
そのことを今回、同じような位置関係で聴いていて思い出していた。
手元に片方だけ先バラにした赤白ケーブルがあった。
先バラにした方をフォーンプラグにハンダ付け、
もう片方がRCAプラグで、
SB-F01のヘッドフォン端子用にミニフォンプラグ(2極で、RCAジャックがついてる)と接続。
五分ほどの工作でケーブルが完成して、カセットデッキのヘッドフォン端子とSB-F01を結ぶ。
どのくらいの音量が出るかといえば、それほど大きいわけではない。
ラジカセのほうが、ずっと大きな音量で鳴る、といえるだろう。
でも、もともとそういう音量で聴くスピーカーではないし、
それにたまたま見つけたケーブルを使ったため、少々短かった。
SB-F01はカセットデッキの天板に置いた。
左右いっぱいに広げたかったけれど、ケーブルが短くて、
左右のスピーカー間は20cmくらいである。
そういう間隔だから、音量を上げたいとは思わない。
音量は、様々なことに最適音量が決ってくるもので、
左右のスピーカーの狭くて、スピーカーのサイズも小さいとなると、
音量も自ずと上限は決ってくる。
レベルコントロールの位置は、ほほ中央。
これで充分と思えた。
もっと上げることはできる。
それはわかっているけれど、上げる必要を感じない。
こんなことをやっていて、そういえば、高校生だったころ、
同じようなことをやっていた、と思い出した。
その頃使っていたサンスイのAU-D907 Limitedの上に、
やはりSB-F01を置いていた。
ヘッドフォン端子にではなくスピーカー端子に接いでいた点は違うが、
近距離で音量を絞って聴いていた。
AU-D907 Limitedにはターンオーバー周波数切替えのトーンコントロールがあるから、
低音は150Hz、高音は6kHzにして、絞りきって鳴らしていた。
時には低音を300Hz、高音を3kHzにしては、やはり絞りきって鳴らしてもみた。
それにサブソニックフィルターも入れていた。
とにかくナロウレンジの音を楽しんでいた。
テクニクスのSB-F01というスピーカーが、ずっと以前にあった。
手のひらにのるサイズの、
ヘッドフォンのドライバーをアルミ製エンクロージュアに取り付けた、ともいえるスピーカーである。
それゆえヘッドフォン端子に接続して鳴らすこともできるようになっている。
高校生のとき、私も買った。
買った、という人はけっこういる、と思う。
私が買ったSB-F01は、いまでも実家にある、と思う。
いま私の手元にあるSB-F01は瀬川先生の遺品である。
とはいえ毎日鳴らしているわけでもなく、
ここ数年はまったく鳴らしていなかった。
ふと思いついた。
カセットデッキに、SB-F01を接いで鳴らしてみよう、と。
まずカセットデッキのライン出力をSB-F01に入れてみた。
SB-F01は入力を二つもち、ヘッドフォン端子からの信号を受ける場合用に、
インピーダンスを20Ωとした端子も用意されている。
どのくらいの音量が出るのかな、と試してみたら、
やっぱりダメだった。
CDプレーヤーならば2Vの出力をもつが、
カセットデッキは340mVで、インピーダンスもさほと低くない。
蚊の鳴くなような音量しかとれない。
部品箱を探したら、フォーンプラグが見つかったので、
今度はヘッドフォン端子に接続する。
今度は大丈夫である。
別項「ブラームス ヴァイオリン協奏曲二長調 Op.77(その2)」で、
ジネット・ヌヴーのEMI録音がリマスターされて6月21日に発売される、と紹介した。
そして、MQAでの配信があるのではないか、と個人的期待を込めて書いた。
今日が6月21日。
e-onkyoのサイトを検索すると、“GINETTE NEVEU THE COMPLETE RECORDINGS”がある。
flacとMQAの両方がある。
(ちなみにジネット・ヌヴーで検索してもヒットしない。neveuで検索)
どちらも96kHz/24ビットである。
DSDもあればなぁ、と思うけれど、MQAがあるから、これはほんとうにうれしい。
SACDの登場は1999年5月。
20年が経ったわけで、ステレオサウンド 211号は6月発売だから、
特集はSACDなのかな、とは予想していた。
実際、211号の特集は「深化するSACD」とある。
進化ではなく、深化である。
そう、進化とは書けない。
20年経っていても、進化しているわけではない。
けれど、深化なのだろうか、とも思う。
「化」がつくのにも関らず……、と皮肉めいたことをいいたくなる。
ならば進歩ならぬ「深歩」か。
でも「深歩するSACD」では……、と感じる。
特集「深化するSACD」には、
「私のSACD名盤ベスト10」と「SACDプレーヤー開発陣が語るリファレンスディスク」の項目がある。
211号は6月4日の発売だから、まだ見ていない。
なので、ここでどんなSACDが取り上げられているのかはまったく知らない。
でも、ここで、ステレオサウンドが売っているSACDが、
何枚も登場してたりするのだろうか──、と思っている。
だとしたら、それをどう受け止めるかは読者次第である。
SACDは20年経っても進化しなかった。
進歩ではなく進化を期待する方が無理というものだ。
それはよくわかっている。
なのにこんなことを書いているのは、
「進化するCD」ということを考えるからだ。
MQAが出てきて、MQA-CDが誕生した。
MQA-CDは、はっきりとCDである。
MQA-CDは、CDの進化である。
中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてある。
*
つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
*
ジャクリーヌ・デュ=プレの演奏を聴くにあたって、
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のことは無関係で聴くのが、
音楽の聴き方として、正しいのかもしれない。
けれど、私がジャクリーヌ・デュ=プレを知ったときすでに、
ジャクリーヌ・デュ=プレは多発性硬化症に冒されて引退していた。
だからといって、
初めてジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を聴いたとき、
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のことなど頭にはまったくなかった。
聴き終ってからである。
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のこと、ジャクリーヌ・デュ=プレがどういう状況なのか、
そんなことをおもったのは。
中野英男氏が、ジャクリーヌ・デュ=プレの日本盤(LP)を、
二階の窓から庭に投げ捨てられた、その気持はわかる。
ジャクリーヌ・デュ=プレのチェロの音が、《荒寥たる乾き切った音》になってしまっては、
絶対に許せない。
中野英男氏が聴かれた《荒寥たる乾き切った音》とは、
また違う《荒寥たる乾き切った音》を聴いたことがある。
それでも、その音を鳴らしていた人は、
ジャクリーヌ・デュ=プレの演奏は素晴らしい、胸を打つ、という。
感動しているわけだ。
《荒寥たる乾き切った音》でも、その人は感動していた。
その人もオーディオマニアである。
私が求めているジャクリーヌ・デュ=プレと、
その人が出している(鳴らしている)ジャクリーヌ・デュ=プレは、
どちらもジャクリーヌ・デュ=プレなのか……。
それがオーディオだ、というしかないのだろう。
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を、
MQA-CDをメリディアンのULTRA DACで鳴らしたとしよう。
その人は、その音を聴いてなにをおもうのか。
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲は、
e-onkyoでも配信されている。
ただしジャクリーヌ・デュプレ、ジャクリーヌ・デュ・プレで検索しても、ヒットしない。
Jacqueline du Preでもダメで、
Jacqueline du Préで検索してようやくヒットする。
クラシックの演奏家は、カタカナで入力しても大丈夫なのに、
なぜかジャクリーヌ・デュ=プレは、正しく入力する必要がある。
ワーナーミュージックの音源として、
バレンボイムとのシューマンとサン=サーンスのチェロ協奏曲、
やはりバレンボイムとのドヴォルザークのチェロ協奏曲がある。
FLACとMQAがあり、どちらも96kHz/24ビットである。
エルガーのチェロ協奏曲は? といえば、ないわけではない。
ただ、SRT(Sound Recording Technology)レーベルからの発売である。
エルガーは、WAVとFLACのみで、MQAはない。
ジャクリーヌ・デュ=プレの、バルビローリとのエルガーのチェロ協奏曲は、
ずっと愛聴盤である。
いろんな盤を買っては聴いてきた。
私は、MQAで、ジャクリーヌ・デュ=プレを聴きたい。
となると、MQA-CDに頼るしかない(いまのところは)。
ワーナーミュージックのMQA-CDが発売になれば、
e-onkyoでも、ワーナーミュージックによるエルガーの配信が始まるのかもしれない。
でもいまのところ、告知はない。
ない以上、MQA-CDであり、
ひそかにMQA-CDは192kHz/24ビットなのかもしれない、とも期待している。
二日前の28日に、ワーナーミュージック・ジャパンからも、
7月24日にMQA-CDの第一弾が発売になる、と発表された。
ワーナーミュージックは、e-onkyoのサイトでMQAでの配信を行っている。
けっこうな数のタイトルがMQAで聴けるようになっている。
なので、MQA-CDをそのうち出すであろうとは、多くの人が予想していたと思う。
私もそう思っていたし、今年中にMQA-CDを出す、というウワサもきいていた。
どのタイトルが発売になるのかは、ワーナーミュージック・ジャパンのサイトで確かめてほしい。
私が個人的に喜んでいるのは、ジャクリーヌ・デュ=プレがあることだ。
それにシャルル・ミュンシュのベルリオーズの「幻想」だけでなく、
ブラームスの交響曲第一番がある。
クラシックに関してはEMIの音源を所有しているワーナーミュージックだけに、
期待は大きい。
当然、マリア・カラスもMQA-CDで出てくるはずだし、
個人的にはアニー・フィッシャーもMQA-CDで出してほしい。
今回のタイトル数はさほど多くはない。
それでも、第二弾、第三弾と続いてほしいし、
続くことで、他のメジャーレーベルからもMQA-CDが登場することにつながってほしい。
意外とご存知ない方がいるようなので書いておくが、
MQAはボブ・スチュアートが開発している。
MQA-CDは日本が開発した技術である。
それにしても、今回のワーナーミュージック・ジャパンのMQA-CD発売のニュースに対して、
オーディオ業界の闇のようなものを感じた──、
SNSで、そんな発言をみかけた。
こんなことを投稿する人は、MQA否定派のようである。
それはそれでいい。
なぜか、こういう人は、自分がいいと思っていない技術を、
多くの会社が採用するのには、何かよからぬ理由があるはずだ、と考えるらしい。
そこに、オーディオ業界の闇を感じるのか(陰謀論とかが好きな人なのかも)。
MQAを積極的に評価している。
MQAの音に触れる度に、
私の場合は、いまのところメリディアンによるMQAの音に限られているけれど、
それでも、MQAで、さまざまな録音、さまざまな楽器を聴いてみたい、と思うようになる。
そんな私がいま一番聴きたいとおもっているのが和楽器である。
三味線、琴、尺八を、MQAで聴いてみたい。
もちろんただ聴ければいいというわけではない。
優れた録音で、和楽器の音色がどんなふうに再現されるのか、
そこに興味がある。
そんなことをおもってはいても、
和楽器のMQA-CDを探していたわけではなかった。
たまたまtwitterを眺めていたら、
坂田梁山の“Ryozan”が5月に発売になっているのを知った。
知った時点では、MQA-CDだとは知らなかった。
リンク先のウェブページには、MQA×UHQCD仕様とある。
MQAで尺八が聴ける。
もうこれだけで聴きたくなってくる。
二年前に「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」について書いた。
この時はMQA-CDもULTRA DACも218の音を聴いていなかった。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」も、MQAで聴いてみたい。
いままで熱心に聴いてこなかった音楽へ、一歩踏み込む聴き方が出来そうな気がしている。
別項「メリディアン 218を聴いた(その12)」に、facebookでコメントがあった。
これまでならば、
「メリディアン 218を聴いた(その12・コメントを読んで)」というタイトルで書くところだが、
そのコメントを読んでいて、そうしなかった。
コメントをくださったTさんは、
私が218について書いてきたものに刺激され、試聴せずに218を購入されたそうだ。
Tさんは、これまでもMQA再生は、試されていたようだ。
MQA-CDではなく、MQAファイルを簡易的な再生で聴かれていた印象と、
218でのMQAファイルの再生とでは、明らかにレベルの違いを感じさせる音になって、
感心した、とあった。
こういうコメントをいただくと、素直に嬉しい。
そして、やっぱりMQAの音の良さを、きちんとわかってくれる人はいる。
この当り前のことがわかって、さらに嬉しい。
Tさんは、MQAフルデコードの音は、
「空気の量が増えた」印象がある、と書かれていた。
この「空気の量が増えた」が、タイトルを変えた理由になっている。
昔から、量感という表現がある。
私がオーディオに興味をもったころには、
もう当り前のように使われていたし、
音を表わす表現としても、かなり以前からあるものと思われる。
けれど、この、わかりやすく思える量感ですら、
人によって捉え方が違う、ということを感じることが増えている。
「空気の量」は、
私も「メリディアン 218を聴いた(その10)」で使っている。
そこでは、ULTRA DACと218の音の違いを表わすために使った。
まだ「メリディアン 218を聴いた」は書いている途中であり、
「空気の量」については、通常のCDとMQA-CDの違いについてでも使おうと思っていた。
そうなのである。
確かに「空気の量」が増す。
218での通常のCDとMQA-CD(私はまだMQAQファイルを聴いていないので)でも、
後者のほうが「空気の量」が増す。
ULTRA DACでも同じである。
MQA-CDでは「空気の量」が増す。
218とULTRA DACを比較すると、ここでも「空気の量」が増す。
この「空気の量」が増す感覚こそが、
私にとっての量感そのものである。
九年前、「音を表現するということ(その3)」で、
“RESOUNDING” ということばを、再生側の立場で、解きほぐしていいかえるならば、
“remodeling(リモデリング)”と”rerendering(リレンダリング)” になり、
RESOUNDING = remodeling + rerendering というより、
RESOUNDING = remodeling × rerendering という感じだ、と書いた。
「音を表現するということ」という別項で、
音のモデリング、レンダリングについて書いた。
さらに「re:code」でも、このことについて触れている。
モデリング、レンダリングにreをつけての、リモデリング、リレンダリングである。
録音されたものをオーディオを介して鳴らすという行為は、
私はこう考えている。
もちろん違う考え方、真逆の考え方をする人もいるわけで、
そういう人たちが、絶対に認めなくないのがMQAなのだろうか。
「音を表現するということ(その5)」で書いたことをもう一度書いておこう。
CDよりも、DVD-Audio、SACDのデータ量は多い。
パッケージメディアから配信へと移行していくことは、パッケージメディアの規格から解放されることでもあり、
受けて側の処理能力が高ければ、データ量はますます増えていくはずだ。
だが、どんなにデータ量が、CDとは比較にならないほど大きなものになったとしても、
どこまでいっても、それは近似値、相似形のデータでしかない。
マイクロフォンが変換した信号を100%あますところなく完全に記録できたとしても、
マイクロフォンが100%の変換を行っているわけではないし、
マイクロフォンが振動板が捉えた音を100%電気信号に変換したとしても、
そこで奏でられている音楽を100%捉えているわけではない。
それぞれどこかに取零しが存在する。
なにか画期的な収録・録音方法が発明されないかぎり、
どんな形であれ、聴き手であるわれわれの元に届くのは、近似・相似形のデータだ。
だからこそ、その相似形・近似値のデータを元にしたリモデリング、リレンダリングが、
聴き手側に要求され、必要とされる。