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Date: 11月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その4)

1992年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書いた。
グールドの没後10年目だから書いた。

22年が経って、1992年の「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」には欠けているものに気づいた。

録音、それもグレン・グールドが認めるところのスタジオ録音(studio productとはっきりといえる録音)、
それをデザインの観点からとらえていなかったことに気づいた。

そのことをふまえてもう一度「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書けるのではないか、
そう思いはじめている。

いつ書き始めようとか、そんなことはまだ何も決めていない。
それに、この項もまだまだ書いていく。
ただ、書けるという予感があるだけだ。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その18)

なぜ、プロフェッショナルではない、と私は言い切るのかといえば、
そういう手法を選択してしまった人たちは、
あれこれいうだろう、おまえが気づかないところまで細心の注意をはらってつくっているんだ、とか、
他にもいくつか、そういう人たちがいいそうなことは思い浮ぶが、
そんなことをではなく、プロフェッショナルであるならば問題解決を選ぶべきである。

にも関わらず問題回避を選んでいる。
だから、そういう人たちを私はプロフェッショナルではない、と言い切る。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その17)

コントロールアンプの入力端子のどれを使うかで音は変る。
以前のアンプ、フロントパネルの裏にロータリースイッチがあり、
リアパネルの入力端子からロータリースイッチまで配線を引き延している作りでは、
入力端子による違い、各入力間のクロストークは増える傾向にある。

ロータリースイッチではなくリレーを多用して、
入力端子からごく短い配線でメイン基板に接続し、そこでリレーによって切り替えを行うようにすれば、
各入力間のクロストークは大きく減少するし、入力端子による音の違いも減ってくる。

ゼロに近づけることができるけれど、決してゼロになることはない。
ならばいっそのこと入力端子を最少限にする。
つまりライン入力一系統にする。
そうすれば入力セレクターも省けるし、各入力間のクロストークも問題もなくなる。

そういうコントロールアンプはあったし、パッシヴフェーダーにもそういうものがある。
音質劣化の要素をなくすために、とか、音質最優先の設計を、そういう機種は謳う。

だがこの手の手法は、いかにもアマチュア的だ。
アマチュアが作るものであれば、これもありだが、
少なくとも製品化して一般市販するモノであれば、それはプロフェッショナルのつくるモノであってほしい。
もっといえば、プロフェッショナルのつくるモノでなければらない。

アマチュアでも思いつくことをプロフェッショナルと呼ばれている人がやる。
恥ずかしくないのか、と思う。

低価格でいい音という製品ならば、そういうアプローチもある。
そこまで否定する気はないが、非常に高価なコントロールアンプやパッシヴフェーダーでも、
そういう製品には、プロフェッショナルの矜恃はない。

以前、そういう製品に憧れ、そういうことをあれこれ夢想していたから、なおさらそうおもう。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その2)

こんなことを考えるのは、中学生のころ読んだ手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編の影響があるのかもしれない。

鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場する。
ふたりは出会い別れ、また出会う。
そこで鬼瓦をつくる。

茜丸の鬼瓦と我王の鬼瓦。ふたりの鬼瓦の違い。
ここで茜丸がとる行動。
我王は残った片腕も失う。

鳳凰編はそこで終りではなく、もう少し続く。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その1)

音楽は、一切の知識、一切の哲学よりさらに高い啓示であり、
自分の音楽をきいた人はあらゆる悲惨さから脱却してくれるだろうと、ベートーヴェンは言った。

五味先生の「西方の音」にそう書かれているのを遠い昔に読んでいる。

こう言っているベートーヴェンの音楽は、
ほんとうにベートーヴェンの自己表現なのだろうか、という疑問がある。
「西方の音」をはじめて読んだ時は、そんなことは思いもしなかった。

だがやたらと「自己表現が大切だ」的なことを目にしたり耳にしたりすることが多くなってきているから、
疑問をもつようになっているようだ。

オーディオでも、そんなことをいう人はけっこういる。
自分の音は自己表現である、だから自分の音を持つことが大切だ、という人がいる。

淡々と語る人いれば、力説する人もいる。
力説する人の、この手の発言をきいていると、
なぜこの人はこんなにも力説するのだろうか、ということに興味をもってしまう。

自分の音を聴いてくれ、そして自分の音を素晴らしい、といってくれ。
そういいたいわけではないだろうが、そうきこえてしまうことがある。

最近、私はいい音を追求していくことは、仏像をつくることに共通するのではないか、と考えるようになった。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その3)

studio productとはっきりといえる録音は、デザインである。
このことに気づいて、グレン・グールドがコンサートをドロップアウトした理由が完全に納得がいった。

グレン・グールド自身がコンサート・ドロップアウトについては書いているし語ってもいる。
それらを読んでも、はっきりとした理由があるといえばあるけれど……、という感じがつきまっとていた。

グレン・グールドが録音=デザインと考えていたのかどうかは、活字からははっきりとはつかめない。
けれどグールドには、そういう意識があったはず、といまは思える。
だからこそ、デザインのいる場所のないコンサートからドロップアウトした、としか思えない。

確かグールドはなにかのインタヴューで、
コンサートでの演奏は一瞬一瞬をつなぎあわせている、といったことを発言している。

それが聴衆と演奏者が一体になって築くもの、つまりは芸術(アート)だとするならば、
スタジオでの録音は、それもグレン・グールドのようなスタジオ・アーティストによるものは、
アートと呼ぶよりもデザインと呼ぶべきではないのか。

グールドは、こうもいっていた。
     *
私はアーティストには用はない。
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グールド以外のすべての演奏者がそうだといいたいのではない。
ただグレン・グールド自身はアーティストとは思っていなかったのかもしれないし、
呼ばれたくもなかったのだろう。

それはなぜなのか。
デザインということだ、と私は思う。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その16)

コントロールアンプには入力端子がいくつかついている。
Phono入力があり、Line入力、Tape入力がある。
最近ではフォノイコライザーを搭載しないアンプの方が多くなってきたようだし、
テープ関係の入出力端子も省かれる傾向があるから、Line入力のみのモノもある。

Line入力が4系統あったとする。
Line1、Line2、Line3、Line4、
CDプレーヤーだけを接続するのであれば、どのLine入力にするか。

たいていはLine1になる。
私も最初の音出しはLine1を使う。
ただ細かなチェックな意味もかねて、他のLine入力端子にも接続して音を聴く。

アンプによってだが、必ずしもLine1が音がいいとは限らない。
Line4がよかったりすることもある。

これはなにもアナログ入力に限ったことではなく、
D/Aコンバーターデジタル入力端子をもつコントロールアンプでも同じである。

入力端子が複数ついていれば、すべての端子でまったく音が同じということはますありえない。
これは入力端子だけではなく出力端子についてもいえることだ。

入力端子による音の違いが大きなアンプもあれば、気をつけなければあまり感じさせないアンプもある。
けれどすべての端子で全く同じ音がすることはない。

ソニーのTA-ER1は、この点でも見事だった。
どの端子に接ぎかえても音は変化はわずかであった。
こういう配慮がなされたコントロールアンプの先駆け的存在だった。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その3)

小学館はFMレコパルだけでなくサウンドレコパルも出版していた。
サウンドレコパルは月刊誌。略してサンレコと呼ばれていた。

この10年、いやもっと以前からサンレコといえばサウンドレコパルではなく、
サウンド&レコーディング・マガジンの略称として一般的には通じるようになっていた。

今回のFMレコパルの一号限定の復刊はDIME編集部によるものである。
なぜDIME編集部はサウンドレコパルではなく、FMレコパルにしたのか。

今回のFMレコパルの復刊号に「懐かしい」という気持を抱いた人たちは、
FMレコパルではなくサウンドレコパルの一号限定の復刊だったとしたら、
やはり懐かしいということになるのだろうか。

サウンドレコパルだったら、あまり話題にならなかったかもしれない。

今回のFMレコパルを読んだ人たちの懐かしいという気持は、
学生時代の友人、知人と久しぶりに会った時の懐かしいに近いか同じなのだろうか。

人は10年以上会っていなければ人によっては別人のように変っていることもある。
容貌も変る。
それでも10数年ぶりに会えば懐かしいということになるとすれば、
会った瞬間ではなく、なんらかの会話をしてからではないだろうか。
その会話も昔のことをふり返ってではないだろうか。

私も10年ぶりに会った経験がいくつかある。
最初は、懐かしいではなく、久しぶりだった。
そして話をする。それでも懐かしいという気持をもつことはなかった。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その2)

グレン・グールドはコンサート・アーティスト、スタジオ・アーティストと言っていた。
無論グールドは後者である。

前者がコンサートホールでの演奏を録音したものと、
後者が、studio productを理解しているスタッフと録音したもの。

後者の録音は、デザインであるはずだ。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その2)

FMレコパルの復刊号は売れているようだ。
すべての書店を廻っているわけではなく、近所の書店や大きめの書店を見た感じでは、好評のように感じる。

facebookでも、懐かしい、面白い、という声があった。
そういう人たちは私と同世代かすこし下の世代の人たちが多いようだ。

私には、懐かしいという気持が湧いてこなかった。
手に取った瞬間は、本の厚み、表紙の感じが、以前のFMレコパルの感触を思い出させてくれたけれど、
そこまで留りである。

内容に懐かしいという気持はなかった。

私はこのブログで、古いことも書いている。
ステレオサウンドのバックナンバーから引用することも少なくない。
だからといって、ステレオサウンドのバックナンバーを手にする時、懐かしいという気持は、
まったくないに近い。

われわれはLP、CDによって、古い録音を聴く。
10年前どころか、もっと以前の、モノーラルの録音も聴くし、
親が生まれる前の録音も聴いている。

それらの録音が行なわれたのと同時代に聴いてきたモノもあるし、
そうでなくレコードを聴きはじめる時代よりずっと前の録音も聴いているわけだ。

懐かしいという気持が湧くのは、あくまでもその録音が世に出た時に聴いてきたものに限られるはずだ。
過ぎ去った時に聴いていたものを、いま聴くことで懐かしいと感じることがある。
どんなに古くても初めて聴くものに、懐かしいという気持を抱くことはありえないことである。

古いからといって、どちらに対しても懐かしい、という気持は湧くことはまずない。
そして、少なくとも愛聴盤に関しては、まったくないといえる。

むしろ自分でLPなりCDを持っていない曲、
それも学生時代に耳にしていた曲が、なにかでふいに流れると懐かしいと思うことがある。

けれど、その懐かしいという気持は、ほんの一瞬であることが多い。
懐かしいと感じた曲が、いい曲であるならば、もう懐かしいということはどこへ行ってしまっている。
懐かしいという気持が最後まで残っているのは、そこまでの場合が多い。

古いと懐かしいは、同じではない。

懐かしいと感じるには、その対象に親近感、親密感をもっているかどうかであるのはわかっている。
だが古い録音を聴く、古いステレオサウンドを読むのと、
今回のFMレコパルの復刊号を読むのと同じことではない。

いまは2014年で、今回のFMレコパルは一号限りとはいえ2014年のFMレコパルとして出版されているからだ。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その15)

コントロールアンプの試聴では、試聴に必要な最低限の機器しか接続しないことが大半だ。
入力機器としてアナログプレーヤーとCDプレーヤーが、一機種ずつ程度である。

フォノイコライザーを持たないコントロールアンプであれば接続される入力機器は、
CDプレーヤー一台だけということになる。

だが現実にユーザーのリスニングルームではそういう例も少なくないけれど、
そうでないケースもまた多い。

CDプレーヤーにしても二台、三台持っている人もいるし、
チューナー、テープデッキを接続する人もいる。

アナログプレーヤーに関しても、一台のプレーヤーでもトーンアームをダブルにしている人もいるし、
一台のアナログプレーヤー、一本のトーンアームという場合でも、
カートリッジがMC型かMM型、MC型ならば昇圧手段はトランスなのかヘッドアンプなのか、
そういった違いがあり、それによってコントロールアンプは多少なりとも影響を受ける。

接続される機種の数、種類によって音は変化するし、
接続している機種の電源を入れるか入れないかでも音は影響を受ける。

だからコントロールアンプの理想としては入力端子すべてになんらかの機器が接続され、
すべての接続される機器の電源がオンの状態でも、まったく影響を受けないことが挙げられる。

実際にはこれは非常に困難なことであるし、
かなり高価なコントロールアンプでも、そういったことに配慮をはらっていないモデルも少なくない。
そういうモデルは、左右チャンネルのクロストークではなく、
各入力端子間のクロストークのチェックをすると、ボロを出すモノがある。

私がテストする機会があった範囲でいえば、ソニーのTA-ER1は十分な配慮がなされたコントロールアンプだった。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: 異相の木

「異相の木」(その11)

カートリッジ専門メーカーであるオルトフォンも、一時期スピーカーを手がけていた。
1970年代なかばごろである。

type 225、type 335、type 445というモデルが輸入されていた。
type 225が2ウェイで48000円,type 335が3ウェイで79000円、
type 445が3ウェイでダブルウーファー仕様で140000円(価格はいずれも一本)。

type 445はフロアー型となっていた。
とはいえ高さ68cmのエンクロージュアだから、
日本の感覚ではブックシェルフに分類されてもおかしくはない。

三機種ともスピーカーユニットはオルトフォン自社製ではなく、
オルトフォンと同じデンマークのスピーカーユニット製造メーカー、Scan Speak製。

オルトフォンのスピーカーシステムは1978年ごろには製造中止になっている。
後継機種も出てこなかった。
type 225はステレオサウンド 36号の特集「スピーカーのすべて」で取り上げられている。

あまり成功しなかったのだろう。
オルトフォンからはアンプも出ていた。
MC20と同時期に登場したヘッドアンプMCA76は、
デンマークの測定器メーカーとして知られるBrüel & Kjærのエンジニアが協力している、と聞いたことがある。
そうかもしれないし違っているかもしれない。

いまも昔もオルトフォンはカートリッジおよびカートリッジ関連以外の製品も作っている。
けれどいまも昔もオルトフォンはカートリッジの専門メーカーである。

だからこそ、もしJBLがカートリッジを手がけていたら……、と想像する時に、
こういうメーカーであるオルトフォンが参考になる気がしている。

それにオルトフォンがハーマン傘下にあった時期、試聴用のスピーカーはJBLの4343であり、
試聴レコードの多くはドイツ・グラモフォンのレコードだったことを、つけ加えておく。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その1)

手にされている方もおられるだろう、FMレコパルが一号限定で復刊した。
一週間前に書店に並んだ。
近所の書店には、取り扱っている店とそうでない店とがあった。
昼過ぎに行ってのことだから、すでに売れ切れだったとは考えにくい。

取り扱っている店は、平積みではなかったけれど、通常の置き方とは少し変え、目立つように並べてあった。
この書店の店主はFMレコパルを読んできた世代なのかもしれない、と思いながら、手に取った。

まず感じたのは本の厚さである。
当時のFMレコパルを手に取っている感じがよみがえってきた。

私のころはFM誌は三誌あった。
FMfan、週刊FM、それにFMレコパルである。
数年後にはさらに増えていき、いまはすべて消えていった。

三誌はどれも同じくらいの厚さだった。
それぞれに特徴のある編集だった。

復刊FMレコパルをめくっていくと、あのころのFMレコパルのテイストがきちんと再現されていると感じる。
このへんは、小学館という大きな出版社の強みかもしれない。

FM誌には必ずついていたFM番組表はついていなかった。
これにページを割くのであれば、他にやりたい企画もあっただろうし、いま番組表をつける意味、
特に一号限定の復刊ということからも番組表はなくて当然なのだろう。

あぁレコパルだな、と思いながらも、それ以上ではなかった。
当時もFMレコパルの読者とはいえなかった。
私が毎号買っていたのはFMfanだったこともある。

でもいま共同通信社がFMfanを一号限定復刊して、FMレコパルと同じレベルでの復刊であったとしても、
同じように感じるような気がする。

facebook、twitterでは今回の復刊を喜んでいる声がいくつもあった。
そういう声があがってくるのはわかるけれど、私はそうなれなかった。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 欲する

何を欲しているのか(兵士の物語)

ストラヴィンスキーの作品に「兵士の物語」があり、
ジャン・コクトーの語り、マルケヴィチ指揮によるフィリップス盤は録音の良さでも知られていた。
私が買ったのは再発盤。21ぐらいのときに買っている。

そのころは短かったけれど、頻繁に聴いていた時期でもあった。
コクトーの声が生々しかったのも、理由のひとつだった。

コクトーが最後の方で語る。

いま持っているものに、昔持っていたものを足し合わそうとしてはいけない。
今の自分と昔の自分、両方もつ権利はないのだ。
すべて持つことはできない。
禁じられている。
選ぶことを学べ。
一つ幸せなことがあればぜんぶ幸せ。
二つの幸せは無かったのと同じ。

このセリフだけがコクトーの声とともに印象に残っている。

幸せはひとつだから幸せなのかもしれない。
ふたつ以上の幸せを求めようとするから、幸せになれないのかもしれない。
そうなんだろうなぁ……、と思いながらも、実感はなかった。

いまも正直なところ、よくわからない、というか、実感していないような気がする。

でもほんとうに大切なレコードは一枚あればいいのかもしれない、とは最近思うようになってきている。
愛聴盤といってしまうレコード(LP、CD)は、決して一枚だけではない。
かなり厳選したとしてもそこそこの数にはなる。

その中に、一枚の大切な愛聴盤はすでにある。
私だけの話ではなく、ながくレコード(オーディオ)によって音楽を聴いてきた人ならば、
かならず、そういう一枚はある。

その存在にいつ気づくか、である。

Date: 11月 19th, 2014
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その8)

ナガオカ/ジュエルトーンのリボン型カートリッジの内部構造はサテンのMC型に似ているといっても、
ナガオカ・ブランドで出していたNR1とジュエルトーン・ブランドのJT-RIIIとでは、
リボンの配置と、リボンにカンチレバーの振動を伝えるアーマチュアの形に変更が見られる。

NR1はV字型のアーマチュアがありその両端にリボンが取り付けられている。
リボンはカートリッジの内部の左右両側に前から後に伸びるように配置されている。

リボンとはいうもののNR1では、実際に使われていたのは0.025mmφの銅線である。
乱暴な説明をするとMC型カートリッジのコイルをほどいて一本の銅線にした、ともいえる。
そのため銅線の長さはコイルに比べてかなり短くなる。
ローインピーダンス、低出力にどうしてもなってしまう。

ジュエルトーン・ブランドになると、アーマチュアが基本的にV字型であることに変りはないが、
大小ふたつのV字を組み合わせた形状、
つまり小さなV字に、大きなV字が上下逆に覆い被さるような形状である。

JT-RIIIもNR1同様、リボン型といっても実際には銅線で、
出力電圧を稼ぐために片チャンネルあたり2本になっている。
この銅線は上下逆のV字型アーマチュアに取り付けられている。

NR1とJT-RIIIではリボンの配置が水平か垂直かの違いがあり、磁気回路も異る。
JT-RIIIの出力電圧は0.04mV(5cm/sec, 1kHz)と、やはり低い。
JT-RIIIと同時代で出力電圧が低かったオルトフォンMC30の半分しかない。