あるスピーカーの述懐(その7)
(その2)で書いた伊藤先生の言葉。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」
試されている。
そう実感している。ほんとうにそう思うようになってきた。
同時に、聴き手(選び手)を試さなくなってきているスピーカーも増えてきたように思うようになってきた。
そういうスピーカーが、よいスピーカーだと認識されるように、次第になってきているのが現代なのだろうか。
これも以前書いたことなのだが、「わかりやすい」音のスピーカーが確実にある。
四年前にこう書いている。
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文章において、わかりやすさは必ずしも善ではない。
これはスピーカーの音についても、言える。
他者からの「承認」がえやすい音のスピーカーがある。
これも、いわば「わかりやすい」音のスピーカーのなかに含まれることもある。
この場合も、わかりやすい音は、必ずしも善ではない。
聴き手を育てていくうえでの、ひとつのきっかけにならないからだ。
優れたスピーカーとは何か、と問われたときに、
聴き手を育てていく、ひとつの要素となるモノ、と私は答える。
「オーディオにおけるジャーナリズム(その11・余談)」より
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聴き手を試さなくなったスピーカーは、
聴き手を育てなくなったスピーカーともいえよう。