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Date: 7月 8th, 2018
Cate: 五味康祐

続・無題(その10)

「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」は三万字をこえる。
1975年に発表された文章だ。

「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」を読まれていない方は意外に思われるか、
なかには、不誠実な、と憤慨される方もごくわずかいるのかもしれないが、
五味先生は、モーツァルトの弦楽四重奏曲第23番 K.590を聴かれていない。
     *
 私はモーツァルトの研究家では勿論ないし、一九五〇年以降、新たにザルツブルクの国際モーツァルト協会から刊行されている《モーツァルト・ヤールブーフ》など読めもしない。私は音楽を聴くだけだ。そしてまだ聴いたことのないのが実はこのプロイセン王セットの弦楽四重奏曲である。おそらく、聴きもしない作品で文章を綴れるのはモーツァルトだけだろう。一度も聴かないで、讃歌を書けるとは何とモーツァルトは贅美な芸術だろう。私も物書きなら、いっぺんは、聴いたこともない作品に就いて書いてみたかった。それのできるのはモーツァルトを措いていない。中でも最後の弦楽四重奏曲だろうと、モーツァルトの伝記を読んでいて思った。書けるのは畢竟、聴けるからだ。きこえる、幻のクワルテットが私にはきこえる、こういうそして聴き方があっていいと私はおもう。
     *
《聴きもしない作品で》三万字をこえる《文章を綴れるのは》、
五味先生がプロの物書きだから──、ではないはずだ。

Date: 7月 7th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その11)

BeymaSICAからも、
30cm口径のダブルコーンフルレンジユニットは、いまも発売されている。

Beymaはスペイン、SICAはイタリアのメーカーである。
両社から出ていたのは以前から知っていた。
けれど特に関心はなかった。
AXIOM 402を聴く以前だったからだ。

いまは積極的に聴いてみたい、と思っているし、
ヨーロッパのスピーカーユニットのメーカーのラインナップに、
大口径のダブルコーンのフルレンジユニットがいまも残っている理由も掴めた、と思っている。

Beyma、SICAのダブルコーンのフルレンジユニットは、そう高いモノではない。
普及クラスのスピーカーユニットである。
数百万円もするハイエンドオーディオのスピーカーシステムに搭載されるユニットとは、
お世辞にもいえない。

そういう世界とは別のところで、家庭で音楽を聴くことを目的として、
いまも製造されているスピーカーユニットではないのか──、
私はAXIOM 402を聴いて、そう考えるようになった。

多くを求める人には向かない。
多くの情報量を求める人には向かない。

けれど”Less is more”という。
そういう聴き方があることを、AXIOM 402の音は提示している。

Date: 7月 7th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その10)

アンプがなんであれ、シングルボイスコイルのフルレンジユニットのよさ、
ここではロクハン(16cm)以上の口径のフルレンジとしておくが、
中低域の魅力にあると感じている。

あくまでも優れたフルレンジということに限るのだが、
この中低域の良さ、魅力は、口径が16cmから20cm、20cmから30cmと、
口径が大きくなるとともに、豊かになってくるように、
今回AXIOM 402を聴いていて感じていた。

そこに(その5)で書いた量感の豊かさを感じるし、
そこにこそ大口径フルレンジの音の美がある、ともいえる。

量感と書いてしまうと、誤解されてしまうようなところがある。
クラシック音楽を長く聴いてきた聴き手と、
そうでない聴き手とでは、この量感に対するイメージは、そうとうに違っているように感じる。

量より質。
そんなことがいわれる。

オーディオの世界では、昔から音量で音質をごまかしている、
そんなこともいわれている。

そんなことが関係してなのか、量感という言葉に対して、
いい印象を抱いていない人が少なからずいる。

けれど量感も音を表現する言葉であり、
音の美に関係してくる音の要素である。

なのに、いつのころからか忘れられつつある。
特に、今回のように中低域の豊かな量感ともいおうものなら、
私が、そこでイメージしている音と、まるで真逆の音をイメージする人がいるのは、
昔から知っているし、いまもけっこういるようだ。

そういう人が、AXIOM 402の音を聴いたら、ひどい評価を下すだろう。
そこまででなくとも、ゆるい音とか、いうかもしれない。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その9)

グッドマンのAXIOM 402を鳴らすパワーアンプとして、
まっさきに考えたのがPASSのAleph 3だった。

audio wednesdayの常連のKさんのラインナップに、このアンプがあるのは知っていた。
他にもいくつかのアンプがあるのは知っていたけれど、
ここではAleph 3以外の選択肢は、私の頭のなかにはなかった。

Alephシリーズのパワーアンプは、
設計者のネルソン・パス独自の考えによる回路だということは知られている。

ここで、そのことを詳しく説明するつもりはない。
それに、その理論がほんとうなのかどうかも、なかなか判断しにくい。
それでも信念をもって設計されたアンプである。

通常のプッシュプル回路が上下対称なのに、
Alephシリーズの回路は上下非対称で、
プラス方向の出力がマイナス側よりもわずかに高い、という。

そのことがどう音に影響するのか、正確にわかるものではない。
ただコーン型スピーカーを真横からみればわかるように、前後対称に、
均等の力がかかっている(必要)とは考えにくい。

特にダブルコーンは、シングルコーンのユニットよりも、
振動板が前に動くときと後に動くときのエネルギーの差は大きいのではないか。

ならばダブルコーンのフルレンジに、Alephのような出力傾向をもつアンプは、
理屈としても合うのではないか──、
実をいうと、最初はそんなことまったく考えてなかった。
すべて後付けである。

ただなんとなくAleph 3がよさそうだ、と思っただけであり、
結果としてうまくいったから、そんなことを考えて書いたみた。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その6)

その5)の日付は、2014年7月。四年も開けてしまった。

その四年のあいだに、セブン・イレブンのコーヒーマシンも、
最初から日本語表記が加わるようになった。
それでも店舗によってはシールが貼られていたりする。

四年前と比べれば、シールの数、大きさも減って小さくなっているけれど、
それでもゼロになっているわけではない。

昨年からだったか、セブン・イレブンではカフェラテもラインナップに加わる。
それにともない、これまでのコーヒーマシンの幅をかなり広くして、
カフェラテにも対応できるマシンが設置されている。

このマシンの扱いが、また面白いというかおかしなことになっている。
そのまま設置してある店舗もある。
けれど、このマシンは、紙コップを置くところが二つある。

これまでのコーヒー用とカフェラテ用である。
注ぎ口を共通にしなかったのは、味とアレルギーにこだわってことだろう。

そういう造りだから、
二杯(コーヒーとカフェラテを一杯ずつ)同時に淹れることもできる。
けれど、実際にはどちらか一杯ずつである。

さほど大きくない店舗で、コーヒーマシンが一台のみだったら、まだいい。
客が多く訪れドリップコーヒーの売行きが多いところでは、複数台設置してある。

そんな店舗の中には、カフェラテ/コーヒーマシンに、べったりと貼紙がしてある。
いくつかの店舗でそうだった。

カフェラテ/コーヒーマシンなのに、カフェラテ専用マシンにしている。
貼紙にもそう書いてある。
コーヒーを淹れたい人は、これまでのコーヒーマシンでどうぞ、ということだ。

注意書きの貼紙だけでなく、
コーヒーを淹れるためのボタンの上にも貼紙がしてあり、
紙コップを置くところのアクリルのカバーにも、べったり貼紙がしてある。

ほぼ二台分の横幅をもつカフェラテ/コーヒーマシンなのに、
こういう扱いになっている。
ならば最初からカフェラテ専用マシンで、横幅を従来のコーヒーマシンと同じにした方が、
占有面積も減って、もう一台設置できそうである。

そんな扱われ方をしているのを実際に見てしまうと、
有名デザイナーによるデザインに、セブン・イレブンの人たちは、
何も疑問を感じなかったのか、と思う。

セブン・イレブンのドリップコーヒーは、売行きをみても成功している。
けれど、そのマシンに関してはそうはいえない。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その8)

なぜヨーロッパのフルレンジユニットは、こんなにも大口径なのか。
この疑問に拍車をかけた(といっては少し大袈裟なのだが)、
グッドマン、フィリップス、リチャードアレンの当時のウーファーの口径である。

グッドマンのAUDUIM 200は25cm口径、
フィリップスのAD8060/W8は20cm口径、
リチャードアレンだけが、25cm、30cm、38cm口径があった。

これはあくまでも当時日本に輸入されていたユニットということであって、
もしかすると輸入されていなかったウーファーがあったのかもしれないし、
それらには大口径のユニットもあったかもしれない。

そのころステレオサウンドが出していたHI-FI STEREO GUIDEが、当時の情報源だった。
ここにあげたユニットは、HI-FI STEREO GUIDE掲載のものである。

ウーファーよりもフルレンジユニットのほうが大きい。
その理由もよくわからなかった。

聴く機会がなかったことに、こういうことも加わって、
なんとなく大口径のシングルボイスコイルのフルレンジへの関心は、遠のいていった。

今回、喫茶茶会記にAXIOM 402が来なかったなら、
このままずっとそうだったであろう。
今回聴けたことは、私にとって小さくない収穫があった。

アンプに、あえて真空管を選ばなかったのも功を奏したかもしれない。
たとえばラックスのSQ38FD/IIが用意できたとして、
そこでの音にどう反応しただろうか。

音は確かに鳴らしてみないとわからない。
今回の30cmという口径の大きさに、少々のバイアスがかかっていた。
それでも鳴ってきた音を聴いて、それはなくなった。

そういうことがあるのはわかっていても、
今回のアンプの選択は、われながらよかった、と自画自賛している。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その7)

フルレンジユニットというのは、バランスである。
一発のユニットで、低音域も高音域も十全にカバーすることはまず無理である。

低音を出そうとして口径を大きくすれば、高域に無理を生じるし、
反対に口径を小さくしていけば、低域に無理が生じる。

ほどほどよい口径(バランス)というのは、
いわゆるロクハン(6インチ半、16cm口径)か20cm口径ということになる。

そういう感覚が当時は強かったから、
30cm口径のフルレンジ、たとえそれがダブルコーンであっても、
ヨーロッパのスピーカーらしい高域の繊細さは、なんだか望めないのではないか、
そんな気がしていた。

あのころ、これらのフルレンジユニットを聴く機会はまったくなかった。
実際に聴く機会があれば、その印象は変ってきただろうが、
ダイヤトーンのP610、フォステクスのFE103は聴く機会はあったのに対し、
ヨーロッパのフルレンジユニットは、実物を見る機会すらなかった。

その1)にfacebookにコメントがあった。
その方が中高時代に通っていた学校の音楽室には、
グッドマンのAXIOM 301をおさめたスピーカーシステムがあった、とのこと。

AXIOM 301も、30cm口径のダブルコーンのフルレンジユニットである。
なんともうらやましくなる音楽室があったんだな、と思う。

AXIOM 301でクラシック音楽を、中高時代に触れた世代と、
たとえば、1980年代の598のスピーカーが据えつけられていた学校もあったであろう、
そういう音楽室でクラシック音楽にふれた世代とでは、
音楽に対する感性、音に関する感性、響きに関する感性、そして量感に関する感性、
そういったところにずいぶんな違いが生じるのではないのか。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その6)

オーディオに興味を持ち始めたころ(1976年)、
市販されているフルレンジユニットの口径に関して、
なぜ30cmクラスの、フルレンジとしては大口径といえるユニットが、
ヨーロッパに多いのか──、その理由がいまひとつわからなかった。

国産のフルレンジユニット(ここではシングルボイスコイルのユニットを指す)、
アイデン、アシダボックス、コーラル、ダイヤトーン、フォステクス、オンキョー、
パイオニア、テクニクスなどから出ていたが、
最大口径はコーラルのBETA10とフォステクスのFP253、どちらも25cm口径である。

30cm口径の、シングルボイスコイルのフルレンジユニットはなかった。

ヨーロッパではグッドマン、フィリップス、リチャードアレンから、
30cm口径のフルレンジユニットが出ていた。

たった三ブランド?
少ないじゃないか、と思われるかもしれないが、
当時輸入されていたヨーロッパのフルレンジユニットのブランドは、
他にはセレッション、イソフォン、ジョーダンワッツ、ラウザー(ローサー)、
シーメンス、タンノイであり、
このうちセレッションは楽器用であり、
イソフォン、シーメンス、タンノイは同軸型2ウェイ。

シングルボイスコイルのフルレンジユニットを出していた五社中三社が、
30cm口径ユニットを出していた。
いずれもダブルコーンである。

このころの私にとって、ヨーロッパのスピーカーの音というのは、
BBCモニター系列のスピーカーの音によってつくられていた。
ゆえに、ヨーロッパの音イコール繊細な音、
そう思っていた私にとって、30cm口径のダブルコーンのフルレンジユニットは、
そのイメージから逸脱していたように感じていた。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その5)

カンターテ・ドミノに関しては、ステレオサウンドにいたころから、
かなりの回数聴いている。

その後も、いろいろな機会に、いろいろな場所で聴いている。
これまでに何回聴いただろうか。

ステレオサウンドにいたときに、同じくらい聴いたのが、
インバルのマーラーの交響曲の四番と五番だった。
でもインバルのマーラーは、その後、聴く機会はまったくなかった。

カンターテ・ドミノはSACDも、CDも、アナログディスクでも聴いている。
これからも聴く機会はあるであろう。

それだけ聴いているのだから、
聴き馴染んだディスクを聴いたあとにカンターテ・ドミノをかければ、
どういう鳴り方をしてくれるのか、ある程度の予測はできる。

なのに今回は、その予測が、いい方向に外れてしまった。
こんなによく鳴るの? と思うほど、いい雰囲気で鳴ってくれた。
SACDでの再生である。

カンターテ・ドミノのディスクにおさめられている情報すべてが音になっている──、
そんな印象ではないものの、必要にして充分の情報が提示されている。

十分ではないのか、といわれそうだが、7月4日に鳴ったカンターテ・ドミノの音は、
充分の方を使いたくなる、そういう鳴り方だった。

いろいろなディスクを聴いて感じる良さは、量感の豊かさにある。
こう書くと、誤解する人がけっこういると思うけれど、
そう表現するしかないよさがある。

Date: 7月 6th, 2018
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その18)

10日ほど前、「黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」を書いた。

最後、こう書かれている。
     *
自己の全人格を賭けてなどと、大袈裟なことをいうつもりはないが、少なくとも、これはと思った情報を伝える時には親しい友だちに伝えるときの真剣さを忘れべきではないと思う。
     *
いまから11年前に書かれている。
iPhone登場前であり、
SNSもmixiがあったくらいである。

黒田先生は、この文章を書かれた後の世の中の変化を、もうご存知ない。
いまなら、なんと書かれるだろうか、とおもうことがある。

《親しい友だちに伝えるときの真剣さ》とある。
けれど、いまはどうだろうか。

iPhoneに代表されるスマートフォンが、一人一台といえるくらいに普及していると、
そのディスプレイに表示されている情報を、
それこそコピペ(こうした略語は極力使わないようにしているが、ここではコピペがふさわしい)して、
親しい友だちに送信する。

手軽である。それだけにスピーディでもある。
わざわざ会って話して伝えるのにくらべて、ずっと楽である。

でも、そこで口コミは、もう口コミではなくなっていることが多いのではないか。
真剣さは、ここでも稀薄になりつつある。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その9)

その6)で、
「カールじいさんの空飛ぶ家」(原題:Up)という2099年の映画のことを書いた。

同じく2009年の映画である「スタートレック」でのセリフについて、
別項『「基本」(スタートレック・スポックのセリフより)』で書いている。

いまになってリンクしていることに気づく。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その8)

その1)を書いたのは2014年。
ぽつぽつと書いているテーマだ。

趣味なのだからなんと大袈裟な……、大仰な……、
そう思う人が少なくないであろうことはわかっている。

それでも書いていかなければ、と思っているテーマだ。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(軽い実験)

昨晩のaudio wednesdayでは、
スピーカーとは直接関係のないところで、ちょっと実験的なことをしてみた。

使用したコントロールアンプのLNP2のモジュールを、
途中で一部だけ交換してみた。

LNP2の借用をKさんに頼んだとき、
Kさんから、バウエン製モジュールにしますか、LD2モジュールにしますか、ときかれた。
LD2で依頼した。

届いていたLNP2はLD2モジュールが搭載されていた。
Kさんは、その他にバウエン製モジュールも持参されていた。

今回はグッドマンのAXIOM 402を鳴らすことがメインテーマだから、
モジュールについてそれほど時間は割けなかったが、
それでも以前から試してみたいことがひとつあった。

バウエン製モジュールとLD2モジュールの同居である。
一台のLNP2の中に、バウエン製とLD2を組み込む。
今回はINPUT AMPをバウエン製モジュールにしてみた。

けっこうな音の変化があった。
LD2で統一した方がいいのか、バウエン製モジュールとLD2の混成がいいのか、
これはもう好みかもしれない。

もし黙って聴かされて、
バウエン製モジュールのLNP2か、LD2モジュールのLNP2なのか、と問われたら、
バウエン製モジュールのLNP2と答えてしまうそうになるくらいの音の変化である。

これはじっくり時間をかけて、交換するモジュールの位置もあれこれ変えてみた上で、
どの構成が、どういう音になるのか試してみたい。

それでもごく短時間の試聴では、LD2で統一した方が、安心して聴ける。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: オーディスト, 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その33)

audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)という言葉がある。
ステレオサウンドでも、誌面に登場している。
いまから七年前のことだ。
山口孝氏が、使われている。

おそらく山口孝氏は、スラングとしてのaudistに、こういう意味があるのを知らずに使われたのだろう。
このaudist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)については、
別項『「オーディスト」という言葉に対して』で、ある程度は書いている。
書きたいことすべてを書いたわけではない。

まだくすぶっているのを感じている。
そして、そこでまったく触れなかったことがある。

オーディオマニアの中には、
偏見といわれるのは承知のうえだが、ハイエンドオーディオと呼ばれる世界のオーディオマニアの中には、
このオーディストがいる、と感じている。

ただここでのオーディストは、聴覚障害者差別主義者とまではいえない。
聴覚に障碍のある人を差別していないオーディオマニアであっても、
耳が悪い人を、どこか小馬鹿にするところがあるのではないか。

ここでの「耳の悪い」は、聴覚障碍ではなく、
聴覚検査では問題はなく健常な聴覚の持主であっても、
オーディオマニアとして耳が悪いと呼ばれてしまう、
微妙な音の違いがあまりわからない人に対して使われる「耳の悪い」である。

ハイエンドオーディオの世界のマニアの中には、
自分こそが鋭敏で、最先端の感性の耳の持主とでも思い上がっている人がいない、といいきれるか。

別にハイエンドオーディオの世界のマニアだけでなく、
ある程度以上のキャリアの昔からのオーディオマニアの中にもいよう。

それでもハイエンドオーディオを指向しているオーディオマニアの方に、
そんなオーディストが多いと感じていることこそが偏見なのだとわかっていても、
今回のavcat氏の一連のツイートに、
柳沢功力氏の試聴記に対しての反論というより、
柳沢功力氏に向けたかのように読めるツイートに、
そんなオーディストの澱のようなものを感じとれる。

そんなふうに読むのは、私ぐらいかもしれない──、
それもわかったうえで書いている。