黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)
黒田先生が亡くなられる数ヵ月前に、
モーストリークラシックに連載されていた「黒恭の感動道場」に書かれていたことを、
ここでもう一度引用しておきたい。
2007年7月号に載っている。
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テレビやラジオに情報番組といわれるものがある。雑誌には情報誌がある。
情報とは、『大辞林』によると、「事物、出来事などの内容・様子。また、その知らせ。ある特定の目的について、適切な判断を下したり、行動の意思決定をするために役立つ資料や知識」である。なるほど、と思いつつ、しかし、現在、あちこちに氾濫している、もろもろの情報番組や情報誌がはたしてその役割をはたしているのだろうか、と首をひねらないではいられない。
『大辞林』には「ある特定の目的について、適切な判断を下したり、行動の意思決定をするために役立つ資料や知識」とある。しかし、そのような役割をはたそうとするからには、そこでとりあつかう情報を適切に選択し、その情報を求めている人に役立つための知識を提供できるだけの充分な力を身につけた人が必要になる。
当然のことながら、ニュース、告知に毛の生えた程度のものは情報とはいわない。それにふれた人がそこから何らかのアドバイスがえられないかぎり、どうしたって、情報とは名のみのものにとどまらざるをえない。しかし、近年は、名のみの情報ならまだしも、情報擬きの、広告、宣伝的な内容の濃いものも少なくない。
釣りのほうに、撒き餌といわれるもがある。魚や小鳥を集めるために餌を撒くことをいう。表面的には情報を装いながら、実は撒き餌である例が少なくない。本来は「適切な判断を下したり、行動の意思決定をするために役立つ資料や知識」を提供しているような顔をしておいて、実態は単なる観客・聴衆動員のために一肌脱いでいるというのだから、たちが悪い。
困ったことに、その点での反省を忘れた編集者も少なくないように思う。ただ、情報が、それを受け取った人によって、いつでも、情報として信じられているわけではない、という事実も、当の情報を扱う人は忘れるべきではないであろう。撒き餌で集められた魚にも、魚ならではの知恵がある。苦い経験を何度か繰り返しているうちに、そうそうは撒き餌に騙されなくなってくる。
受け取り手に信じられなくなった情報はすでに情報とはいいがたい。派手に、大々的に、しかもまことしやかに伝えられる情報であったとしても、受け取る人が眉に唾をつけて受け取ったのでは、すでにその情報は情報としての機能をはたしていないことがある。
もっとも信頼すべき情報は友人知人から伝えられる情報である。友人知人からよせられる情報には営業的な思惑がからんでいない。その点でマスコミで伝えられる情報とは決定的に違っている。口コミ以上に信じられる情報は他にない、といわれるのは、そのためである。
おそらく、今、情報を扱う人は、さらに一層真剣で、慎重であるべきだと思う。話題になりそうな情報だからと、表面的な判断で目の前の情報を扱っていると、やがてそれを受けとめた人の信頼を失い、結局は、情報番組、情報誌としての機能を失わざるをえない。
自己の全人格を賭けてなどと、大袈裟なことをいうつもりはないが、少なくとも、これはと思った情報を伝える時には親しい友だちに伝えるときの真剣さを忘れるべきではないと思う。情報の発信源としての情報番組、情報誌としてのパワーはそこで生まれ、周囲への影響力も大きくなる。
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タイトルは「情報を扱う人に求められる、より一層の真剣さ」とついている。
いまこそ、黒田先生のこの文章を、じっくり読んでほしい、読み返してほしい。
オーディオ雑誌の編集者や筆者だけではない、
オーディオマニア全員も、だ。
11年前以上に、多くの人が簡単に情報を発信できる時代だ。
それも表面的な匿名のままで発信できる時代だ。
だから読み返してほしいし、何度も読んでほしい。