Date: 7月 27th, 2012
Cate: 純度
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オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、ということ)

結局オーディオマニアはわがまま、なんだと思う。
そのわがままを、どれだけ貫き通せるか、だと思う。

オーディオをながくやっている人は、わがままを貫き通している人でもあるし、
家族の方の理解・温情が得られているからでもある。

わがままは、オーディオマニアとしての純度なのかもしれない。
だから、音は人なり、ということになっていくのだろう。

だから、これからも(くたばるまで)、わがままを貫き通す、といいたいのではない。

ステレオサウンド 55号が頭に浮ぶ。
55号はベストバイの特集号であったけれど、
それよりもなによりも、55号の「ザ・スーパーマニア」は五味先生だった。
故・五味康祐氏を偲ぶ、とあった。

55号では、巻末の編集後記、
原田勲氏の編集後記に、こうある。
     *
オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。その何日かまえに、病室でレコードを聴きたいのだが、なにか小型の装置がないだろうか? という先生のご注文でテクニクスのSL10とSA−C01(レシーバー)をお届けした。
先生は、それをAKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。一一一番のほかには二組のレコードが自宅から届けられていた。バッハの《マタイ受難曲》だ。本誌31号に〝自分のお通夜に掛けてほしい〟と先生ご自身が書かれた、ヨッフム盤とクレンペラー盤だった。
     *
五味先生が、どれだけわがままだったのかは、五味先生が書かれたものを読んでいればわかる。
五味由玞子さんによる「父とオーディオ」
(同じタイトルでステレオサウンド 58号と新潮文庫「オーディオ遍歴」に書かれている)、
「父と音楽」(読売新聞社「いい音いい音楽」)からも伝わってくる。

だからこそ、とおもう。
そうおもいながら、ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記を読むと、おもうことがある。

原田勲氏の「五味先生を偲んで」(藝術新潮1980年5月号)によると、
テクニクスのプレーヤーとレシーバーを届けられた日の2、3日後には、
「先生はふたたびヘッドホーンをつけられることもなく、病状は悪いほうに無かっていった」とある。

病室での、わずか数枚のレコード──、
ベートーヴェンの作品111とバッハのマタイ受難曲を、
テクニクスの、小型のプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンで聴かれていたとき、
オーディオマニアとしてのわがままは、どこにもなかったのでは、とおもう。

わがままはどこかへ消えてしまうのか、わがままから離れることができるのか、
それとも解脱といっていいのか……、まだ私にはわからない。

純度を高めていったわがままは、もうわがままではないのか。
そのとき聴こえてくる音楽から、なにを聴きとるのだろうか。

そのときの音を、音楽を、私は聴くことができるだろうか。

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