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Date: 8月 21st, 2019
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その30)

SMEの3012-R Specialについて書き始めたら、また横路に逸れそうになってしまった。
結局、いいたいことは、
ターンテーブルプラッターの直径とトーンアームの長さのあいだには、
ちょうどいいバランスがあって、
30cm前後のターンテーブルプラッターには、どうやってもロングアームは似合わない。

3012-R Specialに憧れて、東京に出て来て最初に買ったオーディオ機器は、
SMEの3012-R Specialだった私は、
ついにSMEの3012-R Specialに似合うターンテーブルシステムは、
市販品にはない、それにこれからにもまったく期待できない──、
という変らぬ結論になってしまう。

以前書いているけれど、
むしろマイクロの糸ドライヴのような、武骨なモノのほうが意外とうまくいく。

それに、もう大きなアナログプレーヤーは、以前ほどに欲しいとは思わなくなってしまった。
トーレンスの101 Limited(930st)から927Dstまで行ってしまい、
その音に納得しながらも、そのどちらも手離してしまい、いま思うのは、
927Dstは、やっぱり大きすぎた──。

いまはコンパクトにシステム化されたアナログプレーヤーがいい、と思っているし、
欲しい、とも思う。

927Dstが大きく感じられないような広い部屋に住めるようになったとしても、
あまり大きくない方がいい。

SMEのSeries Vもロングアーム版が登場してけっこう経つ。
ロングアーム版が出た時は、やっと出てきた、と思ったし、
Series Vでも、やっぱりロングでしょう、と強く思ってもいたのが、
いまでは通常のSeries Vがいい、と思うほどに変ってきている。

とはいっているものの、実際にそういう部屋に住めるようになって、
コンディションのいい927Dstがタイミングよくあらわれたりしたら、
やっぱり927Dstだな、と口走ったりするだろうけど。

とにかくいまは、大きくないと感じるアナログプレーヤーがいい、と感じている。

Date: 8月 20th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その15)

サンスイのプリメインアンプの出力は、
AU607が65W、AU707が85W、
Dがつくようになり、わずかだがパワーアップして、
AU-D607が70W、AU-D707が90W、AU-D907が100W。

出力トランジスターの数は、607は1ペア(片チャンネルあたり)、707は2ペア、
907は4ペアである。

607は俗にいうシングルプッシュプルである。
真空管アンプに馴染んでいる人にとっては変な表現であっても、
いまではこう書いたほうが通じやすいのも事実である。

ようするに607は出力トランジスターを並列接続していない。
していないから、それだけで素晴らしいアンプになるなんてことはないが、
それでも607について試聴記を読んでいると、
独特のプレゼンス感と、この出力段の構成は切り離せないようにも感じる。

ステレオサウンド 56号を読んだときには、手元にはKEFの303はなかった。
三ヵ月前に、ヤフオク!で手に入れた303がある。

56号のころ、私はサンスイのAU-D907 Limitedで、
国産のブックシェルフ型の3ウェイスピーカーを鳴らしていた。

AD907 Limitedはかなり前に、どうしても欲しいという人がいて譲った。
いま手元にあれば、303をAU-D907 Limitedを鳴らすかというと、どうだろうか。

どこかにAU-D607でやっぱり鳴らしてみたい、という気持がある。

303を中心としたシステムだけしかないのであれば、
アンプは、よりよいモノにしたい、という気持が強くなる。
AU-D907 Limitedがあれば、それで鳴らすだろう。

けれど303のシステムだけでは、ない。
そうなるとアンプ選びは変ってくる。

AU-D907ではなく、D707かD607かである。

Date: 8月 20th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(1965年8月19日)

昨晩書こうと思ったけれど、
あえて一日ずらして書くことにした。

音による自画像について考えていくうえで、
これも自画像なんだ、と思っているのがある。

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲である。

1965年8月19日に、ジャクリーヌ・デュ=プレは、
バルビローリ指揮ロンドン交響楽団と、エルガーのチェロ協奏曲を録音している。

EMIは、ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーを一度も廃盤にしなかった、ときいている。
この録音が終って、プレイバックを聴き終ったデュ=プレがなんといったのかは有名な話である。

なので、このエルガーをジャクリーヌ・デュ=プレの自画像とするのは、
どうか、と思わないわけではない。

けれど宿命的に自画像になってゆく。

Date: 8月 20th, 2019
Cate: オーディオ観念論

抽象×抽象=(その2)

抽象×抽象は?

抽象を幾重にも掛け合わせていくのがオーディオではないのか──、
と(その1)で書いた。

抽象×虚構でもいいのかもしれない。
抽象×抽象、
抽象×虚構、
これらでしか描けない音楽がある、というだけのことなのか。

Date: 8月 19th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その14)

そういう菅野先生だから、ステレオサウンド 43号のベストバイでは、
AU707について《透明な抜け、しなやかさ、空気感の再現では607に一歩譲るようだ》
とされている。

あわせて井上先生の43号でのAU607についても読んでおきたい。
《このモデルの独特とでもいえるプレゼンス豊かな音は、素晴らしい魅力である。物理的な性能の高さをベースとした漂うような音場感と、クッキリと細やかな輪郭で浮上らせる音像は、ナチュラルであり、QS方式での音場再生技術が活かされている》
やはり、AU607には、菅野先生、井上先生が指摘されているように独特のプレゼンス感がある。

AU707について、井上先生も
《AU−607よりもパワーアップされているために、独特のプレゼンス感は力感の裏側にかくれている》
と書かれている。

AU607とAU707は、どちらも電源トランスを左右で独立させていた。
EIコアの電源トランスを二基搭載していた。

おもしろいのは、D607、D707になってからだ。
D607は607と同じで、Eiコアの電源トランスを左右独立にして二基、
D707は大型のEIコア型の電源トランス一基に変更になっている。

もちろん巻線は左右独立だが、電源トランスは一基である。
AU-D907は、というと、こちらは二基だが、左右独立ではない。
パワーアンプの出力段用にトロイダルコアの電源トランス、
プリ部、パワーアンプの増幅部用にEIコアの電源トランスという構成だ。

Dがつくようになって、このサンスイのプリメインアンプ・シリーズは、
単なる普及機(607)、中級機(707)、上級機(907)という括りではなくなっている。

サンスイのアンプづくりのノウハウが、一歩、もしくは二歩三歩進んでいるかのようでもある。

しかもあわせて注目したいところが、出力段のトランジスターの数である。

Date: 8月 19th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その13)

菅野先生のAU607の試聴記だ。
     *
 このアンプの音質は、音が空間に浮遊する様を感じさせる点では出色のものだ。空間感とか、プレゼンスとかいう表現に近いことになるのだが、それら音場を連想させるイメージに加えて、ここで感じられるのは、音像(音源でもよい)そのものの実在感に空芯のイメージがあるとでもいいたいのである。これは、決して数多くのアンプが可能にしてくれるものではないし、スピーカーでも、このイメージが出るものとそうではないものとがあると私は思っている。概して、この感覚が得られるオーディオ・コンポーネントは、かなり練りに練られた高級品にしか見当らないものなのだ。BCIIが、空気を一杯にはらんで鳴り響いているような素晴らしいソノリティが楽しめたし、4343による、ピアノやベース、そして、ドラムスの実感も相当なものであったが、欲をいえば、この空芯感と、さらに充実したソリッドな実感が調和すれば、理想的といえる。一線を超えたアンプだ。
(ステレオサウンド 42号より)
     *
41号からステレオサウンドを読みはじめた私にとって、
42号は初めての総テストのステレオサウンドであり、
そこでの試聴記に出てくる音の表現は、読んでいるだけでも楽しかった。

ほとんどが初めてであう音の表現だった。
そのなかでも、菅野先生の試聴記に出てきた空芯感は、なんだろう? が最初の印象だった。

空芯感は、試聴記を読めばわかるように、褒め言葉である。
とはいえ空芯である。

ネガティヴな表現と捉えることもできなくはない。
このころ、この空芯感と、
五味先生が「五味オーディオ教室」で、菅野先生の音について書かれていたことが、
結びついていくのではないのか、と考えたことがある。

実を言うと、いまも考え続けている。
これ以上は、大きくそれてしまうからこのへんにしておくが、
とにかく空芯感のあるアンプとして、AU607の存在が気になったし、
しかも菅野先生は自宅のJBLのシステムで、075用にAU607のパワーアンプを使われていたこともある。

Date: 8月 19th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その12)

サンスイのプリメインアンプ・シリーズ、
607、707、907は、最初から三機種だったわけではない。

AU607とAU707の二機種から始まった。
のちにダイアモンド差動回路を採用して、AU-D907が最上級機として登場、
すぐにAU-D607、AU-D707へと改良された。

AU607とAU707は、
ステレオサウンド 42号の特集「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」で、
取り上げられ、どちらも高い評価を得ている。

この時、607は69,800円、707は93,800円だった。
試聴記(岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏)を読めば、
AU707のほうが、上級機だけあって、AU607よりも優れたアンプのように感じた。

43号のベストバイでも、
瀬川先生は
《弟分のAU607は、7万円以下という価格を頭に置いた上で、という条件つきで優秀なアンプといえるわけだが、707あたりになると、これより高価格帯の製品と聴きくらべても、そう遜色のない充実感のある音に仕上がっている》
と書かれていただけに、誰もが707の方が上だと思っただろう。

私もそう思った。
AU607とAU707は聴く機会はなかったけれど、おそらくそうであろう。
707のほうが優れたアンプなのだろう……、と思いつつも、
そのころから気にかかっていたのは、42号での菅野先生の試聴記には《空芯感》とあったためだ。

Date: 8月 18th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その11)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」に、KEFのModel 303は、
瀬川先生による組合せは登場していない。

「コンポーネントステレオの世界 ’81」という別冊が出ていれば、
そこに登場していたことだろう。
けれど「コンポーネントステレオの世界 ’81」そのものが出なかった。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」は出た。
けれど、そこには瀬川先生はいなかった。

瀬川先生による303の組合せは、ステレオサウンド 56号のなかに出てくるだけである。
だからよけいに、56号での組合せが記憶に残っているのかもしれない。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」に303が間に合っていれば、
JBLの4301のかわり、もしくはA案は4301で、B案は303となっていたであろう。

アンプは、4301も303ともに、ラックスのL58Aだった、と思う。
そんなことを想像していると、303をL58Aで鳴らしてみたい、,という気持がわいてくる。

L58Aは148,000円のプリメインアンプである。
サンスイのAU-D607の二倍の価格だ。

この組合せも聴いてみたい、と思いつつも、
サンスイのAU-D607は価格的なバランスを含めて、やっぱりいい組合せと思えてくる。

そのころのサンスイには、AU-D607の上にAU-D707が、
さらにその上にAU-D907もあった。

AU-D707もいいプリメインアンプだった。
AU-D607よりも、充実した音のプリメインアンプといえた。

そんなことを思い出していると、
303にAU-D707のほうが、607よりもいい音に鳴ってくれそうだし、
607と707の価格差は25,200円である。
それほどあるわけではない。

56号の組合せでも、組合せのトータルは30万円を超えるが、
大きく超えるわけではない。

このころの25,200円の価格差は、
現在の中古市場では、どの程度の差になるのか。

ヤフオク!を先月眺めていたところでは、小さくなっている。
こうなると、303にAU-D707の組合せはどうだろうか、と妄想が少しずつ加速しはじめる。

Date: 8月 18th, 2019
Cate: 欲する

資本主義という背景(その7)

資産価値。
これをオーディオの世界で初めてきいたのは、
ステレオサウンドで働いていたころだった。

あるオーディオ評論家が、そういっていたのをはっきりと憶えている。
オーディオ機器を購入するにあたって、資産価値を検討する──、
そんな内容のことだった。

それまでの私は、欲しいオーディオ機器について、
資産価値なんてことはまったく考えたことがなかった。

そんなことを考えてオーディオ機器を購入する──、
そんな人がいるのか、と驚いた。

買った時よりも手放すときに高く売れるモノ、
そこまでいかなくとも損をしないほどに売れるモノ、
そんなことまで考えてオーディオ機器を購入する。

どんなオーディオ機器であっても、一度使えば、いわゆる中古になる。
よほど希少なモノで、それを欲しがっている人が大勢いれば、
手放す時に高くはなる可能性はある。

それが、自分が欲しいモノと完全に一致していればいい。
それでも「資産価値が……」と言葉にすることはないだろうとも思うけれど。

おそらく「資産価値が……」といった人は、
欲しいと思っているモノが複数あれば、
迷わず資産価値で、どれにするかを決めるのだろう。

迷う、という行為においても、
資産価値を検討している人とそうでない人とでは、違ってくる。

「資産価値が……」をきいたころは1980年代なかばごろだった。
いまのように、高価になりすぎた時代ではなかった。

それに「資産価値が……」といって人自身、
非常に高価なオーディオ機器を購入していたわけでもなかった。
確かに、多くの人が好んで使うようなオーディオ機器ではなかったけれども。

だから、まだ「資産価値が……」に強い反撥を感じたわけではなかった。
けれど、いまはそのころとは随分様相が違ってきている。

おそろしく高価なオーディオ機器が、ごろごろしている(そういいたくなる)。
こうなってくると「資産価値が……」がとたんに生々しくなってくる。

Date: 8月 17th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その3)

ここでのテーマとは関係ないが、バックナンバーということでは、
SNSで、一年に一度あるかないかくらいではあるが、
ステレオサウンドのとても古い号を手に入れた、
しかもとても四十年以上前のバックナンバーとは思えないほど状態がいい──、
そんな投稿を目にすることがある。

ステレオサウンドのバックナンバーは、かなり高い値がついていたこともある。
最近では、昔ほどの高値ではなくなっていても、
一桁の号数のステレオサウンドとなると、安くはない。

それに五十年前後立っているわけだから、美本といえるわけではない。
それでも、中には、非常に状態のいい古いステレオサウンドが、
古書店に並んでいることもある。

一桁の号数とまでいかなくとも、
20号から40号くらいまででも、きれいな状態のステレオサウンドはある。

古本を絶対に手にしたくない、という人の気持もわからないわけではない。
それでも古いステレオサウンドを読みたければ、
知っている人から直接譲ってもらわないかぎり、
誰が読んだかわからないステレオサウンドを買うしかない。

誰だってきれいなステレオサウンドを手にしたい。
私だって、そういう気持がないわけではない。

それでも、いざそういうステレオサウンド、
一度も読まれていないのではないか、
そう思いたくなるほどきれいなステレオサウンドもあったりする。

そんな時に、ラッキーと思う気持もあれば、
読まれなかったであろう、目の前にある古いステレオサウンドの号をみて、
さびしく思う気持もある。

本は読まれなくてもいい、
売れればいい、
そういう気持で本をつくっているのであれば、
きれいな古いステレオサウンドをみても、何も思わない、感じないのかもしれない。

Date: 8月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その2)

視野の狭い、未熟な意見、考えを、新鮮な意見、考えと思う人もいようが、
私はそうではない。

もちろん若い人の意見、考えすべてが未熟だとはいわない。
けれど、今回の1979年当時の七万円台のプリメインアンプを、
中級機ではなく高級機と捉えるのは、はっきりと狭く未熟でしかない。

当時の初任給に目を向けてはいても、
残念なことに、ここでは数字にのみ目を向けている、としかいいようがない。

少々きついことを書いているとは、私は思っていない。
なぜ彼は、自分の意見、考えに反論をしないのか、と思う。

七万円台のプリメインアンプを高級機ではないか、と思ったのならば、
自分自身で、自分の、その考えに対して反論をいくつか考えてみるべきである。

当時の初任給と七万円台という価格、
それだけで中級機ではなく高級機としたのは、そのままでは単なる思いつきでしかない。

しかも、このことを書いた若い人は、
瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」を読んでいる。
「コンポーネントステレオのすすめ」を読んでいるのならば、
そこに「コンポーネントステレオの経済学」、
「費用と性能の関係」があるのを思い出すはずだ。

読んでいる、ということはそうことである。
単に文字だけを追っただけで、書かれていることが頭に入っていなければ、
それは読んだとはいわない、眺めただけである。

ここに「標準的な価格」ということばが出てくる。
瀬川先生を、それをどう説明されているか、
「コンポーネントステレオのすすめ」を見なければ思い出せないというのならば、
何度でもいう,それは読んでいない、のと同じだ。

Date: 8月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その1)

ぎりぎり20代の人が、ステレオサウンドのバックナンバーを熱心に読む。
悪いことではない。

そう思いながらも、今日、facebookでみかけたことはちょっと気になった。
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だ。
セパレートアンプとプリメインアンプの総テストを、53号と二号にわたって行っている。

若い読み手は、七万円台のプリメインアンプを、
当時の初任給からすれば、中級機ではなく、高級機ではないか、としていた。

価格だけをみれば、そういえないことはない。
けれど視野は広くもってほしい、とつくづく思う。

中級機とか高級機とか、そういった位置づけは、
単に価格によって決るわけではない。

その時代時代に、アンプなら、どういった製品があったのかによって位置づけられるものだからだ。
七万円台のアンプのメーカーは、他にどんなプリメインアンプを出していたのか、
そこに目を向けるだけで、七万円台のプリメインアンプは、
そのメーカーにとって高級機という位置づけではないことはすぐにわかる。

他社製のプリメインアンプも含めて眺めれば、もっとはっきりとしてくることだ。

それでも当時七万円台のプリメインアンプは、大学卒の初任給の大半を注ぎ込まなければ買えない。
高級機ではないか、と、そうとらえることは可能だろうか。

単に当時のプリメインアンプがどういうモノがあったのか、
そういうことを抜きにしても、思いだしてほしいのは、
七万円台のプリメインアンプは、いわゆる単品コンポーネントである。

この時代、各社からシスコン(システムコンポーネント)が出ていた。
シスコンが流行っていた時代でもある。

シスコンの一つ前の段階としてはラジカセもあった。
家庭で音楽を聴く機器として、
ラジカセがあり、シスコンがあった。

つまり単品コンポーネントそのものが、いわば贅沢品である。
このことを忘れてしまっていての位置づけは意味をなさない。

1979年当時、七万円台のプリメインアンプは、
単品コンポーネントという贅沢品のなかでの位置づけは、中級クラスということになる。

若い人が、生れる前のステレオサウンドのバックナンバーを読むことは、
悪いことではない、としたのは、良いことだ、とはいえないことがあるからだ。

Date: 8月 14th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その4)

AAとGGに通底するもの(その8)」で書いたことのくり返しになるが、
その時鳴った音は、
左右のスピーカーのあいだに、空気の密度が急激に高まった結果の見えない硬い壁ができ、
それをこれまた、異常に硬いもので叩いた、もしくは貫いた結果の音──、
そんな感じの音だった。

ジェット戦闘機が音速を超える際に発生するソニックブームとは、
こんな感じの音なのかも、と思えるような音だった。

アクースティックな楽器では、いかなる楽器をもってこようとも、
こんな音は絶対に出せないだろう、といった低音(衝撃音に近いかも)が伝わってきた。

これはこれで快感である。
聴く快感であり、こういう音を、周りに気にせず鳴らせることができるのも、
オーディオマニア的快感のはずだ。

でも、それがグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲の再生には、
まったく寄与していないどころか、
奇妙な異和感をまとって鳴るのだから、やっぱり「欠陥」スピーカーとしかいいようがない。

「欠陥」スピーカーについて、また書き始めると横路にどんどんそれてしまうので、
このへんにしておくが、ゴジラのテーマ曲では、そういう面がずっと洗練されて、
音楽的な魅力をより高めているようにも感じただけに、
カルダスの電源コードでの鳴り方は、惹かれるものがあったし、
それだけでなく自作の電源コードをこれからどういじっていくかの方向も見えてきた。

8月7日のaudio wednesdayでは、自作のコードにちょっとだけ手を加えた。
そんなことは予定していなかったから、材料を持ち合わせていたわけではない。

それでも手元のモノで、どういう傾向になるのかの確認はできる。
試してみると、こういうふうに、やはり変って行くのか、ということを確認できた。

ただ、それから先に進むのかは、また微妙なところである。
それはジュリーニによるマーラーの「大地の歌」を聴いたからである。

Date: 8月 14th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その3)

(その2)で書いたことは、映画だけのことではないようにも思っている。
私は行かないので、実際に鳴っている音がどんな感じなのか想像するしかないのだが、
クラブで鳴っている音というのも、共通するところがあるのではないのか。

こういう音は、アクースティックな楽器を、どんなにいい音で録音して、
それをうまく再生しても、そういう音にはまずならない。

けれど、オーディオマニアとして快感につながっていくと感じてしまうし、
自分の音として日常的に鳴らしたいとは思わないまでも、
一ヵ月に一度、たとえばaudio wednesdayのような集まりでは鳴らしてみたい、
聴いてみたい、と思うわけだ。

このことはスピーカーシステムの音についてもいえる。
別項「AAとGGに通底するもの」で書いている、
「欠陥」スピーカーとついいいたくなってしまう、とあるスピーカーのこと。

非常に高価だし、その時鳴らしていたアンプもCDプレーヤーもまた非常に高価だった。
ラックもケーブルも同じである。
信号、電源ともにケーブルはカルダスだったようにも記憶している。

2009年12月に行われた試聴会でのことだった。
グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲が、試聴会が始まる前から鳴っていた。

バッハのゴールドベルグだ、ということは会場に入ってすぐにわかっても、
誰の演奏なのか、すぐにはわからなかった。

グールドっぽい、とまず思った。
でも聴けば聴くほど、グールドとは思えなくなる。
そのくらい音楽を歪めている、と感じた音である。

試聴会で鳴らされたクラシックのディスクは、
どれも感心しなかった。
改めて「欠陥」スピーカーだ、と再確認できた、と思いながら聴いていた。

それでも最後のほうで鳴らされた一曲は、すごかった。
アメリカのハイエンドオーディオのマニアのあいだで流行っているディスクらしい。

ここでの低音の鳴り方が、今回ここで書いている音と同種、同傾向の音であった。

Date: 8月 14th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その2)

とはいっても音を聴く前からそう感じていたわけではなく、
実際に四種類の電源コードの音を聴いてから、なるほどな、と感じていた。

「GODZILLA KING OF THE MONSTERS」はサウンドトラック盤だから、
映画のなかで使われた音楽である。
そのなかでも、ゴジラのテーマ曲である。

日本のゴジラ映画を観てきた人にとっては、
懐しいともいえるメロディの、あの曲である。

とはいっても最新の演奏、最新の録音によるゴジラのテーマ曲である。

いつのころからだろうか、
映画の音、そして使われる音楽の音がはっきりと変ってきた、と感じている。
特にCGを使ったアクション、SF、ホラーといった映画で顕著に感じる。

それまでと違って、重量を感じさせる音が表現できるようになった、
そう感じている。

どの映画から、どの時代から、そういったこまかなことははっきりといえないものの、
よく重低音というけれど、実際の低音は重いわけではない──、
そんなことはオーディオの世界では以前からいわれ続けていることだが、
ここでは、文字通りの重低音のことである。

重低音という言葉から受ける印象通りの音のことである。

実際には、つまりナマの音としてこんな音は存在しないだろうが、
だからといってけしからん、とか、こんな音は認めない、などではない。

映画に必要な音であろうし、必要な音楽としての音として認めているし、
それになっといっても聴いていて快感であるのも事実だ。

カルダスの電源コードは、どちらも、この音の重量感に関しては、
聴き手のこちらを唸らせるものがあった。