ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その4)
「AAとGGに通底するもの(その8)」で書いたことのくり返しになるが、
その時鳴った音は、
左右のスピーカーのあいだに、空気の密度が急激に高まった結果の見えない硬い壁ができ、
それをこれまた、異常に硬いもので叩いた、もしくは貫いた結果の音──、
そんな感じの音だった。
ジェット戦闘機が音速を超える際に発生するソニックブームとは、
こんな感じの音なのかも、と思えるような音だった。
アクースティックな楽器では、いかなる楽器をもってこようとも、
こんな音は絶対に出せないだろう、といった低音(衝撃音に近いかも)が伝わってきた。
これはこれで快感である。
聴く快感であり、こういう音を、周りに気にせず鳴らせることができるのも、
オーディオマニア的快感のはずだ。
でも、それがグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲の再生には、
まったく寄与していないどころか、
奇妙な異和感をまとって鳴るのだから、やっぱり「欠陥」スピーカーとしかいいようがない。
「欠陥」スピーカーについて、また書き始めると横路にどんどんそれてしまうので、
このへんにしておくが、ゴジラのテーマ曲では、そういう面がずっと洗練されて、
音楽的な魅力をより高めているようにも感じただけに、
カルダスの電源コードでの鳴り方は、惹かれるものがあったし、
それだけでなく自作の電源コードをこれからどういじっていくかの方向も見えてきた。
8月7日のaudio wednesdayでは、自作のコードにちょっとだけ手を加えた。
そんなことは予定していなかったから、材料を持ち合わせていたわけではない。
それでも手元のモノで、どういう傾向になるのかの確認はできる。
試してみると、こういうふうに、やはり変って行くのか、ということを確認できた。
ただ、それから先に進むのかは、また微妙なところである。
それはジュリーニによるマーラーの「大地の歌」を聴いたからである。