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Date: 6月 14th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、否定する人のこと(その4)

MQAをとにかく否定したがっている人は、いまもいる。
おそらくこれから先もいることだろう。

先日のOTOTENで、MQAのセミナーが開催された。
一時間半のほとんどは、比較試聴だった。
比較試聴の環境としてはさほどいいとはいえなかったけれど、
それでもMQAと通常のPCMとの音の違いは明らかだった。

ただし会場は縦に長く後方の席の人はどうだったのかはなんともいえないが、
前方の席でははっきりとした音の違いが聴きとれた。

このMQAのセミナーに、MQAの否定派の人たちがどれぐらい来ていたのかはわからない。
その人たちが、今回の音の違いをどう聴き取ったのかもわからない。

でも思ったことがある。
MQAの音に否定的な人は、おそらく音触という感覚をもっていない人なのかもしれない。

別項で書いているが、audio wednesdayでメリディアンのULTRA DACでMQAの音を聴いて、
音触のことを思い浮べていた。

菅野先生が音触について書かれた時、
音触を感覚的に理解できる人とそうでない人がいた。
そうでない人のなかには、音触という言葉を否定しようとする人がいた。

Date: 6月 13th, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その41)

そういえば、ともうひとつ思い出したモデルがある。
ダイヤトーンのP610である。

ロクハン(6インチ半、16cm口径)のフルレンジユニットである。
P610と型番だけいえば済んだのはもう昔のことで、
P610といっても、何の型番が通用しなくなっていることだろう。

P610は私がオーディオに興味をもったころ、
一本2,500円していたはずだ。
特に高価なユニットではなかった。
有名すぎるユニットで、古典的なユニットともいえた。

P610の音ならば聴いている──、という人はけっこう多いはずだ。
P610は高性能のユニットではないから、無理な鳴らし方をしてしまってはだいなしになるが、
何の変哲もないエンクロージュアに入れて、音量も帯域も欲張らずに鳴らせば、
どこにも無理がかかっていない音を聴かせてくれる。

エンクロージュアは密閉型ならば、16cmという大きさを無視して、
かなり容積をもたせたい。
小さいエンクロージュアに無理矢理押し込めるような使い方はしないほうがいい。

欲張れば無理をすることになるユニットだが、
どこからが無理なのか、それを見極めて鳴らせば、
いまでも、その音は、どこにも無理がかかっていない性質の音のはずだ。

古い機種ばかり挙げても──、と思う。
その39)で触れているTADのTAD-ME1は、
私が聴いた範囲では、どこにも無理がかかっていない音を響かせていた。

だから、TADも、ついに、こういう音を鳴らせるようになったのか、と驚いただけでなく、
この音ならば、ずっと聴いていたい、とも思った次第だ。

Date: 6月 12th, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その40)

アグレッシヴとまでいわれたことのある日本のスピーカーから鳴ってくる音。
その38)で引用している瀬川先生の文章も、そのことを伝えているし、
1980年代の598のスピーカーの音は、まさしくアグレッシヴだった。

それだけではない、ハイスピードを謳ったスピーカーシステムが、
一時期各社から登場していた。
ハイスピードを謳ったモノほど、そこから出てくる音はアグレッシヴであった。

その一方で、日本のスピーカーを代表する存在として、
日本の音とはっきりといえる存在として、ダイヤトーンの2S305があり、
2S305の音は、アグレッシヴからはほど遠い。

日本のスピーカーのアグレッシヴな音は、
店頭効果によって生み出されたもの──、そういう見方はたしかにできる。

でも、ほんとうにそれだけが理由なのだろうか。
日本のスピーカーシステムは、どの方向を目指していたのだろうか。

2S305の後に登場した日本のスピーカーで、
海外でも高い評価を得たのは、ヤマハのNS1000Mである。
鮮鋭な音といわれたNS1000Mである。

NS1000Mの登場と成功が、アグレッシヴな音を生み出すことにつながっていったのか。
NS1000Mの音は何度も聴いているけれど、
登場したころは、私はまだオーディオに関心をもっていなかったから、
当時のことを肌で感じているわけではない。

そのNS1000Mを、1980年代、ステレオサウンドの試聴室でじっくり聴く機会があった。
鮮鋭さを代表する音というよりも、充分に鳴らし込まれたその音は、
意外にも穏やかな面を聴かせてくれた。

日本の音、日本のスピーカーの音とは──、
について考えるときに思い出すのは、黒田先生の文章である。

ステレオサウンド 54号、スピーカーシステムの総テストで、
エスプリ(ソニー)のAPM8の試聴記に、それが出てくる。
     *
化粧しない、素顔の美しさとでもいうべきか。どこにも無理がかかっていない。それに、このスピーカーの静けさは、いったいいかなる理由によるのか。純白のキャンバスに、必要充分な色がおかれていくといった感じで、音がきこえてくる。
     *
これこそが、日本の音のはずだ。
残念なことにAPM8を聴くことはできなかった。
けれど、ダイヤトーンのDS10000は聴いている。

DS10000の音も、どこにも無理がかかっていない。

Date: 6月 12th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その7)

OTOTENの前身はオーディオフェアである。
祭であるのだから、楽しめればいい、とは私も思わないではない。

製品をかえるごとにディスクも、というやり方も全否定はしたくない。
でも、同時に、比較試聴する楽しみも、来場者に伝えるのも、
出展社の役目だと考えている。

今回、私が入ったブースではディスクを一枚ずつかけていた。
ならば二枚ずつかければいい。
一枚は、すべての機種で共通してかけるディスク、
もう一枚は、その製品の音の特徴をうまく抽き出してくれるディスク。

同じ曲を続けてかけると帰ってしまうであろう人も、
これならば最後までつきあってくれるであろう。

今回のOTOTENだけでなく、インターナショナルオーディオショウもそうなのだが、
これから鳴らす機器の音の特徴を話してしまう出展社(人)がけっこうある。

音を鳴らしたあとに言うのならばいいけれど、なぜこれから聴こうとしている人に、
あえてバイアスをかけるようなことを言うのか。

オーディオショウでの音出しは、出展社にとってはプレゼンテーションである。
だからこそ、なのは理解したいと思うのだが、
時として、というか、けっこうの場合、それは逆効果でもある。

ほんとうにそのとおりの音が鳴ってくれればいいけれど、
そうでないことも多いからだ

いい音を会場で出すことも大事なのだが、
同じくらい、うまく聴かせることにも意識をはらってほしい。

Date: 6月 11th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その6)

今日、OTOTENに行ってきた。
目的は14時30分からのMQAのセミナーなのだが、
会場には10時半ごろにはついていて、それぞれのブースをまわっていた。

あるブースでは自社製品の比較試聴が行われていた。
途中から、私はそのブースに入っているけれど、
やり方からして自社製品の比較試聴のはずである。

なのに、機種をかえるたびに、ディスクもかけかえる。
同じディスクを鳴らしてくれるわけではない。

八年前に別項「音を聴くということ(試聴のこと・その1)」に書いたことが、
ここでもまた行われていた。

八年前に書いたのは、こんなことである。
あるオーディオ店の試聴会で、なぜか機器を替えると、鳴らすディスクも替える。

最初は、この店だけの独自のやり方なのか、
それともいつのまにこういうやり方が一般的になっていたのか──、
そんなことを思っていたら、あるお客が、
「なぜ同じディスクで鳴らさないのか」と店員に訊ねた。

返ってきた答は、
「同じディスクを鳴らしたいんですけど、それをやるとお客さんが帰られるんです」、
だった。

意外だった。
同じ曲を何度も聴くことになるのが比較試聴である。
なのに、それをがまんできない人がいて、客をつなぎとめておくために、
同じ曲をかけないようにする。

今回のブースでのそれも、同じ理由からなのだろうか。

Date: 6月 10th, 2022
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その12)

明日(6月11日)、明後日(12)はOTOTENである。
今回のOTOTENは、いくつかのセミナーをライヴ配信する。
やっとこういう時代が来たのか、と、
18のころまで田舎に住んでいた私は、そう思う。

オーディオフェアに行きたくても行けなかったからだ。

スイングジャーナル 1981年9月号に「オーディオ真夏の夜の夢」という記事が載っている。
長島先生のほかにも石田善之、及川公生、斎藤広嗣、落合萠の四氏が書かれている。

及川氏が書かれている──、
「オーディオ評論はちっとも進歩しないであい変らず試聴というのをくり返している」と。

及川氏は、続けて未来の試聴について書かれている。

自宅のマイコン(この記事が載った1981年はパソコンではなくマイコンが一般的だった)の子機を使う。
いわば自宅にMacがあって、iPadを試聴室で取り出して使うようなものだ。
それでマイコンの子機に試聴するオーディオ機器の特性を入力、
さらに試聴室のアクースティック特性も入力後、その日の自分の体調も要素として加えて……、というふうに続く。

ようするにリモート試聴のことで、ライヴ配信の将来の在り方でもある。
スピーカーからの音をマイクロフォンで拾って、
インターネットを介して配信するやり方の、もう一歩先のことを、
いまから四十年ほど前に及川氏は想像されていた。

当時はスマートフォンは、まったく存在していなかった。
スマートフォンを予想できていた人、
それがここまで普及する社会を予測できていた人は、いなかったと思う。

スマートフォンはまだまだ進歩していく。
スマートウォッチもいまではあり、それも進歩していく。
ハードウェアとソフトウェア、どちらも進歩していく。
そう遠くない将来に、及川公生氏が書かれたことが、
もっと精度高く実現する時代がやってくるかもしれない。

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その76)

ここで考えたいのは、(その72)へのtadanoさんのコメントである。

《ここで単純に、生身の人間が発声した声と再生音とを、赤ん坊が聞き分けていると考えてみるのも面白いのではないかと考えました》
とある。

これは、私もそうだろう、と思っている。
しかも、このことはピストニックモーションで音を発していることを、
赤ん坊は無意識のうちに違いがわかっているのではないのか。

だから、スピーカーから流れてくるコンテンツの音声では、
赤ん坊の知能は向上しないのかもしれない。

これに関連してくるのかどうかはなんともいえないが、
まだスマートフォンが普及する前のことだから、もう十年以上は経っている。

電車に乗っていた。
向い側の座席に赤ん坊をつれたお母さんが座っていた。
赤ん坊はぐずっていた。

携帯電話を触りたがっていたようだ。
お母さんはおもちゃの携帯電話を赤ん坊に渡す。
すると持った瞬間に放り投げていた。

しかたなく本物の携帯電話を持たせると、赤ん坊は喜ぶ。
でも、弄ってしまうので、お母さんはまたおもちゃの携帯電話をもたせる。
すると、またすぐに放り投げる。

そんなやりとりが数回、目の前であった。

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・コメントを読んで)

facebookにコメントがあった。
私よりも一世代若いMさんからである。

YouTube、ソーシャルメディア、ブログでは、オーディオの話をしている人がいる。
昔と違い、紙の本に頼ることなく情報発信ができる時代になっているのに、
なぜ紙の雑誌、書籍が必要なのか──、ということだった。

一ついえることは、マスで捉える能力について、である。
ステレオサウンドは昔、総テストを売りにしていた。
この総テストについては、別項でも書いている。

スピーカーシステムならスピーカーシステム、
アンプならばアンプを、一度に数十機種集めて数日で集中して試聴する。

この総テストを体験しているかいないか。
この違いが、オーディオ雑誌の存在理由である、と私は考えている。

このマスで捉える視点をもっているのかもっていないのか。
ただし、総テストを体験してきているかといって、
マスで捉える視点をもっているのかは、また別の話であるが、
私がオーディオ評論家(職能家)と認めている人たちは、
総テストをくり返し体験してきた上でのマスで捉える能力・視点をもっていた。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 朦朧体

ジャーマン・フィジックスのこと

ジャーマン・フィジックスは、最初タイムロードが取り扱っていた。
それがいきなり2006年ゼファン取り扱いになった。

それまでインターナショナルオーディオショウに行けば、
タイムロードのブースで、ジャーマン・フィジックスのUnicornを聴くことができた。

ゼファンが取り扱うようになってからは、
取り扱いブランドの多さもあって、
一度もインターナショナルオーディオショウでは聴くことがかなわなかった。

そして、あっさりとゼファンはジャーマン・フィジックスの取り扱いをやめた。
タイムロードがそのまま取り扱っていれば……、と思った。

それからどこもジャーマン・フィジックスを取り扱うところはなかった。
十年以上がすぎた。

Unicornのオリジナルモデルに関しては、
熱心な人が直接ジャーマン・フィジックスと交渉して輸入されている、と聞いている。
とはいえ、ジャーマン・フィジックス不在の時期は続いた。

やっとタクトシュトックが、ジャーマン・フィジックスを取り扱う。
取り扱うラインナップは、いまのところHRS130だけのようで、発売は7月10日。

とにかくジャーマン・フィジックスが、また日本に入ってくる。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その75)

アクースティックの楽器のなかで、
ピストニックモーションで音を発しているのがあるだろうか。
なにひとつない。

昔のアクースティックの蓄音器の、いわゆる変換機としての性能は低い。
けれど、当時の人は、その音を聴いて驚いたり、満足していた。

アクースティックの蓄音器の音は、何度か聴く機会があった。
ヴィクトローラかクレデンザは、
置ける場所とそれだけの経済的余裕があれば、欲しい。

アクースティックの蓄音器を聴いている時に、
ふとこれがもしピストニックモーションで音を発する構造だとしたら、
ここまでいい音がする、と感じただろうか。
そんなことを考えたことがある。

ライス&ケロッグによる世界初のコーン型フルレンジユニットは、
もちろん基本的にはピストニックモーションなのだが、
当時の振動板の剛性を考えれば、中高域における分割振動は決して少なくなかったはず。

この6インチ口径のフルレンジユニットの再生周波数帯域は、
100Hzから5kHzほどであったらしいが、
完全なピストニックモーション領域は、どれだけだっただろうか。

人の声もアクースティックの楽器も、
ピストニックモーションで音を発しているわけではないが、
だからといってスピーカーがピストニックモーションであってはいけない──、
とは考えていない。

生の楽器と同じ発音構造でなければならない、とは思っていない。
それでもピストニックモーションこそ唯一とするのは改めるべきだろう、
とは考えている。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・その1)

別項で触れているように、
HiViが月刊誌から季刊誌へとなる。

広告が減ってきて、発行部数も減れば、そうならざるをえない。

別項「2022年ショウ雑感(その2)」について書いた。
ラジオ技術は、2020年にも、7月号が6月号との合併号として発売になったことがある。
新型コロナの影響のせいである。
2022年も、2月発売の3月号が休刊になり、3月発売の4月号との合併号になった。

6月になり、ラジオ技術のツイートは、
月刊誌から隔月刊への変更の知らせだった。

ラジオ技術のウェブサイトでも告知されているが、ツイートのほうが事情を説明してある。
それによると、ここ十五年ほど広告収入と発行部数の減少で、
実質的に赤字経営であったこと。

筆者の方たちも、原稿料無しで支援されていた、ということ。
数人の方から多大な資金援助があった、ということなどが語られている。

そして河口編集長の視力の急激な悪化により編集作業に支障をきたすようになった──、と。

出版業界は厳しい、とよくいわれるようになっている。
そういったことをよく目にするようになってもいる。

でもオーディオ雑誌はそれだけではないように感じられる。
老いの問題があるのではないだろうか。

ラジオ技術編集部に限ったことではなく、
若い人がオーディオに関心を持たなくなっている、といわれている。

そういう状況が続いていけば、
若い人がオーディオ雑誌の編集に就くことがなくなってくるのではないのか。

総じて、オーディオに関係する人みなが高齢化していく。
オーディオマニアも読者も、である。

Date: 6月 7th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その5)

黒田先生が「音楽への礼状」でカザルスについて書かれている。
     *
大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
大切なことを大切だといいきる、こと。
どれだけの人が実行しているのだろうか。

大切だ、と口にするのは誰にでもできる。
でも、この人は、それをほんとうに大切にしているのだろうか──、
そう疑いたくなることもないわけではない。

ないわけではない──、と書いたけれども、そうでもないと感じてもいる。

大切なことに新しいも古いもない。
そんなことさえ、いまでは忘れられているような気さえする。

だから、それを読み手に思い出させるというのが、
ステレオサウンド 223号の「オーディオの殿堂」ではないのだろうか。

私は「オーディオの殿堂」に対して、どちらかといえば否定的な考えを持っているが゛
それでも肯定的に捉えようとするならば、
大切なことを再確認するための企画だともいえる。

けれど、実際はどうなのだろうか。
私は、この項で書いているように、
三浦孝仁氏の4343についての文章だけを立読みしているだけだから、
他の人の文章については、なにもいえないのだが、
少なくとも三浦孝仁氏の4343の文章は、そうとは思えなかったし、
4343は殿堂入りしているとはいえ、ステレオサウンド編集部には、
そういう意識はないんだな、ともいえる人選である。

大切なことを大切だといいきることのできない「オーディオの殿堂」は、
なんなのだろうか。

ステレオサウンド編集部に望むのは、
自らの企画を検証する記事である。

Date: 6月 6th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その3)

いまでは一千万円を超えるオーディオ機器が、もう珍しくなくなりつつある。
そんな高価なオーディオ機器には関心がない、とはいわない。

関心はある。
実力がきちんとあるメーカーが、持てる力をすべて注入しての、
その時点での最高の製品をつくりあげる。
そのためには一切の制約をなくして取り組む。

そうやって出来上ってきたモノは、そうとうに高価であってもいい。
高価なモノをつくろうとして出来上ってきたモノでなければ、
どれだけの価格になっても、いいと思うところはある。

そしてそうやって出来上ってきた製品の素晴らしさを、
次の世代の製品に活かしてくれれば、そして現実的な価格の製品に仕上げてくれれば、
それでいいという考えだからだ。

けれど、それらの非常に高価な製品を買える層の購買意欲をあおるために、
生産台数をごく少数に限定してしまっているのだとしたら、ひとこといいたくもなる。

そして、関連しておもっていることがある。
     *
 音を聴き分けるのは、嗅覚や味覚と似ている。あのとき松茸はうまかった、あれが本当の松茸の味だ——当人がどれほど言っても第三者にはわからない。ではどんな味かと訊かれても、当人とて説明のしようはない。とにかくうまかった、としか言えまい。しかし、そのうまさは当人には肝に銘じてわかっていることで、そういううまさを作り出すのが腕のいい板前で、同じ鮮魚を扱ってもベテランと駆け出しの調理士では、まるで味が違う。板前は松茸には絶対に包丁を入れない。指で裂く。豆はトロ火で気長に煮る。これは知恵だ。魚の鮮度、火熱度を測定して味は作れるものではない。

 ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
 見事な宴席料理をこしらえる板前ほど、重ねて言うが、小人数の家庭では味をどう加減すべきかを知っている。プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった。
     *
五味先生の文章だ。
私は、この文章を13歳のときに読んでいる。

Date: 6月 6th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その2)

瀬川先生は、ステレオサウンド 56号、
トーレンスのリファレンスのところで、最後にこう書かれている。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
56号は1980年に出ている。
そのころの3,580,000円は、ほんとうに高価だった。

1980年は、3,000,000円を超えるオーディオ機器がいくつか登場した年ともいえる。
それまでは2,580,000円あたりが、価格の上限のように思えてただけに、
値段もだけれど、その威容もふくめて、すごいモノが登場したきた、と感じた。

リファレンスは、瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時に聴く機会があった。
ほんとうにすごい音だった。圧倒された。

高校生の時だった。もちろんすぐに買えるわけではないが、
いつかはリファレンス、と思ってもいた。

そんなふうに思えたのは、
新聞配達のアルバイトでしかお金を稼いだことのない高校生ゆえだったのかもしれないが、
リファレンスは買えるようになるまで、現役の製品でありつづけてくれる──、
そんなふうに勝手に信じ込んでいたからでもある。

それから四十数年。
現在のオーディオ機器の、それぞれのジャンルの最高価格の製品は、
いつかは──、なんて思いもしない。
《ため息も出ない、という状態》なのだが、
それ以上に、そういう非常に高価なオーディオ機器は、
生産台数が最初から決っている。限定のオーディオ機器である。

お金をいま以上に多く稼げるようになって、
買えるようになるくらいにまでなれたとして、
その日には、そのオーディオ機器はすでに製造中止になって久しい。

非常に高価で、しかもごく少数の生産。
そういうオーディオ機器は、それらをポンと買える人にとっては、
まさにトロフィーオーディオである。

でも、そこに、いつかは──、という夢は存在しない。

Date: 6月 5th, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その5)

私が10代のころ、レコード(LP)は高かった。
当り前のことだが、本は買えば読むための機器は必要としない。

レコードは違う。
それを再生する装置が必要となる。

それに本は図書館という存在があった。
学校にもあったし、市立の図書館もある。

東京だと図書館にレコードもあるけれど、
私の田舎ではなかった、と記憶している。

レコードと接する機会が田舎と都会とでは、そうとうに違う。
レコードはそうであっても、FMがあるだろう、といわれそうだが、
FMの民放が増えてきたのは、もう少しあとのことで、私が田舎にいたころは、NHKのみだった。
FMの民放は、隣りの福岡にはあったけれど、その電波は届かず、である。

とにかく、いろんな音楽を聴きたい、と思ったところで、かなわなかった。
私だけのことではないはずだ。
私と同世代、そして田舎暮しの人は同じだったのではないだろうか。

それでも家族に音楽好き、そうとうな音楽好きがいれば、少しは変ってこよう。
けれど、そんな人は私の周りにはいなかった。

東京に来て知ったのは、音楽に関してひじょうに恵まれた環境にいた人が、
少なからずいる、ということだった。

とにかく聴ける環境が違いすぎていた。
音楽評論家になる(なった)という人たちは、
10代のころに、どれだけ多くの音楽を聴いていたかは、とても重要なこととなっている。

だからといって、自分の環境を嘆きたいのではなく、
いまの時代は、もうそうではなくなっている、といいたいだけである。

TIDALをはじめ、ストリーミングで世界中の音楽が満遍なく聴ける。
それこそスマートフォンとイヤフォンがあれば、鑑賞にたえる音で聴ける。