ハイエンドオーディオ考(その3)
いまでは一千万円を超えるオーディオ機器が、もう珍しくなくなりつつある。
そんな高価なオーディオ機器には関心がない、とはいわない。
関心はある。
実力がきちんとあるメーカーが、持てる力をすべて注入しての、
その時点での最高の製品をつくりあげる。
そのためには一切の制約をなくして取り組む。
そうやって出来上ってきたモノは、そうとうに高価であってもいい。
高価なモノをつくろうとして出来上ってきたモノでなければ、
どれだけの価格になっても、いいと思うところはある。
そしてそうやって出来上ってきた製品の素晴らしさを、
次の世代の製品に活かしてくれれば、そして現実的な価格の製品に仕上げてくれれば、
それでいいという考えだからだ。
けれど、それらの非常に高価な製品を買える層の購買意欲をあおるために、
生産台数をごく少数に限定してしまっているのだとしたら、ひとこといいたくもなる。
そして、関連しておもっていることがある。
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音を聴き分けるのは、嗅覚や味覚と似ている。あのとき松茸はうまかった、あれが本当の松茸の味だ——当人がどれほど言っても第三者にはわからない。ではどんな味かと訊かれても、当人とて説明のしようはない。とにかくうまかった、としか言えまい。しかし、そのうまさは当人には肝に銘じてわかっていることで、そういううまさを作り出すのが腕のいい板前で、同じ鮮魚を扱ってもベテランと駆け出しの調理士では、まるで味が違う。板前は松茸には絶対に包丁を入れない。指で裂く。豆はトロ火で気長に煮る。これは知恵だ。魚の鮮度、火熱度を測定して味は作れるものではない。
ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
見事な宴席料理をこしらえる板前ほど、重ねて言うが、小人数の家庭では味をどう加減すべきかを知っている。プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった。
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五味先生の文章だ。
私は、この文章を13歳のときに読んでいる。