ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その72)
(その71)で、
輪郭線に頼らない音像の描写。
そこに肉体の復活を感じられるかどうかは、その骨格にあると感じているからだ、
と書いたが、それだけでなく、
血が通っているか、と感じられるかどうかも、とても大事なことである。
音像は、どこまでいっても虚像でしかない。
その虚像に肉体の復活を感じるのは、ようするに錯覚でしかない。
骨格うんぬんも錯覚でしかない、といえるし、
血が通っているも、同じことである。
わかっている。
それでも、やはりそう感じられる音とそうでない音とがある。
REPLY))
1989年のCクリスチャンとMデュイムによる研究*1によると、経済的なステータスの高い家庭では子供のIQが高いことを示し、その原因として、高ステータスの過程では子供に対して話しかける単語数と時間が、低所得者層と比較して圧倒的に多いことが分かりました。ところが、後の言語学研究*2で、教育番組やコンテンツによる言葉のシャワーでは語彙力やIQは高くならないという事がわかりました。2013年MMルイーズとZパンの研究では、セサミストリートを18か月未満の赤ん坊に連続的に見せても知能発達に寄与しないことが示唆されました。これは番組が有害なのではなく、コンテンツの視聴時間だけ子供に話しかける機会が減ったためでした。話しかける人は生身の人間であれば、親ではなくてもいいという事もわかりました。なぜコンテンツの音声では知能が向上しないのかは解明されていません。
いかがでしょうか。ここには様々なファクターがあるとは思います。ここで単純に、生身の人間が発声した声と再生音とを、赤ん坊が聞き分けていると考えてみるのも面白いのではないかと考えました。
私が再生音のリアリティーに対して個人的に思うことは、話者(奏者)自信が自分自身の音に反応しながら発音しているかどうかということです。昔、伊豆で自動演奏のバイオリンを聞いたことがあります。バイオリンを使ったオルゴールのようなものでした。そこには肉体の血もありませんでしたが、ラウド・スピーカーでは得られない楽器としての実感がありました。レストランで奏でられる自動演奏のピアノもこの類のものでしょう。しかし、彼らには耳が無いためにフィードバックが効かないわけです。
EDMやDTMで作られた音楽にしても、最終的に人間の耳でフィードバックして作られています。このフィードバック量と多彩さが楽音に生気を感じさせているように思います。
[*1] Capron, Christiane, and Michel Duyme. “Assessment of effects of socio-economic status on IQ in a full cross-fostering study.” Nature 340.6234 (1989): 552-554.
[2] Pinker, Steven. The language instinct: The new science of language and mind. Vol. 7529. Penguin UK, 1995.
[3] Mares, Marie-Louise, and Zhongdang Pan. “Effects of Sesame Street: A meta-analysis of children’s learning in 15 countries.” Journal of Applied Developmental Psychology 34.3 (2013): 140-151.