Date: 12月 19th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その5)

いまはステレオサウンドグランプリ(Stereo Sound Grand Prix)と名称になっている賞は、
以前はコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー(Components of The Year)だったし、
その前はステート・オブ・ジ・アート(State of The Art)だった。

ステート・オブ・ジ・アート賞の最初は49号(1978年12月発行)であるから、
ステレオサウンドの、いまにつづく賞は、ここから始まった、ともいえるけれど、
実際にはこの2年前、1976年12月に出た41号から始まった、とみるべきである。

ステレオサウンド 41号の特集は「コンポーネントステレオ世界の一流品」であり、
賞がつく名称こそ使われていないが、
記事全体のつくり方を41号と49号を比較してみると、同じといえる。

41号で「世界の一流品」として選出されているコンポーネントは下記のとおり。
●スピーカーシステム
 JBL 4350
 JBL 4343
 JBL D44000 Paragon
 アルテック A5
 QUAD ESL
 ボザーク B410 Moorish
 ヴァイタヴォックス CN191
 タンノイ Arden
 タンノイ Devon
 タンノイ Eaton
 ダイヤトーン 2S305
 シーメンス Eurodyn
 シーメンス Europhon
 JBL 4333A
 JBL L300
 アルテック 620A
 エレクトロボイス Sentry IVA
 クリプシュ K-B-WO Klipsch Horn
 ラウザー TPI Type D
 ロックウッド Major Gemini
 ロックウッド Major
 KEF Model 5/1AC
 KEF Model 104aB
 KEF Model 103
 ロジャース LS3/5A
 アコースティック・リサーチ AR10π
 キャバス Brigantin
 スペンドール BCII
 アリソン Alison One
 ダルキスト DQ10
 マグネパン MGII
 セレッション UL6
 ビクター SX3III
 ヤマハ NS690II
 サンスイ SP-G300
 サンスイ LM022
 ビクター S3
 ヤマハ NS451
 デンオン SC104
 ダイヤトーン DS251MKII
 オンキョー M3

アンプ、チューナー、プレーヤー、カートリッジなども選出されていて、
これらについても書き出そうと最初は思っていたものの、
けっこうな数になるので、スピーカーシステムだけにしておくが、
41号で選出されたスピーカーシステムの中で最も高価なのはシーメンスのEurophonで、145万円(1本)、
反対に最も安価なのはヤマハのNS451で、26500円(1本)。
50倍以上の開きがある。

Europhonは2ウェイのスピーカーシステムだが、パワーアンプ内蔵でしかもマルチアンプ駆動ということも、
高価な理由でもある。
アンプを搭載していないスピーカーシステムでは、
やはりシーメンスのEurodynで、110万円(1本)。

Date: 12月 18th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その4)

座談会での発言は、誌面にそのまま載るわけではない。
だれかがまとめるわけだから、そこでなんらかの修整がはいる。

そんなことせずに話されたことをそのまま活字にすればいいじゃないか、と思われる方もいるだろうが、
それをやってしまうと、その場で座談会を聞いていればわかることも、
ただそのまま活字にした場合は意味がはっきりしないことも出てくる。

互いの顔を見ながらの座談会と活字だけの場合との違いが、そこにある。
それに文量の問題も当然あって、編集者なり、だれかがまとめることになる。

ステレオサウンドとラジオ技術とでは、まとめる人が違う。
もうこれだけでも、たとえまったく同じことが話されていたとしても活字になる場合には、違うものとなる。

そういうことも含めて、これまで読み比べることができた。
今年から、そんな楽しみがなくなったわけだが、
そういう楽しみよりも、ラジオ技術らしい記事をその分読めるほうがうれしい。
暮に出る号だから、と、なにか特別な記事が必要というのは、
これほどどのオーディオ雑誌も賞を発表している状況では、逆にありきたりな印象さえ漂ってくる。

しかも季刊誌ともなると、年に4冊しか出ない。
そのうちの1冊の特集が、賞関係の記事になってしまうことがこれまでもずっと続いてきているし、
たぶん、これからもまだまだ続いていくのだろう、と思うと、
この気持はなんと表現したらいいのだろうか──、
ありきたり、代り映えのしない、といったものとも違う、
少し言葉が過ぎるかもしれないと思いつつも、空虚──、そんなことを感じてしまう。

Date: 12月 18th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その17)

ヤマハのAST1の試聴のときの、
長島先生と原田編集長の、あれほどの興奮は、いまごろになって実感でき理解できるようになった。

つまり、いまになって非ピストニックモーションの低音と
ヤマハのAST1の低音に共通するところがあることに気がついた、ともいいかえられる。

あのとき原田編集長は長島先生に、
「これ(AST方式)、真空管アンプでできませんか」と訊かれていた。

真空管アンプ、それも出力トランスをしょっているアンプで、
ヤマハのAST方式を実現するのは、不可能ではないもののけっこう難しい。
低域の時定数が、出力トランスを含め多すぎるため、安定度が確保できない。

このときの試聴には、ヤマハからはエンジニアの方もこられていたので、
長島先生とエンジニアの方から、ダブルでダメ出しをされて、
本気で残念そうにされていた原田編集長の表情が、いまも思い出される。

AST1が可能にした低音を、ほんとうに手に入れたがっているのが伝わってきた。

AST1の低音は、コーン型ユニットのウーファーがメインではなく、
バスレフポートからの放出がメインである。そのための専用アンプ込みのAST1である。

理想のバスレフ動作を目ざして開発されたAST1のバスレフポートの開口部から放出される低音は、
ピストニックモーションによる疎密波ではない。風に近い、といったほうがいいだろう。

そういう低音だから、ウーファーのコーン紙が前後にピストニックモーションして生み出される疎密波とは、
聴いた印象、それに体感する印象がずいぶん異る。

そして同じようなサイズの小型スピーカーシステムで、バスレフポートをフロントバッフルにもつモノ、
たとえばアコースティックエナジーのAE1、AE2の低音の出方とは、また大きく異る。

Date: 12月 18th, 2012
Cate: SME

SME Series Vのこと(その4)

SMEのSeries Vに関しては、絶賛を惜しまない。
Series Vは完成度の高いトーンアームである、からが、その理由だけではない。

1985年からいまだに現役のトーンアームとしてつくり続けてくれていることも大きい。

オーディオに関心をもちはじめた1976年は、
いまほど円高ではなかった。数年後に円高が進んでいくけれど、
まだまだ輸入オーディオ機器は、非常に高価だった。

JBLの4343もペアで約150万円していた。
マークレビンソンのLNP2が118万円していた。
いまのように長期のローンもまだなかった。
おまけに私はまだ中学生。
いつかは4343、いつかはLNP2と思っていても、そう簡単に手に入れられるわけではない。

それこそ高校に行き、大学に行き卒業して就職して……、
そうやって手に入れるオーディオ機器であり、それには最低でも10年は必要だろうな、と漠然と思っていた。

実際はどちらも購入しなかったわけだが、
仮に10年後の購入を目ざしてがんばったところで、
10年後の1986年には4343もLNP2、どちらも現役の製品ではなくなっていた。

4343、LNP2に限ったことではない。
4343、LNP2よりもずっと高価なのに、短期間でなくなってしまうモノも少なくない。

欲しい、と思い購入を決意して、そこに向ってひたすら頑張っても、
かなう前に目的のオーディオ機器が消えてしまっている……。

Series Vは27年間、いまだに現役のオーディオ機器である。
これはほんとうに素晴らしいことである。
倍近い価格に値上がりしたとはいえ、Series Vの購入を決意した人は手に入れられる。

しかも、いまも最高のトーンアームである。
だからSeries Vに関しては、いささかも絶賛を惜しまない。

Date: 12月 18th, 2012
Cate: SME

SME Series Vのこと(その3)

さきほどtwitterを眺めていたら、
Yahoo! オークションで、
オーディオクラフト、サエクのトーンアームがとんでもない価格で落札されたことを知った。

どちらもいまは製造されていないトーンアームだし、
アナログディスク全盛時代のトーンアームである。
オーディオクラフトのAC3000MCか、そのロングヴァージョンのAC4000MCの程度のいいモノがあれば、
私だって欲しい、という気はある。
でも、そんなに無理してでも、というわけではない。
私にとって妥当な価格であって、縁があれば欲しい、のであって、
今回のように40万円をこえる金額で落札されている事実をみてしまうと、
価値観は人それぞれゆえに、私が横からとやかくいうことではないと承知していても、
「40万円……」と思う。

サエクは、ヤマハのプレーヤーGT2000に取付け可能モデルということで、60万円をこえていた。
驚くだけである。

トーンアームはコレクションしたくなるオーディオ機器である。
でもそんなことを無視して、音、使いやすさ、安定度、信頼性、
こういったことを考えると、私はトーンアームはSMEのSeries Vしかない、と思っている。

はじめてステレオサウンド試聴室でSeries Vを聴いた時から、
もうこれをこえるトーンアームは出てこない、と思ったし、事実、そうだ。

Series Vよりも価格の点でこえるトーンアームはいくつかある。
けれど、それらのトーンアームには、ほとんど魅力を感じない。

Series Vも当時は40万円だった価格が、70万円(税別)になっている。
高いといえば高い価格ではあるものの、
当時の40万円よりも、いまの70万円のほうが、他社製の高額なトーンアームが増えすぎたせいと、
アナログディスク全盛時代のトーンアームがほぼ変らぬ価格で落札されていることで、
相対的に安く感じてしまう。

1985年からずっと、最高のトーンアームを手にしたければ、Series V以外にない──、
27年間、これだけは変らぬ結論であり、私がくたばるまで変らぬ結論だ、と断言できる。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その27)

JBLのD130は60年以上前に開発・設計されたスピーカーユニットであり、
その、いわば大昔のユニットを、これまた昔の主流であったバックロードホーンにいれる──、
いまどきのスピーカーシステムを志向される人からみれば、
いまさら、なにを……とあきれられることをやろうとしている。

D130とバックロードホーンの組合せで聴いている人は、
日本においては少数派ではないかもしれない。意外に多いようにも思っている。

でも、ずっと以前から、この組合せで聴いてきた人たちと、
いまごろD130とバックロードホーンの組合せで聴こう、とする私とでは、同じに語れないところもある。

このことは私だけのことでもないし、D130だけにあてはまることではない。
他のスピーカーでも、ほかの人の場合にでも、同じに語れないところがあるからこそ、
スピーカー選ぶことの難しさを感じ、それを面白い、とも思うわけだ。

ずっとずっとD130を鳴らしてきている人に対し、
私は「いいスピーカーを鳴らされていますね」と本音でいう。
そんな人はいないと思うけれど、私が書いたものを読んで、
JBLのD130に興味をもち、鳴らしてみようという人がいたら、
「やめたほうがいいかもしれません」と、やはりこちらも本音でいう。

スピーカーの真の価値は、そういうことによっても変化するものである。

つまり私にD130を鳴らしてきた、いわば歴史がない。
しかも、もう若くはない。
そういう歳になって、こういうスピーカーを鳴らそうとしているわけだから、
D130を鳴らすことにおいて、徹底してフリーでありたい、と思う。
特にパワーアンプの選択に関しては、それを貫きたい。

だからといって、なにも数多くの既製品のパワーアンプをD130で聴きたい、ということではない。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その9)

「なくなったもの」がなんであるのかに気がついた、として、
それで即面白いオーディオ雑誌がつくれるようになるわけではない。

気づくことで、面白いオーディオ雑誌をつくっていくための方向に目を向けた、ということである。

「なくなったもの」に気づけば、
これから先、何を考えていかなければならないのか、何をしていかなければならないのか、
そのためには何が必要になるのか、が見えてくるようになる。

何が必要になるのか──、
これだけはあえて書いておく。
別項「オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは)」でもふれている”strange blood”である。

もうひとつ書いておくと、「なくなったもの」と書いているのだから、
ずっとずっと以前のステレオサウンドには「あったもの」である。
ずっと「ないもの」ではないということである。

「なくなったもの」がわかれば、
そのころのステレオサウンドにとっての”strange blood”とは、ということもはっきりと見えてくるはずだ。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その3)

ラジオ技術のコンポ・グランプリの審査員は、最初のころはどうだったのかは知らない。
けれど私がオーディオに関心をもちはじめたころから、石田善之氏が途中から加わっただけで、
高島誠氏、岡俊雄氏、長岡鉄男氏ほか、亡くなられた人がいて、減っていくだけであった。

ずっとそういう状態だったから、いつかはコンポ・グランプリも終りをむかえる日が来るのだろう……、
とは思っていたけれど、ふいに訪れた、という感じである。

私は個人的にラジオ技術からコンポ・グランプリが消え、喜んでいる。
コンポ・グランプリによって毎年1月号は、そこそこの頁が割かれてしまう。
私がラジオ技術に求めている記事が、その分減ってしまう。

まぁ、それでもラジオ技術は月刊誌だから年に12冊出る。
そのうちの1冊がコンポ・グランプリ、それも大半の頁がそうとはいうわけではないから、
12分の1であれば(実際にページ数で換算すれば、もっと小さくなる)、
これはこれで楽しみかな、という部分もあった。

ステレオサウンドも賞をやっている。
そのステレオサウンドの賞とコンポ・グランプリでは、以前は岡先生と菅野先生が審査委員としてだぶっていた。
ステレオサウンドは、選ばれた各機種について最初のころは、筆者ひとりによる書き原稿だった。
それが座談会になってしまい、そのままずっと続いてきている。
今年も座談会での紹介である。

ラジオ技術も座談会でなのだが、
ここでステレオサウンドとラジオ技術の違いが出てくる。
岡先生、菅野先生がどちらの賞にも共通しているけれど、座談会での発言を読み比べるという楽しみがあった。

ステレオサウンドもラジオ技術も選考日は11月の上旬である。
日が近い。
選ばれる機種も重なることも多い。だからこそ読み比べるわけである。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その6)

「欠陥」スピーカーとは、具体的にはどういうスピーカーのことになるのか。

たとえばアナログプレーヤーの場合、
33 1/3回転と45回転、この2つの回転数をどうやって実現できないプレーヤーがもしあったとしたら、
そのプレーヤーは欠陥プレーヤーということになる。
これは誰もが欠陥と判断する。

規定の回転数で再生されることが、まず大前提にあるからだ。

でもモーターが安定するに時間がかかり、
安定すればきちんと決められた回転数を維持できるプレーヤーならば、どうだろうか。
安定するのに1時間も2時間もかかるのであれば、それは欠陥といいたくもなるけれど、
10分ぐらいであれば、欠陥とまでは呼びにくい。
欠点ではあっても、欠陥ではない。そういうことになる。

またモーターのトルクが弱いプレーヤーもある。
以前の製品ではトーレンスのTD125がそうだった。
気の短い人だと、すこしいらっとするくらいターンテープルプラッターの立上りは遅い。
それにレコードクリーナーを強く押し当てると回転が止りそうになるくらい、
モーターのトルクは弱い。

けれど、このモーターのトルクのなさがTD125の音の良さに関係しているのであれば、
モーターのトルクの弱さは欠点であっても、欠陥とは呼べない。
使い手がTD125を気に入っていて、このくらいの欠点ならば使い方の工夫でどうにかすることにおいては、
欠点ではあっても、使い手はそれほど気にしないことになる。

欠点と欠陥は似ているようで、はっきりと違うものである。
ならばスピーカーの欠陥とは、どういうことなのか。
プレーヤーにおける規定の回転数を出せない、のと同じ意味での欠陥はあるのだろうか。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その13)

骨格のしっかりした音、骨格のある音がうまく説明できないのであれば、
骨格のばらばらな音、骨格のない音をその対比としてうまく説明できればいいのだが、
これもまた難しい……、と、書きあぐねていたら、
別項「ちいさな結論(その3)」にて引用した丸山健二氏の「新・作庭記」が、
まさにそうだということに、さきほど気づいた。

こういう文章は書けない。
いつか書ける日が、ただ一回でもいいから来てほしいのだが……。

ここで、もういちど丸山氏の文章を引用しておく。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして行きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にない。
     *
「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心」を「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった音」とすれば、
それこそが骨格のばらばらになってしまった音であり、骨格のない音でもある。

そして、そういう音を出すスピーカーこそが、
私が幾度となく、しつこく書いている「欠陥」スピーカーの音でもある。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その2)

いまでは、どのオーディオ雑誌も暮に出る号で、それぞれの賞を決めて発表する。
この賞をオーディオの世界に最初に持ち込んだのが、ラジオ技術である。

ラジオ技術のコンポ・グランプリは、記憶違いでなければ1970年に始まっている。
コンポ・グランプリは通称であり、正確にはベスト・ステレオ・コンポ・グランプリなのだが、
ちょっと長いのでコンポ・グランプリと略させてもらう。

なぜラジオ技術はコンポ・グランプリを始めたのか。
その理由は、古くからオーディオで仕事をしていた人から聞いて知っている。
それをここで書くのは控えたい。

とにかく、ある理由からラジオ技術のコンポ・グランプリが始まった。
その理由を知る者からすると、ここまで続いたのが不思議に思えるけれど、
それだけ続けてきたということは、コンポ・グランプリのもつ影響力があったからだろうし、
おそらくコンポ・グランプリが発表される号は、他の号よりも売れたのだろう。

とにかく続いてきた。
40年以上続いてきたわけだ。

そのコンポ・グランプリを、今年ラジオ技術は行わなかった。
その理由は、ラジオ技術1月号に載っている。
未読だから外れているかもしれないが、
いくつかのあるであろう理由のなかで最も大きいのは審査委員に関係することのはず。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その1)

ラジオ技術が書店売りをやめてから数年が経つ。
秋葉原の書店に行けば店頭売りされているけれど、
その秋葉原の書店も、ラジオデパートの2階にあった電波堂書店も今夏閉店してしまい、
ラジオ技術を置く書店が、ひとつ減っている。

ラジオ技術は面白いオーディオ雑誌である。
洗練はされていない。だから、あんな雑誌、という人もいることは知っている。
ラジオ技術の執筆者の方々を素人集団と呼ぶ人も知っている。
そう呼ぶ人が実のところ、ご本人はクロウトだと思い込んでいるのだろうけど、はなはだあやしかったりする。

たしかにアマチュア(素人とはあえて書かない)の方々の発表の場になりつつあるラジオ技術。
だからこそ、私はラジオ技術が面白いと感じている。
こんなアイディアもあるのか、と感心する例が、決して少なくない。

最近ではネルソン・パスの記事の翻訳が不定期で載っている。
パスの記事は英文でならインターネットで読めるけれど、
やはり日本語で読めるのは、正直助かる。

ステレオサウンドは完全に買うのはやめてしまったけれど、
ラジオ技術だけは、不定期ではあるけれど秋葉原に行った際に購入している。
まだまだ続いてほしいからである(できれば定期購読したいところなのだが)。

今号(1月号)は、例年通りならば、ラジオ技術の巻頭をかざる記事は、コンポ・グランプリである。
けれど今号に、コンポ・グランプリは載っていない、らしい。
らしい、と書くのは自分の目でまだ確かめていないからなのだが、
コンポ・グランプリは昨年で最後になった、ということだ。

今号には4ページほどの、なぜそうなったのかについての記事が載っている、とのこと。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: 言葉

読み返してほしい、と思うもの

気が向いたときに、以前書いたことを思い出しては読み返すことがある。
書くことにつまってしまったときもそうしてるし、
書いていることをすこし整理しようと思ったときもそうしている。

今晩も書き始めたころ、つまり2008年に書いたことを読み返していた。
読み返して、これはもういちど読んでほしい、と思うのがいくつか出てくる。

そう思っても、あえてそれをここで書いたりはしてこなかったが、
今回はあえて書いておく。

どちらも2008年11月に書いたものだ。
ひとつは「石井幹子氏の言葉」、もうひとつは「かわさきひろこ氏の言葉」である。

光、あかり、照明について、ふたりの方が語られている言葉を引用して書いたものだ。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その8)

JBLやアルテックがジャズに向いているスピーカーとして、
タンノイやヨーロッパ系のスピーカーがクラシックに向いているスピーカーとしてとらえられていた、
ずっと昔には、クラシックの録音は自然であり、ジャズの録音は強調されたもの、としても受けとめられていた。

クラシックの録音には、マイクロフォンを一対だけ使ったワンポイント録音があり、
完全なワンポイントではなくともワンポイントを主として、補助マイクロフォンをたてるという手法がある。
そうやって録られた(もちろんうまく録られた)ものを優秀録音、好録音ということになり、
自然な録音という言葉でも表現されることがあった。

ワンポイントでオーケストラを全体の音・響きをとらえようとするわけだから、
当然マイクロフォンの位置は楽器(奏者)の位置からはある程度の距離をおくことになる。

一方、そのころのジャズの録音では、マイクロフォンは楽器のすぐ近くに置かれることが多かった。
耳をそんなところにおいて楽器のエネルギーをもろに聴いてしまったらたえられない、
そういう位置にマイクロフォンをおいて録る。

その位置のマイクロフォンが拾えるのは、楽器からの直接音がほほすべてであり、
間接音はほとんど収音されることはない。
だから、そういうジャズの録音を強調されたもの、としてとらえるわけで、
それは、いわば不自然な録音ということになる。

マイクロフォンの位置を耳の位置として考えれば、
クラシックは自然な録音、ジャズは不自然な録音、といえなくはない。

けれど、録音は録音だけで完結するものではなく、
再生側の都合というものが、密接にからんでくるものである。
そうなってくると、クラシックの方がむしろ不自然なところがあって、
ジャズの方が自然な録音といえるようにもなってくる。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その5)

「欠陥」スピーカーの存在をまるごと否定しようとは思っていない。
なぜなら、「欠陥」スピーカーが数は少ないながらも、
しかもずっと昔の欠陥スピーカーとは違い、一聴、まともな音を鳴らしながらも、
音楽を変質・変容させてしまうスピーカーがあるということは、
スピーカーの欠点とはなにか、そして音楽を鳴らす、ということについて考えていくうえで、
比較対象としての存在価値は認めている。

音は音楽の構成要素だとされている。
否定しようのない、この事実は、再生音という現象においてもはたしてそうなのだろうか。

いまは答を出せないでいる、この問いのために、
いちどは「欠陥」スピーカーを自分のモノとして鳴らしてみることが、
ほんとうは必要なのかもしれない。
それも、私が認める、音楽を聴くスピーカーとして信頼できる他のスピーカーと併用せずに、
「欠陥」スピーカーだけで、たとえば1年間を過ごしてみたら、どういう答にたどり着くだろうか。

そんなことを考えないわけではないが、
そういうことを試してみるには、「欠陥」スピーカーはあまりにも高価すぎる。
それに愛聴盤を、私は失ってしまうかもしれない……。

いま別項で書いている「手がかり」を私は持っている。
だから、愛聴盤を失ってしまうことはない、ともいえる反面、
その「手がかり」が変質・変容してしまったら、やはり愛聴盤を失うのかもしれない。

これは、おそろしいことなのかもしれない。

すくなくとも私は、「欠陥」スピーカーに対して、「手がかり」のおかげで敏感に反応できている。
けれどまだ自分の裡に「手がかり」を持っていない聴き手が、
これらの「欠陥」スピーカーを、世の中の評判を信じて聴いてしまったら──、と思ってしまう。

別項で書いた「聴くことの怖さ」が、別の意味でここにもある。