オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その5)
「欠陥」スピーカーの存在をまるごと否定しようとは思っていない。
なぜなら、「欠陥」スピーカーが数は少ないながらも、
しかもずっと昔の欠陥スピーカーとは違い、一聴、まともな音を鳴らしながらも、
音楽を変質・変容させてしまうスピーカーがあるということは、
スピーカーの欠点とはなにか、そして音楽を鳴らす、ということについて考えていくうえで、
比較対象としての存在価値は認めている。
音は音楽の構成要素だとされている。
否定しようのない、この事実は、再生音という現象においてもはたしてそうなのだろうか。
いまは答を出せないでいる、この問いのために、
いちどは「欠陥」スピーカーを自分のモノとして鳴らしてみることが、
ほんとうは必要なのかもしれない。
それも、私が認める、音楽を聴くスピーカーとして信頼できる他のスピーカーと併用せずに、
「欠陥」スピーカーだけで、たとえば1年間を過ごしてみたら、どういう答にたどり着くだろうか。
そんなことを考えないわけではないが、
そういうことを試してみるには、「欠陥」スピーカーはあまりにも高価すぎる。
それに愛聴盤を、私は失ってしまうかもしれない……。
いま別項で書いている「手がかり」を私は持っている。
だから、愛聴盤を失ってしまうことはない、ともいえる反面、
その「手がかり」が変質・変容してしまったら、やはり愛聴盤を失うのかもしれない。
これは、おそろしいことなのかもしれない。
すくなくとも私は、「欠陥」スピーカーに対して、「手がかり」のおかげで敏感に反応できている。
けれどまだ自分の裡に「手がかり」を持っていない聴き手が、
これらの「欠陥」スピーカーを、世の中の評判を信じて聴いてしまったら──、と思ってしまう。
別項で書いた「聴くことの怖さ」が、別の意味でここにもある。