バックハウス「最後の演奏会」(その13)
骨格のしっかりした音、骨格のある音がうまく説明できないのであれば、
骨格のばらばらな音、骨格のない音をその対比としてうまく説明できればいいのだが、
これもまた難しい……、と、書きあぐねていたら、
別項「ちいさな結論(その3)」にて引用した丸山健二氏の「新・作庭記」が、
まさにそうだということに、さきほど気づいた。
こういう文章は書けない。
いつか書ける日が、ただ一回でもいいから来てほしいのだが……。
ここで、もういちど丸山氏の文章を引用しておく。
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ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして行きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にない。
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「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心」を「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった音」とすれば、
それこそが骨格のばらばらになってしまった音であり、骨格のない音でもある。
そして、そういう音を出すスピーカーこそが、
私が幾度となく、しつこく書いている「欠陥」スピーカーの音でもある。