Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その5)

「欠陥」スピーカーの存在をまるごと否定しようとは思っていない。
なぜなら、「欠陥」スピーカーが数は少ないながらも、
しかもずっと昔の欠陥スピーカーとは違い、一聴、まともな音を鳴らしながらも、
音楽を変質・変容させてしまうスピーカーがあるということは、
スピーカーの欠点とはなにか、そして音楽を鳴らす、ということについて考えていくうえで、
比較対象としての存在価値は認めている。

音は音楽の構成要素だとされている。
否定しようのない、この事実は、再生音という現象においてもはたしてそうなのだろうか。

いまは答を出せないでいる、この問いのために、
いちどは「欠陥」スピーカーを自分のモノとして鳴らしてみることが、
ほんとうは必要なのかもしれない。
それも、私が認める、音楽を聴くスピーカーとして信頼できる他のスピーカーと併用せずに、
「欠陥」スピーカーだけで、たとえば1年間を過ごしてみたら、どういう答にたどり着くだろうか。

そんなことを考えないわけではないが、
そういうことを試してみるには、「欠陥」スピーカーはあまりにも高価すぎる。
それに愛聴盤を、私は失ってしまうかもしれない……。

いま別項で書いている「手がかり」を私は持っている。
だから、愛聴盤を失ってしまうことはない、ともいえる反面、
その「手がかり」が変質・変容してしまったら、やはり愛聴盤を失うのかもしれない。

これは、おそろしいことなのかもしれない。

すくなくとも私は、「欠陥」スピーカーに対して、「手がかり」のおかげで敏感に反応できている。
けれどまだ自分の裡に「手がかり」を持っていない聴き手が、
これらの「欠陥」スピーカーを、世の中の評判を信じて聴いてしまったら──、と思ってしまう。

別項で書いた「聴くことの怖さ」が、別の意味でここにもある。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その4)

ヘブラーの演奏を多く変質させてしまうスピーカーというのは、
なにもいまの時代だけでなく、ずっと以前から、いつの時代にもいくつか存在していた。
だから菅野先生はステレオサウンド 54号でのスピーカー特集号での座談会で発言されているわけだ。

ただ、そういうスピーカーと、私がいま「欠陥」スピーカーと呼んでいるスピーカーとの大きな違いは、
まず価格にある。
いまの「欠陥」スピーカーは、おかしなことに非常に高価なモノに偏っている。
しかも、それらのスピーカーを高く評価しているオーディオ評論家と呼ばれる人たちが、またいる。

そういう人たちが高く評価するのも理解できないわけではない。
そういう人たちの音の聴き方であれば、確かに高い評価となるだろう。
そういう人たちの耳が悪い、といいたいのではない。

そういう人たちと私とでは、聴きたい音楽が違う、ということ、
一部の音楽は重なっていても、その音楽の聴き方がまったく違うことによって、
そういう人たちは高く評価して、私は「欠陥」スピーカーとして拒絶する。

もちろんオーディオ機器の音は、それを使う人、鳴らす人によって、
時には大きく変容することがあるのはわかっている。
そのスピーカーに惚れ込むことで、より使いこなしに励み、いい音を出している例もあるのではないか──、
そう思われる方もいるはず。

だが使い手によって、使い手の愛情によってどうにかなるのはスピーカーの欠点であり、
欠陥ではない、ということをはっきりさせておきたい。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その3)

「欠陥」スピーカーと心の中で呼んでいる、
いくつかのスピーカーシステムを私は毛嫌いしている。

くれる、といわれても即座に断ってしまうくらいに、これらの「欠陥」スピーカーを認めていない。
なぜ、そこまで「欠陥」と感じてしまうのかといえば、
これらのスピーカーは欠点を持っているスピーカーではなく、欠陥であるから、である。

スピーカーというものは不完全な、だからこそ非常に興味深く魅かれるからくりであるから、
どのスピーカーにも欠点は存在している。
いくつも欠点をもつスピーカーもある。比較的欠点の少ないスピーカーもあるが、
まったく欠点をもたないスピーカーは、此の世にひとつとして存在していないし、
これからどんなに技術が進歩しようとも、欠点が少なくなることはあってもなくなることはない。

欠点を指摘するのは簡単である。
「欠陥」スピーカーにも、もちろん欠点はある。
「欠陥」スピーカーの中には、欠点が比較的少ないスピーカーも、ある。

私は、欠点があるから、とか、欠点が多いから、
いくつかのスピーカーを「欠陥」スピーカーと心の中で呼んでいるわけではない。

別項の、「音楽性」とは(その10)でも引用した菅野先生の発言を、
またここで引用しておこう。
     *
特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
こういうことが実際にスピーカーによって起る。
それだけではない、やはり別項で書いているように、
あるスピーカーでグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲が鳴っていたとき、
いつもならすぐにグールドの演奏だとわかるのに、
そのときは「もしかしてグールド?」という感じになってしまった。
しかもそこで鳴っているピアノは、
どう聴いてもヤマハのCFではなく、どこか得体のしれないアップライトピアノでしかなかった。

こういう体験は、他でもいくつかある。
だから、ある特性のスピーカーを、私は「欠陥」スピーカーと呼ぶ。

それらのスピーカーが、
どんなに音場感をきれいに出そう(ほんとうに音場の再現性において精確かどうかは、別の機会に書く)とも、
歪の少ない音であっても、位相特性が優れている、
聴感上のS/N比が優れていようとも(ただ、これらはすべて世評であって私は必ずしも同意しない)、
ヘブラーの演奏をお嬢様芸よりもひどく聴かせられたら、
グールドの演奏を別人のようなに聴かせられたら、たまったものではない。

そういうスピーカーは、音楽を聴くスピーカーとして私は信頼できない。

Date: 12月 14th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その6)

上杉先生は、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」を、
試聴レコードとして使われていたことは、よく知られている。

といっても私がいたときにはすでに、このレコードは使われていなかったし、
私がステレオサウンドを読みはじめたときにもすでに使われていなかったけれど、
それでも何かで読んで、私も知っていたくらいであるから、そうとうに知られている話である。

池田圭氏の美空ひばり、上杉先生の沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」、
柳沢功力氏のローズマリー・クルーニー、私のグラシェラ・スサーナ、
これらは(私の勝手な想像ではあるが)、すべて共通している、それぞれの人にとってのそれぞれの歌手である。

前回、この項で引用した瀬川先生の文章を、もう一度思い出してほしい。

そこには、「この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳」を作ることについて書かれている。
そのためには「理屈の先に立たない幼少のころ」に、
「頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう」ことを説かれている。

「音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪いと、とはっきり指摘」する、
これは音を良くしていったときに気づくことよりも難しい。

なぜなのか。
結局、音を聴く人の中に、はっきりとした音を判断する手がかりがないためだと思う。

私にとってグラシェラ・スサーナは、いわば最初の「手がかり」でもあった。
はっきりとした手応えのある「手がかり」であったからこそ、
このグラシェラ・スサーナという手がかりをもとに、次の手がかりを自分の中につくっていき、
グラシェラ・スサーナという手がかりを、次の段階では足がかりにして、
次の手がかりに手をかけて上に登っていけたように、いまは思っている。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その2)

そうとうな数の音を聴くことではっきりとしてくることがあるのだから、
その意味でも、少しでも数多く聴いたほうがいい、と私も思う。

そう思いながらも、最近では、あえて聴かないという選択もあるということ、
そして聴かないという選択が聴くという選択よりも、時としていい結果をもたらすこともある、
と、そうも思っている。

別項の、「音楽性」とは、のところで「欠陥」スピーカーのことについてふれた。

どこのスピーカーを「欠陥」スピーカーと思っているのか、
それについては具体的なブランド名、型番は出さない。
けれど、これらのスピーカーシステムにはどうしても納得できない音楽の鳴り方がしてくる。
もっといえば音楽を歪めて、それもきわめて歪めて聴かせてくれる。

もっとも、これらのスピーカーシステムで歪められると感じるのは、私が聴きたい音楽であって、
それが私にとって音楽が歪められている、と感じからこそ、「欠陥」スピーカーととらえているわけである。
けれど、聴く音楽が違えば、このスピーカーのどこが欠陥なの? と思う人もいる。

私が「欠陥」スピーカーと思うだけであって、
これらのスピーカーのオーディオ雑誌での評価は割と高い。
一部の人はかなり高く評価している。

でも、その人と私とでは聴く音楽が違いすぎるから、
私が優れたスピーカーと思っているモノを、その人は「欠陥」スピーカーと思っているかもしれない。

それはそれでいいじゃないか──、
と私にいう人もいる。
でも、そんなことはわかったうえで、それらのスピーカーを「欠陥」だと書くのは、
これらのスピーカーシステムによって音楽を聴くことによって、音楽が歪められるだけでなく、
聴き手もときとして歪められることもあるからだ。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その1)

オーディオは、聴くことからはじまる。
だから、少しでも数多く聴いたほうが、原則としてはいい、といえる。

たとえばいまはあまりいわれなくなっていことに、
アメリカンサウンド、ブリティッシュサウンドといったことがあり、
アメリカンサウンドもウェストコーストとイーストコーストとに分類されていた。

実はそのころから、たとえばブリティッシュサウンドといっても、
タンノイとQUADのESLとではずいぶん音の傾向は異るし、
同じダイナミック型のスピーカーシステムでも、タンノイとBBCモニター系のモノとでは、やはり異る。
BBCモニター系と呼ばれるスピーカーシステムでも、
スペンドールとロジャース、それにハーベスでは、それぞれに独自の音をもっている。
だからブリティッシュサウンドなんて呼ばれるものは、
オーディオ評論家が勝手に作り出したものだ──、
という意見があったのも事実である。

こういう意見も間違っているわけではない。
確かにブリティッシュサウンドといっても、メーカーによって音は異っていて当然であるし、
それはアメリカンサウンドについても同じことがいえる。

けれど、おそらくブリティッシュサウンドなんて、アメリカンサウンドなんて、といわれる方は、
それほど多くのスピーカーシステムを、それもまとめて聴く機会がなかった方ではないだろうか。

いや、そんなことはない。
新製品はできるだけオーディオ店に行き聴くようにつとめているし、
友人・知人の音も聴いているし、
どこかにいい音で鳴らしている人がいると耳にすれば、つてをたよって聴きにいく。
だから、そこそこの数の音を聴いている──、
そう反論されるだろうが、
どんなに個人で積極的にさまざまな音を聴いたとしても、
それはオーディオ評論家とオーディオ評論家と名乗っている人たちが聴いている多さからすると、
かなり少ない、ということになる。

そして大事なのは、たとえばスピーカーシステムの試聴があるとしたら、
短期間に集中的にかなりの数のスピーカーシステムを聴くことになる。
日本のスピーカー、アメリカのスピーカー、イギリスのスピーカー、その他の国のスピーカーなど。
こうやって聴くことによって見えてくることがらがあり、
だからこそアメリカンサウンド、ブリティッシュサウンドがあるということに気がつくのである。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)

2009年11月25日、同じタイトルで書いている。
その記事は1001本目であり、
1000本目で1クールが終り、1001本目から2クールがはじまる、といったことを書いた。

そのとき、

これまでの1000本は、すこし遠慮して書いてきたところもある。
これからの1000本は、「言いたいこと」をはっきりと書いていく。

こう結んでいる。

2日前の2012年12月11日の「続・ちいさな結論(その6)」が3000本目だった。
これで3クールが終り、4クールがはじまっている。

2000本目を書いたときも、これからの1000本は、はっきりと書いていく、と決めていた。
それでも、まだ遠慮して書いてきたところがある。
過激にならないようにおさえて書きながらも、はっきりと書いていくようつとめていた。

3000本目を書いた。すでに3001本目も書いた、3006本目まで書いている。
3001本目からは、「言いたいこと」をさらにはっきりと書いていこう、と決めている。

1000本ごとに少しずつ抑えているものを外しながら書いていけそうな気がしている。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その8)

30年以上前のステレオサウンドにあって、
最近(といってもここ数年ではなくて、もっと期間は長いのだが)のステレオサウンドに「なくなったもの」が、
なんなのか、もったいぶらずに書けばいいじゃないか、といわれるかもしれない。

ここでそれについて書くのは簡単であるし、時間もかからない。
なのに書かないのは、関係のない者から指摘されて、
そのことについてステレオサウンド編集部が納得したとしても、
自分たちで気がついたことでないことだから、いずれまた忘れてしまう。
大切なことから人はみな忘れてしまう──、
そのことをいくつもみてきているし、世の中にもいくつも、数えきれないほどある。

だからこそ自分たちで気がつかなければならないことである。
それができなければ、ステレオサウンドの誌面は良くすることはできても、さらにつまらなくなっていく。

ステレオサウンドのライバル誌として、一時期のスイングジャーナルがあった。
ジャズ・オーディオということに関してはステレオサウンドのライバルであったし、
ジャズ・オーディオに限れば、ステレオサウンドよりも影響力のあった雑誌だった。

そのスイングジャーナル、スイングジャーナルという会社とともに消えてしまった。
私には、このこともステレオサウンドがつまらなくなったことも同じ理由によるものだととらえている。
スイングジャーナルが熱を帯びていたときには「あったもの」が、
いつしか薄れ消えてしまっていた。
だから「つまらなくなった」という声が出はじめ、なくなった……。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その7)

編集者は、良くしていこう、と考えている。
記事を良くしていくことを考えている。
このことはいまのステレオサウンドの編集者も私が編集という仕事をやっていたときも同じはず。

けれど、これが時として雑誌をつまらなくさせていることに関係していることを、
編集という仕事を離れて、それもある程度の月日が経ってから気がついた。

ほんとうは編集という仕事をやっているときに気がつかなければならないことを、
私はそうではなかった。
だからこそ、いまの編集部の人たちも、
この「良くしていこう」という陥し穴にとらわれているようにみえる。

しかも「良くしていこう」とした成果は、あらわれている。
誤植が減ってきたのもそのひとつだし、発売日が守られているのももちろんそうである。

「良くしていこう」というのは決して間違いではないからこそ、
「良くしていこう」という陥し穴には、編集の現場にいるとよけいに気がつきにくいではないだろうか。

なぜなのかについて書くことも考えた。
けれど、これは編集の現場にいる人たちが自ら気がつかなければならないことである。

あったもの、なくなったもの──、
このふたつのことを考えていけば、きっと答にたどりつける。
たどりついてほしい、と思っている。

この項の(その4)に書いた「なくなったもの」ではない、違う何かがなくなっている、からである。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その6)

関係のない者が好き勝手なことを書いている──、
そう関係者は思うかもしれない、とそんなことは承知のうえで書いている。
それに「つまらなくなった……」と思っているのは、おまえのまわりの人間だけだろう、ともいわれることだろう。
類は友を呼ぶ、というから、私のまわりには「つまらなくなった……」という人が集まるのかもしれない。

それでも、あえてこんなことを書くのは、ステレオサウンド編集部にいたときには気づかなかったことが、
離れてみると、ふしぎなことによく見えてくる。
見えてくると、あったもの、なくなったものがはっきりとしてくる。
そうなると当然、なぜそうなってしまったのか、と考える、からである。

ステレオサウンドの185号が先日発売された。
新しい編集長になってまる二年、八冊のステレオサウンドが出た。

まだ読んでいない。
川崎先生の連載が載っていたころは、発売日に書店に行き購入していたけれど、
川崎先生の連載が終了してからは、購入をすっぱりとやめた。
それでも発売日には書店に行き、とりあえず手にとることはあったが、
もうそれもしなくなってしまった。
オーディオに対する情熱が失せたわけではない。

ステレオサウンドがもう必要なくなった、ということもある。
けれど、そうなったとしても、オーディオ雑誌としておもしろいものであれば、買うに決っている。
だから違うところに、
買わなくなった、すぐには手にすることもなくなってきたことに関係している何かがあるわけだ。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その5)

ながくステレオサウンドを読んできた人たちからよく聞くのは、
いまのステレオサウンドはつまらなくなってきた……、といったようなことだ。

ながく、といっても、それは人によって違う。
10年をながく、ととらえる人もいる。たしかに10年同じ雑誌を読んできたら、
それはながく読んできた、といえなくもない。
でも、ここで私がいっている「ながく」は20年でも足りない。
最低でも30年以上前からステレオサウンドを読んできたうえでの、「ながく」である。

私ですら、最初に買ったステレオサウンドから、もう36年になる。

だから10年をながく感じる読者、
たいていは30代前半か20代後半ぐらいの方が多いだろう。
そういう読者の人たちにとって、
ステレオサウンドは、いま出版されているオーディオ雑誌では圧倒的に面白く感じていても不思議ではない。
そういう若い読者からは、私くらいの読者、それよりながい読者の「つまらなくなった……」は、
単に昔を懐かしんでいるだけだろう、と思われている、とも思う。

いまのステレオサウンドの誌面のほうが、
昔のステレオサウンドよりもスマートだし、それに誤植も少ない、などといわれるかもしれない。
たしかに、それらの指摘を否定はしない。
誤植は、私がいたときよりも、私が読みはじめたときよりも、それ以前よりも、確実に減ってきている。
これは認める一方で、変な記述がときどき登場してくるのは、わずかとはいえ増えてきている気もする。

誌面構成はよくなっていると感じるところもあるけれど、そうでないとかんじるところもある。
それでも、ずっとずっと以前、私が読みはじめる前よりもずっと以前のステレオサウンドと比較すれば、
大きな違いである。

でも「つまらなくなった……」は、
そういう良くなったこととか、悪くなったこととは、それほど関係のないことである。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その5)

われわれオーディオマニアの大先輩のひとりである池田圭氏は、美空ひばりを聴け、といわれていた。
このことは瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
     *
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
     *
音楽は、すこしばかりの背伸びをしながら聴いていくことで、
音楽の世界はひろがり、音楽の奥深さを知っていくこともある。
背伸びしてきく聴くことを最初から放棄してしまっていては、
世の中には、ひとりの人間が生涯をすべてを音楽を聴くことのみに費やしても、
聴き尽くせぬほど多くの音楽が生まれてきている。

どんな音楽好きといわれる人でも、これまで生れてきた音楽の一割も聴けていないのかもしれない。
それだけ多種多様な音楽があるからこそ、聴き手は背伸びして聴くことがあるし、それが求められることもある。

けれど音の良し悪しを判断するときに背伸びしていたら、足下が覚束なくなる。
そんな状態で確かな音の判断ができるわけがない。

ここでも、自分の音の世界を拡充していくために背伸びしていくことは当然必要である。
でも、それは音の良し悪しを判断することとは異ることだ。

瀬川先生の「聴感だけを頼りに……」から、もうすこし引用しておきたい。
     *
 良い音を聴き分けるにはどうしたらいいか、と質問されたとき、私は、良い音を探す努力をする前にまず、これは音楽の音とは違う、この音は違うという、そう言えるような訓練をすることをすすめる。ある水準以上の良い音を再生して聴かせると、誰でもまず、その音の良いということは容易にわかる。その良さをどこまで深く味わえるかは別として、まず良いということがわかる。ところが反対に、音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪い、とはっきり指摘できる人が案外少ない。この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳を作るには、少なくともある一時期だけでも、できれば理屈の先に立たない幼少のころ、頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう方がいい。成人して頭が先に音を聴くようになってからでは、理屈抜きに良い音を身体に染み込ませるには相当の努力が要るのではないかと思う。
     *
大切なことを書かれている。
このことを忘れてしまっている人、気づいていない人が残念なことに少なくない──、
私は最近そう感じることが多くなってきた。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その4)

最近は使われていないようだが、
柳沢功力氏はステレオサウンドの試聴にローズマリー・クルーニーのディスクをよく使われていた。

ローズマリー・クルーニーのディスクは、私がステレオサウンドにいたころから試聴用に使われている。
LPでもCDになっても使われている。
柳沢氏だけでなく、菅野先生も使われていた。

試聴用のディスクといえば、その時代の最新録音でもっとも音のよいディスクが使われる、
そう思われている方もいるようである。
そういう人からすると、ローズマリー・クルーニーのディスクを、
長いこと試聴用として使うことは理解できないことのようでもある。

数年前のことになるが、インターネットのある掲示板のところで、
柳沢氏がローズマリー・クルーニーのディスクを試聴に使われることに否定的な意見が書きこまれていた。
それに同意する人もいた。

ローズマリー・クルーニーを聴いて、何がわかるの?
これが、そういう人たちの主張するところである。

インターネットで、特に匿名の掲示板となると、
どんな人が書きこんでいるのかはまったくわからないことのほうが多い。
若い人かと思っていたら、ずっとあとになって年輩の人だったり、
その逆だったすることもある。
それに掲示板では過激なことを発言することで知られていた人は、
実生活では控え目で口数の少ないおとなしい人だということを耳にしたことがある。

だからローズマリー・クルーニーのディスクを使うなんて……的な書込みをする人が、
若い人なのか、年配の人なのか、それすらわからない。
それでもひとついえることがある。

おそらく、こういう人たちは、なんの手がかりももたずに聴いている人だ、ということだ。
そして、こうもいえると思っている。
この人たちは、この項の(その1)の冒頭で引用した黒田先生の文章に登場する人と同じである、と。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その6)

なぜ、このブログを一万本書こう、などと思ったのか、
そのことを自問している。

もしかすると一万本書くことは、
辛(刃物)+口という形象てある「言」という漢字をあつめて、
鍛えなおすことで一本の刀にまとめていくことかもしれない。

そういう意味での「意識」なのだと、いまは思って書いている。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その3)

中学生の時、自分の意思で聴きに行きたいと思い、
小遣いをためてはじめてチケットを買って行ったのも、グラシェラ・スサーナのコンサートだった。

それからグラシェラ・スサーナがテレビに出るのを見逃さないように、
新聞のテレビ欄で音楽番組は必ずチェックしていたし、
2時間ドラマの主題歌をグラシェラ・スサーナが歌ったときも、聴き逃していない。

そういえば瀬川先生が熊本のオーディオ販売店に定期的に来られてとき、
一度グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」のレコードを試聴用として持参されたことがあった。
たしかアンプの聴きくらべの時だったはず。

スサーナのレコードをかけられる前に、こういうところが変化しやすい、という話をされた。

こんなふうにグラシェラ・スサーナを、10代のとき聴いていた。
そしていつしかグラシェラ・スサーナの歌(声)が、
私のなかでオーディオ機器の音を判別するうえでの「手がかり」となっていることに気がついた。

そして、これが最初の手がかりでもある。