Date: 1月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その3)

寝る前に、e-onkyoのサイトにアクセスして、
新譜をチェックするのはすっかり日課になってしまっている。

昨晩というか、正確には1月29日に日付が変ってすぐにアクセスした。
なにかの期待があったわけではなかった。

今年になってからの新譜に、個人的に、おっ、と思うタイトルはまだ出ていなかった。
今日もそうかな、と思っていた。

まずクラシックのニューリリースを見る。
それから邦楽、ロック/ポップス,ジャズの順に見ていくことが多い。

ジャズのところ。
iPhoneで見ることがほとんどで、
iPhoneのディスプレイには3タイトルと4タイトル目の端っこが少しだけ表示される。
横にスクロールさせていくことで、続けて見れる。

そこに見慣れたジャケットであり、
MQAで聴きたいと思っていたジャケットがちらっと見えた。

今年初めての、e-onkyoでの、おっ、であった。
かなり大きなおっ、でもあった。

チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez(サンチェスの子供たち)”である。
MQA(96kHz、24ビット)もある。

やっと出た(来た)。

午前0時すぎに見たときには、リリース日は確かに1月29日になっていた。
私にとって、嬉しい誕生日プレゼントといえる。

なのに今日さきほど確認のためみたら、
なぜか1月24日に変更されていた。

どちらにしてもいい。
とにかく「サンチェスの子供たち」がMQAで聴けるようになったのだから。

Date: 1月 29th, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(と私、そして今日)

1980年4月1日、私は17歳だった。
五味先生が58歳で亡くなられた。

「五味オーディオ教室」からスタートした私にとって、
58歳の五味先生はとても大人のようにおもえていたし、
自分がいつかは58歳になるなんて、まだ想像すらできなかった。

このころの私が考えていたのは、
オーディオの世界で、ということだけだった。

それから四十一年。
今日、五味先生の享年と同じ58になった。

私にとって60歳になることよりも、58歳のほうが重く感じられる。
五味先生と同じ歳になってしまったけれど……、というおもいがある。

五味先生は「私の好きな演奏家たち」に、書かれている。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
長生きする才能だけは、五味先生よりももっていそうである。

Date: 1月 28th, 2021
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(続・問と聞のあいだに)

入門の門(もんがまえ)に口がつくと問、耳がつくと聞になる。

ここでの口と耳はひとりの人物の口と耳ではないはず。
ある人の口から問いが発せられる。
それを別の誰かの耳が受けとめる(聞く)。

ならば問と聞のあいだにあるのは、音である。
門(もんがまえ)と音で、闇になる。

問・闇・聞なのか。

上記のことを六年前に書いている。
いま読み返していた。

聞が音楽のききてとすれば、
問は音楽を発しているのだから、演奏家でもあり、
オーディオの世界に限定すれば、スピーカーとなるのか。

問がスピーカーだとすれば、闇はオーディオの音ということになる。
問が演奏家ならば、闇はオーディオという録音と再生の系となる。

闇は、やみである。

「五味オーディオ教室」に《音の歇んだ沈黙》とあった。
音の歇(や)んだ沈黙、である。

(やみ)は、止みでもある。
ならば歇み、でもあるのか。

闇は《音の歇んだ沈黙》なのだろうか。

Date: 1月 28th, 2021
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その12)

昨晩のブログを書き終って、
五味先生の「いい音いい音楽」の数本を読み返していた。

「むかしのカラヤンは素晴らしかった」の冒頭に、こう書いてある。
     *
 カラヤンは低俗だと前回評したら、抗議の投書がかなりきたので、なぜ低俗かを説明しておく。芝居を例にとると、舞台に登場する人物の科白およびその生きざまはすべて脚本に規制され、すぐれた劇は、舞台で役者の登場をまたずとも脚本を読んだだけで、いい芝居だとわかるものだし、ストーリーのどのあたりで芝居はドラマティックになり、劇が高揚するかも、脚本でわかる。ところが、下手な役者にかぎって、ストーリーの高揚したドラマティックな場面にくると大見得を切り、どうだとばかりに力演する。つまり低級な演技である。すぐれた役者は、そういう場面ではむしろ芝居をおさえ、さりげなく演じるから燻銀のように演技は光り、ドラマの感動も深い。
     *
ここに「燻銀」が出てくる。
演技についての「燻銀」ではあるのだが、
大見得を切らない表現で音楽を聴かせるということでは、
確かにタンノイ(同軸型ユニットを搭載したタンノイに限定)は、いぶし銀といえる。

けれど日本のオーディオマニアのあいだでの「タンノイはいぶし銀」は、
音色に関連してのことだけのように感じられ、
つい「タンノイはいぶし銀か」というテーマを書いているわけだ。

Date: 1月 27th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その6)

未開封のCDボックスが溜っていく……。

クラシックのCDボックスの安さは、
つい買っておこう、と思ってしまうほどで、
これを書いている私も、さすがに未開封のCDボックスはないが、
CDボックスすべてのディスクを聴いているのもあれば、そうでないボックスものもある。

CDボックスが、こんなに安価で入手できる以前から、
封も切らずにそのまま、ということはあった。

五味先生にもある。
     *
 書籍に〝ツンドク〟というのがある。全集もののように、申し込めばいやでも届けられるのではなく、ふらりと入った書店で読んでみようと買った本を、そのまま、読まず積んでおく謂だが、私くらいの歳になると、買ったレコードも帰宅後すぐ聴かず、レコード棚に置いたまま忘れることがある。まさか〝ツンレコ〟ともいうまいが、似たようなものだ。最近、そういうレコードが二十枚ちかくあるのに気がつき、あらためて聴いてみて無性に腹の立ったのが、ポリーニのベートーヴェンのソナタ(作品一一一)だった。
     *
「いい音いい音楽」に収められている「他人の褒め言葉うのみにするな」からの引用だ。
1970年代終りごろで、五味先生でも20枚ほど聴かずのレコードが溜まっていた。

クラシックのCDボックスは、20枚以上のものもけっこう出ている。
50枚を超えるものも少なくない。

五味先生のころから四十年。
あとで聴こう、時間がゆっくりとれたら聴こう、などと思っていたら、
聴かずのディスクは数十枚単位で増えていくばかりだ。

ここで考えたいのは、聴かずのCDボックスが増えていく一方の人は、
TIDALを利用するだろうか、である。

CDボックスを買ったり、中古店にまめに通い、コレクションに足りないものを探す。
そういう人でTIDALを利用していない、というのはどのくらいの割合なのだろうか。

日本では正式にサービス開始になっていないが、
Googleで検索すればどうすればいいのかはすぐにわかるし、
それにかかる労力はわずかでしかない。

しかもTIDALは44.1kHz、16ビットで聴ける。
CD未満の音というわけではない。
それにMQAでの配信もかなり積極的に行っている。

TIDALに手をのばさない理由があるだろうか。

Date: 1月 26th, 2021
Cate:

賞とショウ

春のヘッドフォン祭の中止が発表になった。
オンラインでの開催のみである。

OTOTENがどうするのか、春ごろには発表になるであろう。
OTOTENも中止になっても驚く人はいないであろう。

いまの状況からすれば、今年もオーディオショウの多くは中止になってもおかしくない。
コロナ禍でオーディオショウは、こういう状況である。

けれどオーディオ賞のほうは、昨年の暮も、
恒例行事のように、各オーディオ雑誌で行われた。

ショウと賞。
違うものであっても、どちらも惰性で行われていると感じてしまうところがある。

オーディオショウは、昨年に続き今年も中止が続けば、
再開するにあたっては、これまでの惰性から脱却し始めるかもしれない。
そんなことを期待している。

けれど賞のほうは──、書くまでもないだろう。

Date: 1月 25th, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(技術の植民地)

昔もいまもそうなのだが、多くのオーディオマニアは、
日本製のスピーカーよりも海外製スピーカーをありがたがる傾向がある。

こんなことを書いている私自身もそうである。
そうであっても、トータルの音ではなく、
これまで日本のオーディオメーカーがスピーカー開発にかけてきた技術力は、
そうとうなものだった、と思っている。

スピーカーユニットの振動板の素材開発にしてもそうだし、
ユニットの構造もさまざまなものが登場してきた。

測定技術においてもそうだった。

いま海外メーカーが、技術的メリットを謳っていることの多くは、
ずっと以前に日本のメーカーが実現していたことだった。

なのに、そんなことをすっぽり忘れてしまっているオーディオマニアがいる。
若い世代のオーディオマニアならば、
そういった日本のスピーカー技術をよく知らないだろうからしかたないが、
私と同世代、上の世代においても、忘れてしまっているのか、
もともと興味がなくて調べることすらしなかったのか、
どちらにしても、その人が好きな海外メーカーのブランド名をあげて、
ここはすごい、といっている。

その技術は、ダイヤトーンがとっくに実現していましたよ、と返しても、
知らない、という。自分の知らないことは事実ではないような顔をする人もいた。

そんな人がえらそうことを若い世代に対して語ったりするのか。
そんなことも思うのだが、そんな人のことは実はどうでもいい。

欧米のオーディオメーカー、特にヨーロッパのメーカーがうまい、と感じるのは、
そんなふうに日本のオーディオメーカーが開発した技術を、
こなれたころになってうまく利用しているところにある。

1970年代から1990年代にかけての日本のオーディオメーカーは、
その意味では海外のオーディオメーカーにとっての技術の植民地といえるのではないか。

Date: 1月 24th, 2021
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その11)

その10)から半年。
タンノイのコーネッタは喫茶茶会記で六回鳴らしている。
なのに、コーネッタでブルックナーをかけてはいない。

コーネッタは、ブルックナーをどう鳴らすのか。
興味がないわけではない。
それでも、ブルックナーの交響曲よりもコーネッタでとにかく聴きたい曲があった。
それらを優先して聴いた(鳴らした)ので、ブルックナーはまだである。

その9)で、五味先生は、山中先生の鳴らすアルテックを聴いて、
《さすがはアルテック》と感心されている。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。

さすがはアルテックなのだが、
アルテックということはもちろん無視できないが、
山中先生が鳴らされているアルテックだから、ということも大きい。

山中先生の音は何度か聴いている。
けれどブルックナーは聴いたことがない。
アルテックも聴いたことがない。

JBLはどうなのか。
4343はどうなのか。

4343は、ブルックナーの音楽にまじっている水を、どう鳴らすのか。
アルテックのように見事に酒にしてしまうのか、
それともタンノイのように水は水っ気のまま出してくるのか。

ふりかえってみると、4343でブルックナーを聴いたことがない。
4343の後継機、4344では数回聴いているが、印象は薄い。

4344で聴いたブルックナーは、やっぱり長いと感じていた。
ということは、ブルックナーの音楽にまじっている水を、
4344は酒にはしなかったのだろう。

ここで聴いてみたい、と思うのは、ヴァイタヴォックスである。
ヴァイタヴォックスは、ブルックナーの音楽にまじっている水をどう鳴らすのか。
すんなりと見事に酒にしてしまうのではないだろうか。

Date: 1月 23rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その7)

(その5)で、
才能ある人が、オーディオ評論家(職能家)を目指して、
この世界に入ってくることがなくなってくる、と思うと書いた。

書きながら、思っていたことがある。
いまのオーディオ業界は、才能ある人を欲しがっていないのではないか、と。

新しい才能、優れた才能の人が現れないか、とか、欲しい、などと口ではいう。
けれど本心は、そうなのだろうか。

オーディオ評論家(職能家)のいない、いまの時代はどんぐりの背比べである。

みんなどんぐりだから、外から見ている人のなかには、
どんぐりだということに気づかないのかもしれない。

そこにオーディオ評論家(職能家)を目指せる、期待できる人が入ってきたとしよう。
その人は、はっきりとどんぐりではない。

どんぐりの集団に、どんぐりではない人(栗)が入ってくれば、
それまでの人たちがどんぐりであったことが、多くの人にばれてしまうことになる。

そうなって困るのは、どんぐりの人たちだ。
いまさらどんぐりから栗へと変ることは無理だろうから。

いまはオーディオショウだけでなく、オーディオ店のイベント、
さらにオーディオ雑誌の読者訪問記事も、コロナ禍でない状態だ。

これは機会の喪失でもある。

Date: 1月 22nd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その6)

今年のオーディオショウがどうなるのかはなんともいえない。
仮にことも昨年に続き、ほぼすべてのオーディオショウが中止になった、としよう。

オーディオ漫談にふれる機会が、ほぼなくなることでもある。
オーディオショウのブースで、オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、
一時間ほど話をしたり音楽をかけたりする。

一般的にはこれを講演と呼ぶのだが、とうてい講演とはいえないレベルばかり、と感じている。
プレゼンテーションにもなっていない。
なんと呼んだらいいのか、不明な人たちの時間がある。

そんななかで、柳沢功力氏と傅 信幸氏の時間は、オーディオ漫談といえる。
揶揄する意図はまったくなく、
柳沢功力氏と傅 信幸氏は、なかなかのオーディオ漫談家である。

私は長岡鉄男氏もオーディオ漫談家だった、と思っている。

オーディオ評論は瀬川先生から始まった、瀬川先生が始めた、といえる。
オーディオ漫談に関しては、長岡鉄男氏から始まった、長岡鉄男氏が始めた、といえる。

長岡鉄男氏は、このことに自覚的だったのではないだろうか。
そんな気がしてならない。

オーディオ評論家と呼ばれている人は、いまではけっこういる。
それぞれのオーディオ雑誌にそれぞれの人たちがいて、ウェブマガジンに書いている人も数えれば、
どれだけいるのか。もうどうでもいいことのように感じている。

オーディオ評論家(職能家)ではなく、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちの数は、私にはどうでもいい。

とにかく何人いるのかわからない。
そのなかで、柳沢功力氏と傅 信幸氏はオーディオ漫談家であり、
オーディオショウにオーディオ漫談家は必要な存在だと思っている。

Date: 1月 21st, 2021
Cate: サイズ, 冗長性

サイズ考(その72)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’79」の巻頭、
瀬川先生の「’78コンポーネント界の動向をふりかえって」のなかに、こうある。
     *
 35ミリカメラの一眼レフの流れをみても、最初はサブ機的なイメージでとらえられていたものが、数年のあいだに技術を競い合っていまや主流として、プロ用としても十分に信頼に応えている。オーディオもまた、こうした道を追って、小型が主流になるのだろうか? 必ずしもそうとは言いきれないと思う。
 たしかに、ICやLSIの技術によって、電子回路はおそろしく小型化できる。パーツ自体もこれに歩調を合わせて小型化の方向をとっている。けれど、オーディオをアナログ信号として扱うかぎり、針の先でも描けないようなミクロの回路を通すことは、やはり音質の向上にはならないだろう。プリント基板にエッチングされた回路では電流容量が不足して音質を劣化する、とされ、エッチング層を厚くするくふうをしたり、基板の上に銅線を手でハンダづけする手間をかけて、音質の向上をはかっている現状では、アンプの小型化は、やはり限度があるだろう。オーディオがディジタル信号として扱われる時代がくれば、手のひらに乗るアンプも不可能ではなくなるだろうが……。
     *
この時代、国産アンプは、プリント基板の箔の厚みを増したことを謳ったモノが登場していた。
銅箔の厚みが増せば、電気抵抗もわずかとはいえ低くなる。
それによる音への変化ももちろんあるが、
プリント基板の振動(共振)という点でも違っていたであろう。

銅箔の薄いプリント基板と厚いプリント基板。
指で弾いてみると音は違っていたはずだ。

この数年後に、
ラジオ技術で富田嘉和氏が、2SK30一本(一段増幅)のラインアンプを発表された。
オーディオクラフトから製品化されているPL1000である。

発表後、部品についての記述があった。
抵抗を通常のW数よりもずっと大きなモノにすることによる音の変化の大きさを記されていた。
数十Wといった、かなり大型の抵抗まで試されていた、と記憶している。

通常の抵抗は1/2Wか1/4Wである。
抵抗のW数によって抵抗の精度はかわりない、といえる。

何が変るのか、といえば、富田嘉和氏によれば温度係数ということだった。

Date: 1月 21st, 2021
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その14)

オーディオでの選択は、いわば昂進といえるところがある。
そればかりではないこともわかっていても、そういいたくなる。

オーディオ機器の選択にしても、そうだ。
そうやって構築されたシステムは、自身のなにかを映し出している。

昂進と無縁で、オーディオをやってきた人はいないように思っている。

Date: 1月 20th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その10)

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という結論をもってしまった私にとって、
スピーカーを選ぶということは、
そして、選んだスピーカーをどう鳴らすかということは、
このことに深く関ってくる。

少なくともマリア・カラスによる「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像とはまったく感じさせない(感じられない)スピーカーを選ぶことは、
この先絶対にない、といえる。

そのスピーカーがどれだけこまかな音を再現しようと、
優れた物理特性を誇っていようと、
オーディオ雑誌においてオーディオ評論家全員が絶賛していようと、
ソーシャルメディアにおいて多くのオーディオマニアが最高のスピーカーと騒いでいようと、
欲しい、とは思わない。

結局、スピーカー選びとは、それまでどういう音楽をどう聴いてきたかである。
マリア・カラスは、私だって聴いてきた──、という人であっても、
私と同じ聴き方、同じような聴き方をしてきたのかどうか。

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。

多くの人はそんな聴き方はしないのかもしれない。

ハイ・フィデリティとは、音楽に誠実であることだ。
ならば選ぶべきモノはおのずとさだまってくる。

そして、さだまる、ということはさだめへとつながっているようにもおもう。

Date: 1月 20th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ヒトの耳 機械の耳

東京電機大学出版局から1月30日に、
ヒトの耳 機械の耳」が出版される。

まだ発売前なので、こんな感じだった、ということは書けない。
けれど、リンク先の内容紹介、目次を眺めていると、かなり興味深い。

安い本ではないし、
買って最後まで読んだからといって、すべてを理解できるわけではないだろうが、
買っておくべき本ように感じている。

Date: 1月 19th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ふくろうの叫び

パトリシア・ハイスミスの「ふくろうの叫び」を読んだのは、
三十年前のことだ。
ちょうど文庫として登場したばかりで、そのころ無職に近い状態だったこともあって、
一気に読んでしまった。

読み終ったのは日付がとっくに変っていた。
最後のところで、思わず声を出してしまった。
それほどのめり込んで読んでいた。

それからはパトリシア・ハイスミスの新刊が出れば必ず買って読んでいた。
最初に読んだ作品が「ふくろうの叫び」ということもあるだろうが、
傑作だと、いまも思っている。

「ふくろうの叫び」だけでなく、他のハイスミスの作品もまとめて貸した。
返ってきた。けれど、また別の人に貸した。今度は戻ってこなかった。

いま古本でしか入手できない。

急にパトリシア・ハイスミス、「ふくろうの叫び」を思い出したのは、
今年がハイスミス生誕100年であるからだ。

1921年1月19日が、ハイスミスの誕生日。
五味先生も、今年生誕100年。