Date: 12月 25th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その2・補足その後)

MQAのこと、TIDALのこと(その2・補足の補足)」で、
Amarra Playのヴァージョン1.27でMQAの問題が解消された、と書いた。

ヴァージョン1.27は再生に関しては問題はなかったのだが、
今度は表示に少しばかり問題が発生していた。
いちばん下までスクロールできない。

なので1.28に期待した。
1.28は夏に公開された。さっそくダウンロードした。
すると表示の問題は解消されていたが、今度はまたMQAの問題が発生している。

こうなると1.29に期待するしかない。
1.29はなかなか公開されなかった。
年内は無理かも……、と諦めていたら、
木曜日(12月23日)に1.29が公開された。

さっそくダウンロード。
MQAの問題が解消されているかどうか、それをまずチェックするわけなのだが、
いきなり奇妙な音楽が流れてきた。

音楽が1/2倍速くらいで再生されている。
聴いてもおかしいのだが、時間表示も一秒経過するのが二秒ほどかかっているのがわかる。

MQAでない、通常のPCM再生に関しては、1.28よりも音が良くなっているように感じる。
けれど肝心のMQAがまったく使えないのだから、話にならない。

クレームがきっと山ほど届いたのか。
一日も経たないうちに、1.30が公開された。

けれど、これはヴァージョン1.27の問題がそのまま残っている。
1.27の音が良くなったヴァージョンともいえる。

今回の件で疑問をもったのは、ソフトウェアデコードに関することだ。

これだけのことでは断言まではできないけれど、
MQAの真価は、やはりハードウェアデコードで聴いてこそ、であり、
ソフトウェアデコードが具体的にどんなことを処理しているのかは、
勉強不足で知らないけれど、信頼性ということではまだまだなような気がしてならない。

Date: 12月 24th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その20)

「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」

以前にも書いていることのくり返しなのだが、本気でそう思っていた時期があった。
30代前半のころだから、いまから二十年以上の前のことだ。
親しい友人にも、そう言っていた。

本気だったのに、そのとおりにしなかったきっかけは、すでに書いている。
川崎先生のDesign Talkと出逢っていなければ、読みつづけていなければ、
ずっとこのままきていたかもしれない。

それに瀬川先生の著作集をなんとかしたい、というおもいが、
ステレオサウンドを離れてからずっとあったことも、深く関係している。

30代後半のころ、インターネットが普及の兆しを見せ始めていた。
ウェブサイトを自分でつくるアプリケーションも出始めてきた。

このことがなければ、もしかすると、じっとそのままで、
「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」といい続けていたかもしれない。

いくつかのきっかけが重なっての2000年8月にaudio sharingの公開だった。
公開後も、いろんなことがあった。

もしaudio sharingをつくっていなかったら、公開していなかったら──、
オーディオの才能を自分のためだけに使っていたら──。

audio sharingの公開後の人との出逢い。
ある人と出逢い、その人との出逢いで、また別の人と出逢う。
六次の隔たり、という仮説の実感でもある。

そうやっての2021年10月7日の巡り逢せは、
オーディオを続けてきてよかった、と心底から実感している。

Date: 12月 24th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その75)

オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。

Date: 12月 23rd, 2021
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク(その4)

その3)は、2019年4月に書いている。
急に思い出して、続きを書いているわけだ。

今年もあとわずかで終る。
昨年に続き、今年もコロナ禍であった。
少し落ち着きを見せたかのようでいて、まだしっかりとコロナ禍である。

この一年、誰しもがいろいろなことがあったはずだ。
いろいろなことがあって、なにかが変っていく。
自分自身も変っていく。

その変化に気づくか気づかないのか。
10月の中旬以降、音楽をひとりで聴いていて、
変ってきている、と感じることがある。

ここでのテーマと関係するところでの変化である。
そのことで、(その1)を書いたときに考えていたことと少し違う切り口になっていくようだ。

Date: 12月 23rd, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その19)

その13)で、誰か「ゲスの壁」を書かないだろうか、と書いた。

ゲスは、下司、下種、下衆と書く。
どう書くのがいいのか、あれこれ考えて結局ゲスにした。

辞書には、品性が下劣なこと、また、そのような人やさま、とある。
品性が下劣であっても、知識だけは豊富な人も、私にいわせればゲスである。

本を数多く読んでいる人でも、ゲスな人は残念ながらいる。
どうしてなのだろうか、としばらく考えたことがある。

なんとなくではあるが、こういうゲスな人に共通しているのは、
上書きしかできないのではないだろうか、ということだ。

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その15)

《私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。》

「音楽に在る死」のなかで、五味先生がそう書かれている。
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」では、こう書かれている。
     *
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。

倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。

時代の軽量化とは、こういうことでもあるのだろう。

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 五味康祐

続・無題(その15)

五味先生の、音楽、音、オーディオについて書かれた文章には、
祈り(もしくは祈りに通じる)が感じられるからこそ、
「五味オーディオ教室」と出逢ってすでに四十年以上が経ちながらも、
いまも飽きずに、ということにとどまらず、新たな気持で読み続けている。

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 世代

世代とオーディオ(五味オーディオ教室)

《常々観じていることとか、抱いている疑問の大半は五味オーディオ教室にすでに書いてあった》
今日、ソーシャルメディアを眺めていたら、そう書いてあった。

私より若い人である。
聴く音楽も違う。

そういう人が、いま「五味オーディオ教室」を読んでいる。
そして、そう感じているわけだ。

嬉しいことだし、頼もしいとも思っている。

Date: 12月 21st, 2021
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その30)

ようやくウェスターン・エレクトリックの300Bが発売になったので、
(その28)と(その29)は少し脱線してしまった。
ここからが内容的には(その27)の続きである。

アンプ一台の重量は、どこまでが上限なのか。
音さえよければ上限などない、という人もいるはず。
私も若いころは、そんなふうに考えていた。

年がら年中、設置場所をあっちに持っていったり、こっちに戻したり、
そんなふうに移動するわけではないのだから、重くてもかまわない──、
そんな考えだった。

それでもできれば一人で持てる重さ、
どんなに重くても大の男、二人で持てる重さが、上限かな……、ぐらいではあった。

となると一人だと40kgあたりが上限となるし、
二人だと80kgあたりが上限となろう。

もっとも、これは私の場合であって、人によっては上限の値は上下してくる。
しかも、ここでの重量は、ある程度重量バランスがとれている場合であって、
極端にアンバランスな重量の偏りがあったり、持ちにくい場合にはもっと軽くなってしまう。

いま、オーディオ機器の価格の上限は、なくなってしまったかのようである。
パワーアンプで、一千万円(ペア)を超える機種がぽつぽつ登場してきている。

ブルメスターのフラッグシップモデルは、四千万円を超える。
こういうアンプの存在を否定したいわけでなく、
こういう存在のアンプのみが出せる音の世界が、
十年後、早ければ数年後には、
ここまでの価格の製品でなくとも出せるようになるようになることだってある。

これだけの製品が開発されることで得られることがあるわけで、
それらが活かされてくる時代が、いずれやってくるわけで、
その意味でも、ある種のプロトタイプのようでもあり、
こういうモデルの登場を、私は期待しているところがある。

ブルメスターのフラッグシップのパワーアンプで私が驚いたのは、
実は価格ではなく、その重量だった。
モノーラルアンプで、一台180kgである。
二台で360kg。

JBLのパラゴンよりも重いのか──、とまず思ってしまった。

Date: 12月 20th, 2021
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(2021年・その3)

1921年12月20日が、五味先生の誕生日なのだから、
今日(2021年12月20日)で、生誕100年となる。

いくつか五味先生の文章を引用したい気持がつよくあるが、
あえて、ひとつだけとなると、やはりこの文章がすぐに浮ぶ。
     *
さいわい、われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる——神を異にする——民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。
     *
「マタイ受難曲」からの引用だ。
最初に読んだ時から、ほぼ四十年が過ぎた。

《神を視ている》、
このことばほど、強烈なものは、私にはない。

フルトヴェングラーは、マタイ受難曲について、
「空間としての教会が今日では拘束となっている。マタイ受難曲が演奏されるすべての場所に教会が存在するのだ。」
と1934年に書いている。

《神を視ている》も、同じことのはずだ。

Date: 12月 20th, 2021
Cate:

音の種類(その5)

徹底して、個人の音といえる音がある。
その一方で、個人と個人をつなぐ音もある。

Date: 12月 19th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その8)

マスターテープの音そのままの再生(再現)ということであれば、
音量も聴き手が勝手に調整してはいけない、ということで、本来あるはずだ。

なのにマスターテープの音そのままの再生(再現)を目指している、
大きな目標としていると広言している人も、音量は調整している。

自分の、その行動をおかしいと思わない人が、
マスターテープの音そのままの再生(再現)を謳う。

ここで難しいのは、音量の一致である。
マイクロフォンが拾った音の音圧そのままをスピーカーから再生すればいいのか。

けれど、その音圧にしても、スピーカーの正面からどの程度の距離での音圧なのか。
録音時に楽器とマイクロフォンの距離が1mあったとしよう。
ならばスピーカーの正面から1mの距離のところでの音圧が、
マイクロフォンが拾った音圧とイコールになればいいのか。

それとも録音している最中の、
その録音スタジオにおけるモニタースピーカーと同じ音量に設定すればいいのか。

たとえば生演奏(生音)とのすり替え実験では、
同じ空間での録音と再生であるだけに、音量の設定に難しいことを言う必要はない。
けれど録音と再生の場が一致しない場合は、そうはいかない。

Date: 12月 19th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その18)

別項でもなんどか書いている「心に近い(遠い)」。
このことを今年は、改めていろんな機会に考えていた。

心に近い音、心に近い音楽、そして心に近い人。

Date: 12月 18th, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(ジュリーニのブラームスの四番)

今月はブラームスをよく聴いている。
別項で書いているようにブラームスの交響曲第一番を、
バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーの演奏を中心として、
いろんな指揮者、オーケストラで聴いていた。

一番を集中して聴きながらも、四番の交響曲も聴いていた。
ブラームスの四つの交響曲で、私がよく聴くのは一番と四番だ。
二番と三番は、あまり聴かない。

四番がもっともブラームスらしいと感じるだけでなく、
四つの交響曲のなかで、いちばん好きでもある。

今日はジュリーニの四番を聴いていた。
シカゴ交響楽団によるEMI録音と、
ウィーンフィルハーモニーによるドイツ・グラモフォン録音である。

録音には約二十年の隔たりがある。
どちらがブラームスの四番として優れた演奏なのか。
どちらも私は好きだし、いい演奏だと感じている。

それでもずいぶん違う演奏だ。
シカゴとの四番は、推進力がある、とでもいおうか、
録音にキズのあるところが何箇所があるものの、
そんなことはほとんど気にならないほどの演奏だ。

シカゴとの四番を聴いた直後に、ウィーンとの四番を聴くと、
ちょっとものたりない、と感じなくもない。
でも、それはすぐに消えてしまう。

しなやかで、歌うかのようなブラームスの音楽を聴いていると、
ただただ聴き惚れてしまう。

ウィーンとの四番は発売されてすぐに買って聴いた時から、
素晴らしいと感じていたし、ブラームスをよく聴く知人にもすすめたことがある。

知人は、ピンとこなかったようだ。
一緒に聴いていて、「これをいい演奏というんですか」というような顔で、
私の方を見ていた。

そういうものかもしれない。
二人とも、その時から三十以上齢を重ねている。
知人とは疎遠になったが、彼はやっぱり、
三十年以上前と同じように感じるのだろうか。

私は、というと、こういうふうにしなやかにブラームスの交響曲を歌えるのであれば、
老いてゆく、ということの素晴らしさを感じている次第。

Date: 12月 17th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その17)

ソーシャルメディア、ほぼ毎日眺めていて、
オーディオのことだけでいえば、着弾と出音という単語が、
よく使われるようになったと感じた。

着弾と出音。
私は、どちらも使わない。これからも使うつもりはないが、
使う使わないは、その人が選ぶことであって、とやかくいうことではない──、
とわかっていても、なんだか違和感のようなものをおぼえてしまう。

手に入れたいモノが届く──、
その嬉しさを着弾という単語で表現しているのはわかっている。
でも、もう少しマシないい方はないのか、とも思う。

出音。
こちらは、語感が悪いと感じる。
出音。もうこれだけで私は悪い印象を受けてしまう。

なのに「いい出音だった」みたいな使われかたを見かけると、
へぇ……、という印象しか残らない。

世代の違いなのか、とも思うこともあったけれど、
ソーシャルメディアでは投稿している人の年齢がはっきりとわからないこともあるが、
意外にも若い世代の人だけでなく、けっこう上の世代の人も使っているようだ。

来年以降は、オーディオ雑誌でも、着弾、出音が使われ始めるようになるのか。
それとも、もう使われ始めているのか。