Date: 1月 4th, 2022
Cate: innovation

イノヴェーション

三人寄れば文殊の智慧、という。

けれど実際は、三人寄っても人の知恵、
ひどい場合は、三人寄っても猿以下の知恵なのかもしれない。

文殊とは、いうまでもなく文殊菩薩のこと。
智慧をつかさどるとされる菩薩である。

つまり人ではない者の智慧。
これがまさしくイノヴェーションなのだろう、と思う。

なのに現実はどうだろうか。
三人寄っても……、と三人が三人とも自説を押し通そうとしたら、どうなるだろうか。

せいぜいが誰かの意見が通り、多少残り二人の意見が加わった程度では、
とうてい文殊の智慧とはいえない。

誰一人として自説を譲ることがなければ、猿以下の知恵となるだろう。

議論とは意見を戦わせることなのだろうか。

Date: 1月 3rd, 2022
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その13)

その8)で書いているように、
ステレオサウンド冬号(221号)の表紙は、B&Wの801 D4だった。

221号は昨年12月下旬には、Kindle Unlimitedで読めるようになっていた。
読めばわかる──、というより、読まなくてもわかる、といいたいほどに、
B&WのD4シリーズは、どの機種も絶賛されている。

特に最上級機の801 D4は、ステレオサウンド・グランプリのゴールデンサウンド賞でもあり、
ベストバイにおいても、ほぼ満票に近い。

新製品紹介での扱いも特別といっていい。
悪く言う人は誰一人いない。

それだけきわめて優秀なスピーカーシステムなのだろう。
そのことにケチをつけようとは、まったく思っていない。
それに聴いていないのだから、音について何か書けるわけでもない。

数年後か十年後くらいには、D5シリーズが登場するであろう。
そのときも、今回とまったく同じことが誌面で展開されるはずだ。

それはそれでいい。
B&Wは、800シリーズを長い年月、磨き上げていっている。
その成果なのだから。

けれど前回のD3シリーズのときもそうだった。
おそらく今回のD4シリーズもそうであろう、
ステレオサウンドで絶賛している人で、
誰かD4シリーズをメインスピーカーとして導入するだろうか。

今回もいないだろうし、D5シリーズが登場しても、そのことは同じかもしれない。

Date: 1月 3rd, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その4)

リバーエンド・カフェ」というマンガがある。
全九巻中四巻までが、いまのところKindle Unlimitedで読める。

昨晩遅くに気づいて読んでいた。
大震災あとの宮城県石巻が舞台であり、
ひどいいじめにあっている女子高生が主人公で、
彼女が偶然見つけた一風変った喫茶店を中心に物語は進んでいく。

この喫茶店、ジャズ喫茶とは謳っていないけれど、描かれ方はジャズ喫茶である。
主人公の女子高生は、ここでベッシー・スミスの歌と出逢う。

喫茶店に置かれているスピーカーはJBLの4344Mであり、
ただし「リバーエンド・カフェ」を読んだ方はすぐに気づかれるだろうが、
作品で描かれているのは4344Mではなく、4343である。
アンプはマッキントッシュのプリメインアンプだ。

ベッシー・スミスがどういう歌い手か知らない読み手であっても、
なんとなくどういう歌い手なのかは、その描写が伝えてくれる。

同時に、こういうシーンでのスピーカーは、やはりアメリカのホーン型だな、と納得する。
いまどきのハイエンドスピーカーがそこに描かれていたら、どうだろうか。

日本の598のスピーカーだったら、どうだろうか。
イギリスのBBCモニター系列だったら──、タンノイだったら──、
あれこれイメージしてみるといい。

結局、最後にはJBLかアルテックかになるはずだ。

Date: 1月 2nd, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その19)

瀬川先生にとってのスピーカーの「あがり」は、
グッドマンのAXIOM 80だったのかもしれない──、
と(その18)で書いた。

その14)では、
瀬川先生は、もう一度AXIOM 80を鳴らされそうとされていた、ときいている、
45のシングルアンプを、もう一度組み立てられるつもりだったのか──、
とも書いている。

AXIOM 80を45のシングルアンプで鳴らす。
その音は、いまどきの超高級ハイエンドオーディオシステムの鳴らす音と、どう違うのか。

ここでいいたいことも、「心に近い」ということに関係してくる。
AXIOM 80と45のシングルアンプが奏でる音こそ、
瀬川先生にとってのもっとも「心に近い」音なのだろう。

Date: 1月 1st, 2022
Cate: ロマン

2022年の最初に

今日は1月1日だから、四週間後には一つ歳をとる。
一年と四週間後には、さらに一つ歳をとって、六十になる。
還暦か……、と自分でも驚く。

それだけ生きてきても、いままでやってこなかったことはいくつもある。
山ほどある、といってもよい。
誰だってそうである。

未体験・未経験のことのほうが、体験・経験したことよりもずっと多いはずだ。
なので嘆くことではないと思っているのだが、
意外にも、初めてだったのか、と気づいたことがあった。

昨年の12月31日に日付が変ったころ、深夜に、手紙を書いていた。
書いていた、といっても手書きではなく、iPhoneで入力していた。

ある人に想いを伝える手紙だから、
ラヴレターと呼ばれる類である。

書き始めてすぐに気づいたことがある。
生れて初めてのラヴレターであることに、気づいた。

これまでの人生で、想いを寄せた人に告白したことはもちろんあるが、
ラヴレターでの告白ということは一度もしてこなかった。

自分でも意外だった。
この歳になって、初めて書いている。

ならば便箋を選んで、きちんと手書きにしろよ、と自分でも思ったりしたわけだが、
でも、もしそうしていたら、手が震えて、何回も書き直していただろうし、
そうしているうちに書くのをやめてしまっていたかもしれない。

初めてのラヴレターなのに、iPhoneで書いて、書き終ったらすぐに送信。
味気ないといわれれば否定しないけれど、
だからこそ相手に送れた、という面もある。

いまの若い人たちは、ラヴレターを書いているのだろうか。
そんなことも思っていたし、
私と同じ世代、上の世代の人たちは、やはり書いていたのだろう、とも思っていた。

どれだけの人が書いていたのか、わからない。
親しい人との会話でも、そのことが話題になったことはない。

みんな書いていたのだろうか。

とにかく、私は六十をほぼ一年後に迎えるいま、初めて書いた。
新しい経験だったわけだ。

ここからがオーディオのことだ。
ラヴレターでもそうだったわけだから、
オーディオに関しても、同じことがあるはずだ。

やっていたつもりなのに、まだ経験してこなかったことがきっとある。
六十までの一年と四週間、
その間に、オーディオに関しての、そういうことを見つけ出していこう、と思っている。

Date: 12月 31st, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年の最後に

このブログでは、つねに複数のテーマで書いている。
今年、それも終りが近くなって気づいたことは、
すべてのテーマとまではいわないものの、多くのテーマに共通していることがある、こと。

耳に近い(遠い)、心に近い(遠い)ということだ。
音もそうだし、音楽もそうである。

私は、耳に近い音、耳に近い音楽よりも、
心に近い音、心に近い音楽をとる。

どんなに耳に近い音であっても、心に遠い音であれば、
若いころならいざしらず、心に近い音をとる。

「目に遠く、心に近い」、
これはインドネシアのことわざらしい。
そのことについて触れたのが、2015年である。
「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い・その2)』で触れている。

それから六年半ほどかけて、「心に近い」ということがどういうことなのかを実感している。
今年は、心に近い音、心に近い音楽だけではない、
心に近い人に関してもそうだった。

十数年、このブログを書いてきて、
「心に近い」、そのことの大切を感じていた一年といえる。

Date: 12月 30th, 2021
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その11)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、心に近い音を見つけなければ、裸の音楽が鳴り始めることはない。

Date: 12月 30th, 2021
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その6)

私が熱心に読んでいたころのステレオサウンドには、
若いころ、オーディオのいろんなことに挑戦してきた人が、
ある年齢に達してからは、高能率のスピーカー(ラッパ)と直熱三極管のシングルアンプの組合せ。

これが一つのオーディオの「あがり」のように、
音楽を楽しまれているオーディオマニアの方が登場していた。

私がまっさきに思い出すのは、(その4)で触れている長谷川氏である。
ステレオサウンド 54号の「スーパーマニア」に登場されている。

長谷川氏のリスニングルームの写真を、十年ほど前に、
別のオーディオ雑誌でみたことがある。
JBLのパラゴンを鳴らされていたころの写真だ。

長谷川氏は「スーパーマニア」の本文を読んでもらえばわかるように、
まさしくスーパーマニアと呼べる人である。

ハイエンドオーディオ機器を一式揃えて鳴らしているから、といって、
その人をスーパーマニアと呼べるとは限らない。

その長谷川氏が、「あがり」として、
シーメンスのオイロダイン、伊藤先生製作のアンプ、EMTの927Dstである。

このスタイルが、すべての人にとっての「あがり」となるわけではない。
長谷川氏にとっての「あがり」であり、
長谷川氏にとっての「あがり」とは、耳に近い音の実現ではなく、
心に近い音を鳴らすことだった──、
今年になって、そうおもうようになった。

Date: 12月 29th, 2021
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その30)

昨晩集まった三人は、いまのところ、皆元気である。
健康上の問題もない。

来年、再来年の忘年会も、たぶん皆元気に集まれるだろう。
けれど五年後の忘年会となると、どうだろうか……。
そんな話もした。

誰か一人、今日は体調が優れないから、という理由で参加できなくなることが、
十分考えられる。

十年後ともなると、もしかすると誰か欠けるかもしれない。
そんな話を、三人で笑いながらしていたけれど、
それが五年後か十年後か。
それとももっと早くなのか、もっと遅くなのかはなんともいえないけれど、
いつか、そういう時がくるのだけは確かである。

そして、誰かが一人だけ、となってしまう。

2008年に、菅野先生と話していたときに、
菅野先生が、つぶやくようにいわれたことがある。
「みんないなくなってしまった……」

みんなとは、菅野先生にとってのオーディオ仲間である。

Date: 12月 29th, 2021
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その29)

昨晩(12月28日)は、オーディオマニア三人集まっての忘年会だった。
Yさんは1962年、Aさんと私は1963年生れで、つまり同世代。

あれこれ話していたら、あっという間に時間が過ぎっていた感じで、楽しかった。
話にも出てきたのだが、われわれ三人は、
10代のころ、熱心にステレオサウンドを読んで過ごした。

Yさんが通っていた私立の高校の図書室にはステレオサウンドがあった、とのこと。
雑誌類は貸し出し禁止なのだが、夏休みにまとめて貸し出してくれた、と。

私が通っていた田舎の公立の高校とは大きく違うなぁ、と思いながら、
そういう私はカバンに必ず一冊はステレオサウンドを入れていた。

たまに必要な教科書を忘れることはあっても、ステレオサウンドを忘れたことはない。

三人に共通していることの一つに、
三人ともJBLのスピーカーに憧れ、いまも好きだということがある。

現在のJBLのすべてのスピーカーを認めるわけではないが、
それでも10代のころに4343を筆頭に、JBLのスピーカーは憧れだった。

4343はスーパースターのようにも私は感じていた。
そして三人とも、いまJBLのスピーカーを鳴らしている。

JBLのスピーカーをバカにする人が少なくないのは知っている。
そんな彼らがどんなスピーカーを高く評価しているのかも知っている。

でも、それはどうでもいいことだ。
1970年代後半にオーディオに興味をもち、
ステレオサウンドを熱心に読んできた者でなければ理解できない世界がある──、
それだけのことである。

Date: 12月 28th, 2021
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その31)

いまでこそ最も重量のあるオーディオ機器が増えてきてしまったが、
ある時代までは、JBLのパラゴンが最重量のオーディオ機器の代名詞でもあった。

左右チャンネルのスピーカーを一体化したことで、
パラゴンの重量はカタログ発表値で316kgだった。
片チャンネルあたりだと158kgとなる。

実際には当時でもパラゴンよりも重量のあるスピーカーシステムは、いくつもあった。
1970年代後半、カタログ発表値で最も重たいスピーカーは、
エトーンのExcellent SP Systemで、約300kgと発表されていた。
もちろん一台の重量であるから、パラゴンの二倍もの重量である。

それからテクニクスのSB9500が190kg、クリプシュのMCM1900が174kg、
ヴァイタヴォックスのBass Binが170kg、オンキョーのScpeter 500が158kgと続く。

パラゴンよりも重量のあるスピーカーシステムが四機種、
同重量が一機種もあった。
それでも感覚的にはパラゴンの堂々とした風格もあって、
最重量のスピーカーシステムのようにも感じられていた。

そのパラゴンを紹介する文章によく登場していたのが、
グランドピアノとほぼ同じ重量、ということだった。

そんなこともあって、私のなかでは、
重いオーディオ機器の上限はパラゴンの重量、
つまり300kgというふうにできあがってしまったようだ。

Date: 12月 28th, 2021
Cate: オーディオマニア

ただ、ぼんやりと……選ばなかった途をおもう(その4)

選択と拒否は不可分である、とまでは思っていない。
それでも、選ばなかった途(選べなかった途)についておもうとき、
拒否した途があったのだろうか……。

拒否もいくつかあろう。
やりたくないからくる拒否、認めたくないからくる拒否、
許せないからくる拒否──、などがあろう。

なにを拒否してきたのだろうか。

Date: 12月 27th, 2021
Cate: コントロールアンプ像

コントロールアンプと短歌(その10)

その9)は、2019年9月8日に書いている。
この六日後(14日)に、メリディアンの218を導入した。

しばらくはCDプレーヤーのデジタルアウトとの接続で使っていた。
2019年12月ごろから、e-onkyoを活用するようになってきた。

そして2020年11月、TIDALを使い始めるようになった。
2021年は、どっぷりTIDALとの一年だった、といえる。

そうなるとCDプレーヤーを使う頻度が大きく減った。
所有しているすべてのCDをリッピングしているわけではないが、
大半はリッピングしているから、それらのアルバムを聴く際には、
CDプレーヤーを使う必要はない。

この数ヵ月、CDプレーヤーに触れていない。
それでも音楽生活は、TIDALのおかげで充実している。

アナログプレーヤーは三台ある。
こちらはCDプレーヤー以上に稼働していない。

MQA登場以前、MQAをメリディアンのULTRA DACで聴くまでは、
アナログディスクならではの音も、時には愉しみたい、と考えていた。

それがMQAのおかげで、そう思うことが減っている。

どういうことかというと、五年後、十年後のことまではなんともいえないが、
少なくともこれからの数年間は、CD、LPといったパッケージメディアに頼らなくとも、
私の場合は、充分に音楽に浸れることだけは確かだ。

極端な話、目の前からCDプレーヤーとアナログプレーヤーが消えてもかまわない。
手離すということではない。
とりあえずどこかにしまっておく。
そういう数年間があっても、何かを失ったとは感じないのではないだろうか。

別項で、オーディオシステムの中心はどこか、と書いている。
コントロールアンプだと私は考えているわけだが、
いままで私が思い描いてきたコントロールアンプとは、
その傍らにアナログプレーヤーがあり、CDプレーヤーがあり、
さらにはチューナーやテープデッキがあってのコントロールアンプ像であった。

ところがこの二年間で、そういったオーディオ機器がとりあえずなくなっても、
過不足なく、というよりも、それまで以上に音楽を聴いていける、
ということを経験してきている。

だから、このへんから、
そういう時代をふまえてのコントロールアンプ像を考えていく必要があるし、
コントロールアンプのバラストとしての機能についても考えていきたい。

Date: 12月 26th, 2021
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その3)

自己模倣という純化の沼こそ、オーディオの罠だ、といまははっきりといえる。
その1)を三年前に書いたころは、
オーディオの罠は存在しない、と思う──、
そのぐらいに思っていた。

二年前の(その2)で、この自己模倣という純化の沼を、
オーディオの罠のように錯覚しているだけなのだろう、と書いた。

やはりオーディオの罠というのはない、といまは断言する。
オーディオの罠がある、と錯覚しているだけにすぎないし、
そうしていたほうがラクだからかもしれない。

そして、その、錯覚しているオーディオの罠は、自己模倣の純化の沼であり、
その、自己模倣の純化の沼を作り出しているのは、
「オーディオには罠がある」とか
「オーディオ沼」とかいって自虐的に喜んで言っている本人でしかない。

Date: 12月 25th, 2021
Cate: オーディオの「美」

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える(その2)

《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》

いうまでもなく小林秀雄の有名すぎる一節であり、
これまでにいろいろな解釈がなされている。

これについては、坂口安吾が「教祖の文学──小林秀雄論──」で、
こんなことを書いてもいる。
     *
美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。
 私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦人なり」という文章の解釈をだされて癪にさわったことがあったが、こんな気のきいたような軽口みたいなことを言ってムダな苦労をさせなくっても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言えばいいじゃないか。こういう風に明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するように心掛けることが大切だ。
 美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある。
 彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
     *
そうなのかぁ、と思いつつも、
私が考えたいのは、オーディオの「美」についてであり、
それを考えていく上では、《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》は、
たとえそれがほんとうに言葉の遊びであっても、無視できることではない。

その1)は、2015年5月に書いている。
六年半経過して、思い出して書いているのは、
ここ最近たびたび書いている「心に近い(遠い)」ということが、
そして「耳に近い(遠い)」ということが、
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない》ということなのかもしれない、
そんなふうに感じ始めているからだ。

美しい「花」が心に近い音なのか、
「花」の美しさが耳に近い音なのか。

心に近い「音」はある、耳に近い「音」というものはない、ということなのか。
それともまったくの逆なのか。

そんなことを思っているところだ。