ブルーノ・ワルターの「田園」(その2)
ワルター好きの何人かの知人の口から、
そういえば「田園」について、なにかを聞いた記憶がない。
不思議なもので、数人の知人がワルターの指揮について語るのは、
ブラームスについてが多かった。
たまたま、私の知人でワルター好きという数人がそうだった、というだけで、
多くのワルター好きの人がそうだとは思っていないのだが、
それでも、ごく少数のサンプルなのはわかっていても、
このことはなかなかに興味深いな、と感じている。
ワルター好きの知人も「田園」は聴いているはずだ。
なのに、ワルターの「田園」が素晴らしい、とは一度も聞いていないのはどうしてなのだろうか。
ブラームスの演奏については力説する知人なのに、
「田園」については何も語らなかった。
つまりはそれほどいいとは感じていないからなのだろう。
知人の性格からして、そうだ、といえる。
どうしてなのだろうか。
そういえば、内田光子が何かのインタヴューで語っていた。
ブルーノ・ワルターという指揮者は道端に花が咲いていたら、
立ち止って、その花を愛でる。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、気には留めても、
足を停めることはなく、そのまま進んでいく──、
これも掲載されている本が手元にないから、
記憶に頼っての引用でしかないが、
これは核心をついているのではないだろうか。
内田光子は、どちらが優れた指揮者か、といいたいのではなく、
二人の指揮者の違いについて語っていた。
交流が途絶えてしまったワルター好きの知人に、なぜ? と訊くことはしない。
訊いたところで、納得できる答が返ってくるとも思えない。
それはそれでいい。どうでもいいことだ。
とにかくワルター/コロムビア交響楽団の「田園」は素晴らしい。