あるスピーカーの述懐(その30)
スピーカーはスピーカーの音を聴いている──。
辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
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部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
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辻村寿三郎氏がいわれる「目があるもの」とは人形のことだ。
対談では続けて、こうも言われている。
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辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
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人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形を置く。
同じ意味あいで、オーディオマニアが、己のリスニングルームに「耳があるもの」を置く。
「耳があるもの」イコール・マイクロフォンではないような気がする。
マイクロフォンは「耳があるもの」ではなく、耳の代理であるからだ。
「耳があるもの」としてのオーディオ機器は、以前も同じことを書いているが、
やはりスピーカーである。
スピーカーとマイクロフォンの動作原理は,基本的に同じだ。
つまりスピーカーユニットはマイクロフォンの代りになる。
そんなことをいっても、あくまでも理屈の上のことだろう、と思われるかもしれないが、
バスドラムの録音に、
とあるスピーカーメーカーのウーファーユニットを使っている録音スタジオがある。
かなり名の知れたスタジオであるし、
そのウーファーのメーカーも同様によく知られているメーカーだ。
それに、かなり以前、スピーカーから出た音が部屋の壁や床に反射して、
スピーカーの振動板を揺らしている──、という測定結果を見た記憶がある。
片側のスピーカーから音を出して、
音を出していない方のスピーカーの端子にオシロスコープを取り付けるという測定だった。
だからスピーカーこそ「耳があるもの」というのは、強引すぎかな、とは思うのだが、
それでもスピーカーのセッティングにおいて、
「耳があるもの」という意識をもって臨むのか、
まったくそんなこと気にせずにやるのか。
REPLY))
まったく同感です。まさにスピーカーは「耳のあるもの」だと感じます。
つまり、「見られている」「聴かれている」という感覚ですね。
たとえば、ベース・アンプですと10吋スピーカーが、ギターのアンプのキャビネットには12吋のスピーカーが搭載されていることが多いんです。これは、そちらのほうがプレイヤーの演奏にシビアであるからとも言えるんです。ローズとかオルガンを使うなら15吋はだいぶ手強くて・・・。
実際に私はスピーカーを使ってキックの録音をしていましたが、そうやってオシロスコープで測定してみても分かるように、スピーカーと部屋とは、極めて複雑な関係性を持っているわけですね。私は、ユニットにアナログのテスターを当てて抵抗値を測ってみたことがあるのですが、ウーハーを指で押して前後させると、物凄く値が変動するんですね。常に8Ωではないんです。前に人が通ると物凄く音に影響するスピーカーと、あまり影響の無いものとがあります。私は電気に疎いのでよく分からないのですが、なぜだかそういうことが現場では問題になったりします。それとこれとは何か関係があるものでしょうか・・・、私には分かりません。
―それに、スピーカーはアンプから貰った信号をキャッチして空気を震わせているわけですね。このことは過去に宮崎さんもどこかでお書きになられていたと思うのですが、非常に重要なことだと思います。この点から見てもスピーカーとは耳だと・・・。
たとえば、カラオケなどに行くと、心を込めて歌っているんだけど、声と魂がリンクしていない―という人をよく見かけます。歌手や演奏家にとって、自分がそうなるというのは、一番恐ろしいことなんですね。だから、音楽家は自問していないと、かえって落ち着かないと思うんです。モニタースピーカーという言葉があるけど、あなたの声は今こんな感じですよ~というモニター、つまり、耳であり目であると。
ただ、演奏家にはアーティストタイプとデザイナータイプがいるので、ちょっとその辺は人によって、考え方も変わるのだろうな・・・とは思います。というのは、ジャズだとソリスト、ポップバンドならセンターですね。彼らには強力な自我が必要です。その上で自己顕示欲をどこまで押さえることができるかという課題に取り組んでいるわけです。
リズム・セクションはもっと冷静な人たちで、ロックだとキックとベースのタイムを合わせないといけませんから、仮にずらしてグルーブを作るにしても、二人で探りあわないといけません。また、センターの性質やタイムに波を合わせないといけない。センターは波に乗るのが役割ですが、優れたリズムセクションは波を調整できるわけですね。
これは野球でいうピッチャータイプとバッタータイプによって性質が異なるような話で、普通両立しないと思うのです。クラシックですと、作曲家はアーティスト・タイプが多いでしょうし、指揮者というのはデザイナー・タイプが多いのかなと思います。
もちろん、現実にはここにはグラデーションがあり、バッサリと分けられるものではありません。ジェフ・ポーカロとハル・ブレインでは同じスタジオ・ドラマーでも、それぞれの成分分布が違うわけです。これは、かなり突っ込んだ話ですが、大事なことだと思うのです。
レコード演奏家も、むろん演奏家であり、やはりスピーカーは目・耳だと思うのです。家庭のレコード演奏家はプロフェッショナルではないけれど、むしろ、アマチュアのほうが優れたプレイヤーが多いような気もします。
多くのパブリック・スペースにおいては、プロフェッショナル達は音楽に対して真摯な態度ではないと私には感じられますし、彼らに払われる代価も少なすぎると思うのです。ロックのコンサートにおいてミキサーは指揮者のようなものですから、パンフレットにはミキサーの名前が乗ってもいいように思うんですね。あのミキサーのコンサートだから、聴きに行きたいと言われるようでないとダメだと思うです。このことの重要性は、公共教育でも教えていったほうがいいように思います。そうすることで家庭でのプレイバックも演奏なのだという見識が広がると思うのです。
イラストレーターの世界はITによって大きく花開いたと言えます。「プリンセスメーカー」などで知られる赤井孝美は岡田斗司夫との対談の中で、「毎年ピクシブ(イラスト共有サイト)で1000人くらい私より絵の上手いイラストレーターが生まれてくるようになった。ここで戦える気がしない。」と言っていました。
無論、印刷技術が浮世絵の世界を壊したように、ここにはなんらかの痛みは生じます。しかし、オーディオにおいては真のアマチュアイズムがもっと隆盛しても良いように思うのです。
私は幼少期からスケート・ボードを趣味としていますが、東京オリンピックを見てガッカリしました。およそスポーツとはかけ離れた雑技が行われているではありませんか。スケートボードの最もオーセンティックな競技はスラロームであり(私はここにクロス・カントリーを入れたい!)、スケートボードの歴史、スポーツの意義、ジェントルマンの必要性。そして、アマチュアイズムとは何であるか。それらの言葉について、現代人は綺麗さっぱり忘れてしまったように感じたのです。
スピーカーは見ているし、聴いています。この人の前では恥ずかしくない人間であろうという人が、人生のなかに一人はいるかと思います。そういうスピーカーと付き合っていけたら、この趣味は奥深いものになると思うのです。