石積み(その3)
不揃いの石を積んでいく。
全く同じ形、同じ大きさの石は世の中にはない(はずだ)。
そういった不揃いの石を、
モルタルもコンクリートも使わずに積んでいくのが、空積みと呼ばれる施工法である。
空積みは教わったからといって、誰にでもできることではない。
だから多くの人は、石を積むのであれば、
モルタルやコンクリートを石と石の隙間に流し込む。
練積みである。
(その1)で、
石は、その人にとってのこれまでの体験でもあり、
石はまた人でもある、と書いた。
ならば練積みにおけるモルタルとコンクリートは、なににあたるのか。
REPLY))
石の空積みと煉積み―、大変興味深く読んでおります。
幼少よりの生来の無口と自分の国語に難を覚え、文筆を習ったころがありました。あの頃の世の中は手書きがまだ普通で、教室ではワープロなどを使用しておりませんでした。そこでは論理展開を少しでも怠れば、すぐさまと注意を受けたものです。しかし、自分の書く文章が目の前で校正され流麗な文章へと書き換わる様子は、自分の無知を自覚すると共に、こころ動かされる体験でもありました。まだうら若き師と仲間らとの想い出は人生の中でも最も麗しく、「まず、考え行動なさい」という声が、山の手の美しい名古屋なまりと共に今も記憶の隅に残っています。
しかし、大学に入るころとなると日常はワープロ化し、時代の潮流に流されざるを得ませんでした。文章のブロックを移動させ、センテンスは短く区切られ、パズルゲームのように文章を設計するようになりました。より素早く、迅速に、合理的に、簡潔に、文章は単語をコラージュしてビルドするものへ。電子メールでは序文省略せよ。ソフトは作るのではなく、使いこなすもの・・・まさにそれは情報処理でした。
そうやって言葉は切って貼られ、しだいに文章は骨格を失い、ついには頭の動きまでもワープロのようになってしまいました。兼ねてより多少の情報知識を身につけておいた私は授業を免除し、日銭欲しさからアルバイトでマイクロソフト・オフィスの補助講師を勤めておりました。また、研究室で論文添削と校正助手などをしており、コンピューターの利便性と恩恵の中で、崩壊し行く我が国の国語を目の当たりにしました。
石の空積みと煉積みの話で、ふとそんな昔を思い出しておりました。そうして、ひょっとすると私にとってのモルタルやコンクリというのは、ワープロ(ソフト)のことだったのではなかろうか―、と思い当たった次第なのです。それはまったく依存性が高いもので、しかし便利であり、屈しがたいものです。
ところでたったいま頭によぎったヴィジョンは、ステレオサウンドから刊行されている瀬川冬樹著作集の表紙でした。そこには彼の手書きによる原稿が映し出されていました。私はまだそれを購入していません。ただスクリーンでそれを見ていて、その記憶を思い出すうち、何か深く身にしみて感じ、しみじみとした気持ちになりました。
世界79ヵ国、約60万人の15歳児を対象とした学力テスト「国際学習到達度調査」では、わが国の著しい読解力の低下が露見しました。2018年の結果で我が国は前回の8位から15位へと順位を落としています。
それがどのようなテストであるのかは分からないのですが、そもそも国語力というものは受験産業の鬼門と呼ばれるほどで、国語の点数の悪い生徒を向上させることも、逆に点数を落とすことも等しく難しいことであると言われています。なぜならそれは、学校外での読書量や、家庭等の環境文化に依存するものであるからです。
諸説原因は考えられるようです。読書人口の急激な低下、または世代間における文化の断絶、欧米諸国と比してパソコン普及の遅れたまま携帯普及が到来してしまったこと。おそらくはそれら複合的な原因によって、論理的展開を構築できなくなった人が増えたためではないか―。あらゆる指摘が各界知識人の見解の間に見ることができますが、我々の陥った言葉の此岸はたどり着く先を見ません。
また、石積みの話で思い出したのは、不ぞろいな石を積み上げる日本の石垣のことです。ヨーロッパの石垣は煉積み、つまり、石の間にモルタルまたは漆喰を塗って固めるのが一般的です。インカの遺跡では、不ぞろいといえど隙間の入る余地のない計算された石垣が特徴となっています。それらに比較し、わが国のそれは石の切削を詰めてはおりません。自然のままつかうこともしばしばです。おそらく、これらを積み上げるためには、多くの感性と悟性が必要であるだろうと考えられます。
ちかごろの流行に乗じ、ことさら自分の国を褒め称えるにも口はばかれる気を覚えますが、これは日本の土着的なプリミティビシティーを思えばさもありなん悠然の美徳でしょう。しかしながら、それら妙技が彼岸にたどり着かぬまま黄昏行くならば、こと知る人は嘆かわしいことに違いありません。
石をオーディオ・パーツに置き換え、考えておりました。たとえば、ラジオチューナー機能を搭載したアンプ、つまり、レシーバー・アンプですね。これはコントロール・アンプとパワー・アンプを組み合わせてコンポーネントを構築するセパレート・アンプの世界と違い、統合性があるものの組み合わせの妙技を楽しむ余地がありません。わが国でレシーバー・アンプがあまり人気の無かったことを好意的に捉えるならば、空積みとしての文化が意識の根幹にあり、その文化的根底が我々日本人のオーディオ開拓者たちの無意識化に働きかけていて、それがわが国のオーディオ文化を作り上げていた・・・と考えるのも面白いと思うのです。
また、わが国のオーディオにおける画一ならぬ石を積み上げるという文化は、一朝一夕に成した文化ではないのだと思います。
宮崎さんによる2つの記事「世代とオーディオ(あるキャンペーンを知って・その2)*① 2015年5月2日」と「世代とオーディオ(略称の違い・その4)*② 2017年8月1日」の中では、わが国におけるオーディオの世代に関わる非常に興味深い考察を見ることが出来ます。まだご覧なられていない読者諸兄には、ぜひ全編ご高覧所望します。無遠慮失礼にあたりますが、以下、一部引用いたします。
*①
このころのステレオサウンドには毎号アンケートハガキがついていた。
ベストバイ特集号のひとつ前の号には、ベストバイコンポーネントの投票ハガキとなる。
ステレオサウンド 47号(1978年夏号)をみてみる。
年齢分布の棒グラフがある。
10〜15才:5%
16〜20才:15.7%
21〜25才:28.9%
26〜30才:29.4%
31〜35才:9.6%
36〜40才:5.7%
41〜45才:3.9%
46〜50才:1.9%
51〜55才:1.1%
56〜60才:0.5%
61才以上:0.2%
無記入:1.2%
この結果をみるかぎり、中心読者は若い世代といえる。
*②
ステレオサウンドが三年前に発表した資料によれば、
19才未満が2%、20〜29才が3%、30〜39才が11%で、この世代の
合計は16%にすぎない。
のこり84%は40才以上であり、60〜69才が28%といちばん多く、
80才以上も19才未満と同じ2%である。
この2つの記事が示すのは、わが国では明らかなオーディオのジェネレイションが存在し、その勢いに滞りがみられることです。
また、1970年代には、欧米各国と比較しても、より分割したコンポーネントの世界が構築されていたことが考えられます。1975年季刊ステレオサウンド別冊「コンポーネントの世界」内の記事「スピーカーシステム100機種を生かすベストコンポーネント355選」を集計したところ、87選ものセパレートアンプ・コンポーネントが紹介されていることが分かりました。レシーバーを使ったコンポーネントは15選でした。これはレシーバーが主力だったアメリカと比べると驚くべきことです。
私はこの数値を好意的に解釈しています。おそらくそれは、世界の潮流を作る勢力を持っていたに違いありませんし、20世紀の音楽の動向にも影響を及ぼしたであろうはずだからです。
私はこの雑誌で多くを学びました。たとえば、この中で評論家の岡俊雄が使っていたアーティスト・プルーヴァル(演奏家の承認)という言葉は、今では失われてしまった概念の一つではないかと思うのです。この語は既にGoogleではヒットしません。これはこの言葉が、かつては存在していたが失われてしまった単語であるということを示しています。
空積みの石垣を指して「金持ちの贅沢な趣味さ」と言っていた庭師の友人を思い出します。かつては富豪の遊びではなく、庶民の暮らしに根付いていた文化でした。
私の子供の頃にはセパレートのコンポーネントを持った家が近所にいくつもありましたが、同様、それも庶民の遊びでした。彼らは特権階級でもルクセンブルク人でもなんでもなく、一般の新興住宅地に住む中産階級の公務員や会社員でした。
今は遊園地になっている花屋敷(日本最古の遊園地)は、江戸時代には庶民がにぎわう植物園だったそうです。ヤブコウジ(センリョウ、マンリョウなどの総名)の外来種は当時としては珍品であり、とりわけ人気の高かった日之司は現在に換算して1000万円を超える値段を付けたといいます。今も日本人は植物が好きでしょうし、高級な盆栽なども存在しますが、植物ブーム当時の江戸のような活気はないと言えるでしょう。なによりも、その文化が庶民の生活や思考に至るまで落とし込まれているかどうかということが重要です。
ノブレスオブリージュという言葉がありますが、我々プレッシャー世代の友人の間にさえ、ステレオに対し「富豪の遊び」「貴族の趣味」という印象を持たれています。ごく限られた人だけがステレオに関心を持ち、ブルートゥース・スピーカーを画一的に選ぶ層からは「我々庶民の知ったことではない」という態度がはっきりと感じられます。そして、私自身がオーディオ・ファイルとして自分の言葉を持っていないことにも気付きました。
私自身がインプットしたものをコラージュした継ぎはぎだらけの人間になっていはしないだろうかと思ったのです。ショーペンハウワーは、彼の著書「読書論」の中で多読の悪影響を危惧し、おのおのが体系化し物事を考える重要性を説いています。
「他人の思想はそのどれをとってみても、それぞれ異なった精神を母体とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて、おのおのが自然に合流して真の思索や知識、見識や確信に伴うはずの全体的組織をつくるにいたらず、むしろ創世記のバビロンを思わしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみすぎた精神から洞察力を全て奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れる(読書論11-12頁)」
小学生のような感想しか言えないという人が増えていると聞きますが、私自身も身に覚えがあるだけに、自分の中で思考を体系化することの重要性を実感しています。
空積みには適度な振動の分散があり、大きな自信の揺れに耐えると言います。継ぎ目が風化しほどけても、積んだ石の崩れぬ自分でありたいと思います。