Archive for 4月, 2021

Date: 4月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その1)

五味先生の「FM放送」(「オーディオ巡礼」所収)に、
ラフマニノフの〝声〟Vocaliseのことが出てくる。
     *
 ──今、拙宅には、二本の古いテープがある。どちらも2トラック・モノーラルで採ったもので、一本はラフマニノフの〝声〟Vocalise、もう一本はフォーレのノクチュルヌである。
 FM放送で、市販のレコードの放送されたのを録音することはないと書いたが、理由は明白で、放送されたものは、レコードを直接わが家のプレヤーで鳴らすのより音質的に劣化してしまうからだ。放送局のカートリッジが拙宅のより悪いからというのではなく、音そのものが、チューナーであれテレコであれ、余分なものを通すたびに劣化するのを惧れるからである。ダビングして音のよくなるためしはない。それがいい演奏、いいレコードであればなおさら、だから、より良い音で聴きたいからレコードを買うべきだと私はきめている。
 これはだが、経済的に余裕があるから今言えることであって、小遣い銭に不自由したころは、いいレコードがあれば人さまに借りて、録音するしかなかった。〝声〟もそうである。
 ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
     *
読んだ時から、聴いてみたい、とすぐに思った。
六分半ほどの曲だ。

20代のなかばごろだったか、LPを見つけた。
ラフマニノフの交響曲とのカップリングだった。

買おうとしたけれど、ほかのレコードを優先して買わずじまいだった。
CDになってから、廉価盤で出ていた。

ラフマニノフの交響曲集の最後におさめられていた。
今度は買った。
五味先生の書かれているとおりの曲だった。

私が買った廉価盤は廃盤のようだが、
いまでもオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団のラフマニノフは入手できる。

TIDALでも聴ける。
私はラフマニノフの作品はあまり聴かない。
交響曲も、上記CDを買ったときに聴いて以来、もう聴いていない。
ときおり〝声〟が聴きたくて、ひっぱり出して聴くぐらいである。

そのくらいの頻度での聴き方だと、TIDALで聴けるのは便利であるし、
見つけた時にひさしぶりに聴いてしまった。

これから先何度聴くか、となると、
おそらく十回と聴かないであろう。
ほんの数回ぐらいのような気もする。

五味先生の文章は、もうすこし続く。
コロという猫のことを書かれている。

コロが産んだ仔猫を始末することになったことを書かれている。
     *
 捨てに行くつらい役を私が引受けた。私はボストンバッグに仔猫を入れ、牛乳を一本いれ、西武の池袋駅のベンチへ置いた。こんな可愛いい猫だからきっと誰かに拾われ、飼ってもらえるだろう、神よ、そういう人にこの猫をめぐり逢わせ給え、そう祈って、逃げるようにベンチを離れた。一匹は家内がS氏夫人のもとへ届けにいった。
 貧乏は、つらいものである。帰路、私はS氏邸に立寄って、何でも結構ですからとレコードをかけてもらった。偶然だろうがこの時鳴らされたのが〝声〟であった。この〝声〟ばかりは胸に沁みた。
     *
〝声〟が、胸に沁みるときが、私にもいつかあるのだろうか。

Date: 4月 21st, 2021
Cate: High Resolution, James Bongiorno

MQAのこと、James Bongiornoのこと(その2)

TIDALで、“Mark Levinson”を検索したならば、
この人も忘れてはならない。

ジェームズ・ボンジョルノ(James Bongiorno)である。
ボンジョルノのアコーディオンとピアノの腕前は、
《アマチュアの域を超えている》と菅野先生が、
ステレオサウンド 53号に書かれているほどだから、そうとうなものなのだろう。

そのボンジョルノのCDが出ていることは知っていた。
Ampzilla 2000で復活をしてしばらくしたころに出したようである。

いつか買おう、と思いながらも、アメリカに注文してというのを億劫がって、
今日まできていた。

Mark Levinonがあるくらいだから、James Bongiornoもあるはず、と検索したら、
二枚とも表示された。

“Alone Again”と“This is The Moment”である。
残念なことにMQAではない。

Mark LevinonもMQAではないのだけれど、
こちらはMQAでないことをそれほど残念とは思わなかった。

James BongiornoがMQAでなかったのは、ちょっと残念に感じている。

Date: 4月 21st, 2021
Cate: Mark Levinson

ベーシストとしてのマーク・レヴィンソン(その2)

(その1)は、2009年3月に公開している。
マーク・レヴィンソンがベーシストとして参加しているポール・ブレイのアルバム、
「Ballads」について、簡単に紹介したぐらいで、
(その2)を書くつもりは、その時点ではまったくなかった。

さきほど、そういえば、と思って、TIDALで“Mark Levinson”で検索してみた。
同姓同名の歌手のアルバムが表示されるが、
ポール・ブレイ・トリオの「Bremen ’66」も出てくる。
それで(その2)を書いている。

「Bremen ’66」は、タイトルどおり、1966年のブレーメンでのライヴ録音である。
「Ballads」の一年前のレヴィンソンの演奏、それもライヴでの演奏が聴ける。

「Ballads」は買って聴いた。
「Bremen ’66」はCDで見つけたとしても買わなかっただろう。
それでもTIDALにあるから、一曲だけ聴いてみたところ。

もちろん「Ballads」もTIDALで聴ける。

Date: 4月 20th, 2021
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その12)

つい先日、別の近所の書店で、ステレオ時代を手に取っている人がいた。
私と同じくらいか、ちょっと上の世代のようにみえた。
ほとんど、この書店でそういう人をみかけることはない。

新宿の紀伊國屋書店に行けば、規模が大きいし、繁華街にあるだけに、
ときどきオーディオ雑誌を手に取っている人をみかける。
それでも若い人が手に取っているところを、この十年ほどみかけたことがない。

オーディオマニアが高齢化していることは、これまでも何度か書いてきている。
ステレオサウンドだけのことではない。
無線と実験においても、読者の高齢化ははっきりとしている。

無線と実験がこれからも続いたとして、
読者が高齢化していくばかりであり、若い読者が登場してこなければ、
オーディオの技術者をめざそうとするオーディオ少年はいなくなってしまうのではないか。

私が別項でAliExpreeを取り上げているのは、このことも関係している。
昔の日本は、AliExpree的なオーディオのキットが、けっこうな数あった。

無線と実験、ラジオ技術、初歩のラジオ、電波科学などの、
自作記事が毎号載っているオーディオ雑誌もあった。

そういう時代背景があったからこそ、
オーディオの技術者がうまれ育っていったとはいえないだろうか。

そんなことは杞憂にすぎない、
いまはインターネットがあって、その代りを果たしているから──、
そんな声もきこえてきそうだが、そのことに期待もしているが、
そうともいえないという気持は半分程度はある。

いまのような状況が続けば、というかますますさびしいかぎりになっていけば、
オーディオ技術者はもう育ってこなくなることだって、十分考えられることだ。

Date: 4月 20th, 2021
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その11)

無線と実験の、書店での扱いが気になるのは、
別項「日本のオーディオ・これから」と多少なりとも関係してくるからである。

ラジオ技術が書店で取り扱われなくてってけっこう経つ。
思い出したかのようにトランジスタ技術が、特集でオーディオ関係をやるけれど、
いま書店で手にすることのできるオーディオ雑誌で、自作記事が載っているのは、
基本的に無線と実験だけになってしまった。

私が中学生のころは、自作記事が載っているオーディオ雑誌は、いくつもあった。
それがひとつ消え、またひとつ消え、
無線と実験だけが毎号自作記事を載せるだけになってしまった。

オーディオマニアでも、無線と実験にまったく興味、関心をもたない人がいるのは知っている。
自作に関心がない人もけっこう多いし、
オーディオ雑誌はステレオサウンドだけあればいい、という人も、けっこう多いことだろう。

オーディオに興味をもちはじめたばかりの10代の少年が、
書店の音楽・オーディオコーナーで、無線と実験を見つける。
こんな世界もあるのか、と思う少年もいれば、そうでもない少年もいる。

前者の少年のなかのどのくらいがじっさいに 自作をするようになるのかはなんともいえない。
けれど、自作に少なからぬ興味をもっていることは確かだろうし、
積極的に自作に挑戦していく少年も、きっといる。

そういう少年の、これまたどのくらいの割合なのかはなんともいえないが、
オーディオメーカーの技術者をめざしていき、
実際に技術者になった人も、以前ならばきっといたはずだ。

無線と実験は、あとどのくらい続いていくのだろうか。
意外と早くおわりが訪れるのかもしれないし、
しぶとくねばっていく可能性もある。

それでも、いつの日か、無線と実験も消えてなくなるであろう。
そうなったとき、かわりのオーディオ雑誌があるだろうか。
自作記事を毎号載せるオーディオ雑誌が、なにかあるだろうか。

Date: 4月 19th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その17)

この項の2012年12月に書いている(その12)、(その13)で、
骨格のしっかりした音、骨格のある音という表現を使っている。

わかりやすい表現のようではあるが、
ほんとうにうまく相手に伝わるのかどうかは、はなはだあやしい。

それぞれに「骨格のある音」のイメージは違っているような気がするからだ。
それでは、もっと丁寧に、
骨格のある音と骨格のない音の違いについて説明できればいいのだが、
こういう感覚的な音の表現を、どんなにこまかく描写していっても、
わからない人はわからない、という、それだけのことである。

それでも、今回のTIDALで聴くことができた「最後の演奏会」の音は、
確かに骨格のある音だったし、国内盤(CD)での音は、骨格のない音だった。

もっとも私の再生環境でそうであったというだけのことの可能性もある。
「最後の演奏会」のCDを、国内外の多くのCDプレーヤーで聴いているわけではない。
せいぜい三機種程度でしかない。

なので、あくまでも、その範囲内のことでしかない可能性もある。
けれど、国内盤に対する印象は、そう間違っていない、とも思っている。

TIDALの再生環境は、CDプレーヤー以上の違いがあるのかもしれない。
TIDALで聴いても、骨格のある音に聴こえなかった、と感じる人もいるだろう。
そう書きながらも、私のところでは、TIDALの再生環境は二つある。

一つはMac miniをメリディアンの218る接いで、コーネッタで聴くシステム、
もう一つは、iPhone 12 Pro+FC3でヘッドフォンで聴くシステムだ。
どちらで聴いても同じに感じたのだから、ある程度の普遍性のようなものはある。

その人が出している音が、まったく骨格を感じさせない音であれば、
TIDALで「最後の演奏会」を鳴らしたところで、国内盤の音と変らないであろう。

けれど、骨格のある音ということに関心のある人ならば、
そして骨格のある音とない音を違いを、少しでもいいから具体的に聴きたい、
そう思っている人は、TIDALと国内盤(CD)で比較してみてほしい。

Date: 4月 18th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その16)

(その15)で触れた、バックハウスのデッカ録音全集。
2019年6月にアナウンスされ、発売は2020年1月だった。

当初は39枚組の予定だったが、実際には38枚組で出ている。
内容に変更はない。
価格もさほど高くない。

2019年の時点では買うつもりだった。
なのに、買っていない。

2019年9月にメリディアンの218を導入して、
e-onkyoで買うことに夢中になっていて、
ころっと忘れていたこと、e-onkyoにけっこうお金を使ってしまったことなどが理由である。

バックハウスのデッカ録音全集で私がいちばん聴きたかったのは、
「最後の演奏会」である。

(その15)で書いているように、
この「最後の演奏会」に関しては、LPもCDも国内盤でしか聴いたことがない。
輸入盤(CD)が欲しくて探したけれど、見つけられなかった。

国内盤の音に特に不満を感じていなければ、
疑問も感じていなければ、輸入盤を欲しい(聴いてみたい)とは思わない。

けれど実際の「最後の演奏会」の国内盤CDの音は、
薄っぺらく、芯がないように感じていた。

ほぼ二年前のことを思い出したように続きを書いているのは、
TIDALで「最後の演奏会」(The Last Concert)を聴いたからだ。

TIDALとCDとでは試聴条件がけっこう違う。
デッカ録音全集は買っていないので、
国内盤と輸入盤という比較にはならないけれど、
やっぱり国内盤の音の印象は、国内盤だからのようだ。

TIDALで聴くバックハウスの「最後の演奏会」の音は、納得がいく。

Date: 4月 18th, 2021
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その24)

編集者の悪意とは、その編集者が自覚的なときもあれば、まったくそうでないときもある。

これまで書いてきたステレオサウンド 87号でのKHさんの場合、
自覚的ではないにしろ、直接的でもないにしろ、
マッキントッシュのXRT18という特定のスピーカーを、
ほかのブランドの、ほかのスピーカーよりもよく鳴らしたい、という気持は、
無自覚で間接的な悪意、
それも反転しての皮肉な事象になってしまったように、いまはおもう。

公平に扱う、という気持をどこかに置き忘れてしまった。
ただそれだけのことであるのだろう。
でも、このことは本人がどう思っていようと、編集者の悪意である。
(もっともKHさん本人は否定されるだろうが……。)

KHさんのそれにくらべて、いまのステレオサウンド編集部の黛 健司氏の扱いには、
陰湿っぽい悪意を、私は感じとっている。

別項「オーディオ評論をどう読むか」の(その8)と(その9)で指摘したように、
いまのステレオサウンド編集部(編集長といったほうがいいのか)の黛 健司氏の扱いは、
はっきりとおかしさを感じる。

悪意か、それに近いものを感じている。

編集部は、そんなことはない、と否定するはずだ。
だが私を含めて一部の読者は、そうは思っていない。

私一人ならば、私がステレオサウンドに対して悪意をもって読んでいるから──、
という指摘もされよう。
けれど実際はそうではない。

一ヵ月ほど前の「オーディオ評論をどう読むか」を公開したあと、
そんなふうに感じています、という声が数人からあった。

Date: 4月 17th, 2021
Cate: 映画

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(その2)

4月5日に「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を観た。
それから何をしていたかといえば、
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をさかのぼってみていた。

四部作である「シン・エヴァンゲリオン劇場版」。
一作目が「序」であり、「破」、「Q」ときて、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」。

公開時にみていた。
それを今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のあとに、もういちどみた。

ただし順番は「Q」、「破」、「序」の順番でみた。
そうやってみていくことで気づくことがいくつもあった。

こういう順番でみられることを作り手側は想定していたのか、そうでなかったのか。
こんな見方をしていて、そういえば、ワーグナーの「ニーベルングの指環」もそうだった、
と思い出した。

もちろん最初は順番とおりに聴いていった。
「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」と聴いていった。
わりと短期間で聴いていったわけではない。

「ラインの黄金」は一気に聴いた。
けれど、のこりはそうはいかなかった。
二日か三日かけて、聴いていった。

しかも連続しての二日や三日ではなく、そのあいだが数日あいている。
さらに作品ごとのあいだもあいている。

「ラインの黄金」を聴いて、しばらくして「ワルキューレ」だった。
「ワルキューレ」のあと、もっとあけての「ジークフリート」で、
「ジークフリート」と「神々の黄昏」のあいだは、もっとあいていた。

「ラインの黄金」を聴いてから、「神々の黄昏」までは一ヵ月以上かかっている。
そうやって聴いた「ニーベルングの指環」を、今度はさかのぼって聴いていった。

「神々の黄昏」のあとに、あとずいぶんあいだをあけての「ジークフリート」、
またあけての「ワルキューレ」、そして「ラインの黄金」である。

一回目よりも、さらに時間がかかった。
そんな聴き方を、20代のころしていたことを、おもいだしていた。

Date: 4月 17th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、否定する人のこと(その3)

MQAをとにかく否定する人が、日本にはいる。
どのくらいいるのかまでは把握していないが、
否定する人の声は、大きいように感じている。

私はMQAのエヴァンジェリストでありたい、と思っている者だけれども、
MQAが理想であり、最善であり、ほかの方式はまったくダメだとは考えていない。

けれど、MQAに否定的な人は、そうではないところが不思議である。
とにかくMQAに対して攻撃的である。

認めなければいいだけではないか──、
私はそう思うのだが、そうはいかない人たちが、MQAに否定的なようであり、
MQAそのものを葬り去りたいようでもある。

日本だけのことなのかなぁ、とも思っていた。
けれど、他の国でもそういう人たちはいることを、先日、facebookで知った。

海外にも、MQAをとにかくなくしたいと思っている人たちがいる。
日本における、そういう人たちと同じく攻撃的のようにも感じる。

TIDALで音楽を聴くようになって、五ヵ月。
MQAで聴ける曲が順調に増えてきている。

五ヵ月前はMQAでは聴けなかった曲も、いつのまにかMQAで聴けるようになっている。
このこともMQAに攻撃的な人たちは気にくわないようだ。

Date: 4月 17th, 2021
Cate: 新製品

B&O Beosound Emerge(補足)

本のようなブックシェルフ型スピーカー。
さきほど公開したあとで、
そういえば、と思い出したスピーカーがある。

ハンガリーのミュージカルエンサイクロペディアのD93である。
1979年に日本に紹介されている。
輸入元は、オーディオラボで、価格は42,000円(二本一組)だった。

D93は、9.5cm口径のウーファー(二発)と6.5cmコーン型トゥイーターからなる。
外形寸法はW11.5×H28.6×D22.0cmで、重量は3.2kg。

ブランド名がそうであるように、百科辞典サイズのスピーカーである。
私は実物をみたことがないから、
当時はモノクロの、あまり鮮明でない写真ぐらいしかなかったが、
いまはインターネットがあるから、検索すると、いくつもの写真が表示される。

いわゆるミニスピーカーのフロントグリルを湾曲させ、
エンクロージュアの両サイドとフロントを、
百科辞典風のグリルで囲っている。

スピーカーのフロントが背表紙にあたる。
エンクロージュアの天板も、それらしく仕上げてある。
百科辞典に擬態したスピーカーシステムといっていい。

今回検索してわかったことがもう一つあって、
日本ではミュージカルエンサイクロペディアというブランドで紹介されていたが、
正しくはビデオトンで、
Musical Encyclopedia D93が型番だということだ。

当時、ビデオトンの製品も輸入されていた。
輸入元は、兵庫東西貿易だった。
どういう事情で、D93だけがオーディオラボ取り扱いになったのかは、知らない。

とにかくD93とBeosound Emergeには、四十年以上の隔たりがある。

Date: 4月 16th, 2021
Cate: 新製品

B&O Beosound Emerge

私がオーディオに興味をもち始めたころ、
つまり1970年代後半のオーディオの解説には、
ブックシェルフ型スピーカーとは、本棚におさまるサイズとあった。

そのころの現実のブックシェルフ型スピーカーは、
とうてい本棚におさまるサイズではなかった。

ましてその後に登場した598スピーカーともなると、サイズだけでなく、
そうとうに立派な本棚であっても、重量的に支えきれる範囲を逸脱していた。

ミニスピーカーと呼ばれる製品がある。
このミニスピーカーぐらいが、本棚にすんなりおさまるサイズである。

ブックシェルフ型というのは、
現実にはフロアー型よりも小さいなサイズ、
設置になんらかのスタンド(置き台)を必要とするスピーカーという意味だった。

B&Oから、Beosound Emergeが発表になった。
このBeosound Emergeこそ、ブックシェルフ型である。

Beosound Emergeがどういうスピーカーなのかは、リンク先を見てほしい。
本棚に本来おさまるのは、本である。

ならばブックシェルフ型スピーカーというのは、本のようなスピーカーであってもいいはずだ。
ミニスピーカーとも違う、本のようなスピーカー。

こんなことをBeosound Emergeをみるまで考えもしなかった。

Date: 4月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その2)

今回聴いたエッシェンバッハのブラームスは、
ヒューストン交響楽団を指揮しての四番ではなく、
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団との演奏である。

今回もTIDALで聴いている。
エッシェンバッハは、ヒューストン交響楽団と一番から四番まで録音しているが、
TIDALには一番と二番しかみあたらなかった(でもMQAだったのは嬉しい)。

四番は、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団とのものだけだった。
それで聴いみた次第。

聴いてすぐにライヴ録音だということはわかったぐらいだから、
どんな演奏なのかは、まったく知らずに聴いた。

TIDALにあったから聴いた、といういわば消極的な選曲での聴き方だ。
聴くきっかけがどうであろうと、このエッシェンバッハの四番が聴けてよかった。

しかも聴き終って調べてみたら、2005年、サントリーホールでのライヴ録音である。
こんな演奏が日本で行われていたのか──、という驚きと嬉しさと、
聴き逃していた後悔がないまぜになっていた。

もっともエッシェンバッハが2005年に来日していたことすら知らなかったのだから、
聴き逃していた、というよりも、まったく無関心だった自身を恥じるしかない。

それでも、いまこうやって聴くことがかなう。
おそらくTIDALを使っていなければ、
私はこのエッシェンバッハのブラームスに出逢うことはなかっただろう。

私の周りのクラシック好きの友人、知人のところで、
エッシェンバッハの演奏(ピアノ、指揮どちらも)を聴いたことはなかった。

それだけでなく、エッシェンバッハについて語ったことも記憶にないのだから、
どこかで偶然聴くということもない、と思う。

Date: 4月 15th, 2021
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その32)

オーディオ機器のデザインについて考え語るときに、
忘れてはならないのは調和ということのはずだ。

オーディオ機器は、何度も書いているように、単体で成り立つわけではない。
アンプが一台あったところで、それだけで音が鳴らせるわけではない。
スピーカーにしてもそうだ。
スピーカーだけでは、そこから音は鳴ってこない。

つまるところオーディオはオーディオ・システムにほかならない。
だからこそ、オーディオ機器のデザインで特に重要となるのは、調和だと思うようになった。

ならばプレーヤーからアンプ、スピーカーシステムまで、
ワン・ブランドで揃えるのが、調和もとれて素晴らしいのか、となると、
オーディオ・システムの調和とは、それぞれに個性あるモノを集めての調和を求めたい。

この項で、ずんぐりむっくりのアンプのことを取り上げている。
アキュフェーズのE800にしても、
少し前のラックスのアンプ、それからテクニクスのSU-R1000もずんぐりむっくりだ。

皮肉めいたことをいえば、ずんぐりむっくりのオーディオ機器がこれからも登場し、
誰も苦言を呈することなく、それがあたりまえのようになってしまったら、
それはそれで調和がとれるようになるのかもしれない。

調和を求めたいからこそ、
オーディオ・システムのデザインの中心ということを考えるわけだ。

Date: 4月 15th, 2021
Cate: ディスク/ブック

エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その1)

ブラームスの四つの交響曲でよく聴くのは、一番と四番であり、
いちばん好きなのは四番である。

ブラームスの四番の、私の愛聴盤は、
カルロ・マリア・ジュリーニ/ウィーン・フィルハーモニーによる演奏(録音)である。

カルロス・クライバーもよく聴くし、
少し前に書いたトスカニーニ/フィルハーモニアのも、いい。

もちろんフルトヴェングラーの四番も好きだし、
ほかの指揮者でもけっこうな数を聴いてきた。

それでも比較的新しい演奏(録音)といえば、
リッカルド・シャイーの交響曲全集である。

2013年に発売、録音は2012年から2013年にかけて行われている。
シャイーよりもあとに録音された演奏は聴いていない。

ティーレマンは聴いてみたい、と思っているのだが、
手を出しそびれて、まだ聴いていない。

現役の指揮者でブラームスを積極的に聴いてみたい人は、いまのところいない。
これまで聴いてきた指揮者の演奏(録音)をこれからもくり返し聴いていけば、
充分ではないか、という気持がある。

ブラームスの四番を、聴き尽くした、聴き込んだと思っているわけではない。
いま持っているディスクをじっくり、
これからも聴いていくほうが実りあるのではないか──、そう思う気持が強い。

2月にクリストフ・エッシェンバッハの“Piano Lessons”のことを書いた。
エッシェンバッハの“Piano Lessons”をTIDALで聴いて、
エッシェンバッハのほかの演奏も聴くようになった。

エッシェンバッハのキャリアは長いから、
これまでもエッシェンバッハの演奏は、ピアノだけでなく指揮者としての演奏も聴いてきている。
とはいっても、エッシェンバッハの熱心な聴き手ではなかったから、
聴いていない演奏が、TIDALにはそこそこあった。

指揮者エッシェンバッハの演奏に、聴いてないのが多い。