Date: 4月 18th, 2021
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド
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編集者の悪意とは(その24)

編集者の悪意とは、その編集者が自覚的なときもあれば、まったくそうでないときもある。

これまで書いてきたステレオサウンド 87号でのKHさんの場合、
自覚的ではないにしろ、直接的でもないにしろ、
マッキントッシュのXRT18という特定のスピーカーを、
ほかのブランドの、ほかのスピーカーよりもよく鳴らしたい、という気持は、
無自覚で間接的な悪意、
それも反転しての皮肉な事象になってしまったように、いまはおもう。

公平に扱う、という気持をどこかに置き忘れてしまった。
ただそれだけのことであるのだろう。
でも、このことは本人がどう思っていようと、編集者の悪意である。
(もっともKHさん本人は否定されるだろうが……。)

KHさんのそれにくらべて、いまのステレオサウンド編集部の黛 健司氏の扱いには、
陰湿っぽい悪意を、私は感じとっている。

別項「オーディオ評論をどう読むか」の(その8)と(その9)で指摘したように、
いまのステレオサウンド編集部(編集長といったほうがいいのか)の黛 健司氏の扱いは、
はっきりとおかしさを感じる。

悪意か、それに近いものを感じている。

編集部は、そんなことはない、と否定するはずだ。
だが私を含めて一部の読者は、そうは思っていない。

私一人ならば、私がステレオサウンドに対して悪意をもって読んでいるから──、
という指摘もされよう。
けれど実際はそうではない。

一ヵ月ほど前の「オーディオ評論をどう読むか」を公開したあと、
そんなふうに感じています、という声が数人からあった。

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