Archive for 10月, 2019

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その2)

ヨゼフ・ホフマンが語っている。

Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.
完璧な誠実さに完璧な単純さを加えることで、完璧な達成にいたる。

十年前に別項『「音楽性」とは(その5)』でも引用している。

完璧な誠実さ、完璧な単純さ、とある。
この二つに関して考えるだけでも容易ではない。

完璧な誠実さとは、どういうことなのか。
完璧な単純さに関しても同じで、どういうことなのか。

これ以上削る要素がないほどに達していれば、
それは完璧な単純さ(perfect simplicity)ということになるのか。

アンプで考えてみれば、ネルソン・パスが発表しているZen Ampは、
この完璧な単純さを実現しようとしている、と考えることもできる。

それを製品化したのが、First WattのSIT1、SIT2である。
これらのパワーアンプは、完璧な単純さのパワーアンプということになるのか。

そうだ、としよう。
では、ここに完璧な誠実さがあれば、完璧な達成となるのか。

けれどホフマンは、
《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》としている。

完璧な単純さに完璧な誠実さを加えるのでは、完璧な達成とならないのか。

“Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.”を、
Perfect sincerity + perfect simplicity = perfect achievementとすれば、
完璧な誠実さと完璧な単純さを足せば、となる。

日本語訳の《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》にこだわりすぎているのか。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その5)

ジンバルサポートのトーンアームは、
回転軸のところに三本のネジがある。
垂直に一つ、水平に二つある。

まれにだが、この三本のネジをかなりきつく締めている人がいるのを知っている。

アナログプレーヤーの各部にガタツキがあれば、
それはてきめん聴感上のS/N比の劣化につながる。

井上先生も、以前ステレオサウンドで、
アナログプレーヤーのセッティングでの注意点として、
ネジをしっかり締めておくこと、といわれている。

基本的にはそうだが、
井上先生はその上で、締め過ぎてはいけないネジがあることも、きちんといわれていた。

それでも、そこまで読んでいないのか、
ただただネジをしっかり締める人がいるようだ。

ある国産のアナログプレーヤーで、ジンバルサポートのトーンアームがついていた。
そのモデルを、ヤフオク!で手に入れた知人がいる。

うまく鳴らない、という連絡があった。
行ってみると、トーンアームの感度が悪い。
ゼロバランスも取りにくいほどに、感度が悪く、
水平方向に動かしてみても、こんなに重い感触である。

知人がいうには、そのプレーヤーを使っていた人は、
けっこうなキャリアを持つ人のようだ、とのこと。

もちろんヤフオク!だから、実際に会って確かめたわけではなく、
商品の説明文を読んで、そう思っただけらしいのだが、
それにしても、こんな状態のトーンアームで、
その人はアナログディスクを再生できていたのか、と疑問である。

原因は回転軸のところにある三本のネジの締め過ぎだ。
一度ゆるめて締め直す。
締め過ぎにはしない。

たったこれだけのことで、トーンアームの感度はまともになった。
きちんとレコードが鳴るよう(トレースできるよう)になった。

あたりまえのことをしただけだ。

それにしても、と思う。
ほんとうに知人の前に使っていた人はキャリアの長い人だとしたら、
こういう状態を動作品とするのならば、
(その1)の最後で書いたように、これもひとつの老い(劣化)なのかもしれない。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・本音)

メリディアンの輸入元が、
現在のハイレス・ミュージックからオンキヨーへ、12月からかわる。

10月9日のオーディオ関係のウェブサイトのいくつかでニュースになっていたし、
私もここで書いている。

オーディオ関係のサイトでは、コンシューマー機器に関しては未定、というふうになっていた。
けれど、すべてオンキヨーに12月からなってしまう。

輸入ブランドの場合、輸入元が変るのは、昔からよくあることだ。
輸入元が変ったことで、ブランドイメージが変ることもある。
よくなることもあれば、反対のこともある。

往々にして輸入元が頻繁に変るブランドのイメージは、あまりよくない傾向にある。
それでもさまざまな事情があって、輸入元がかわる。

どこになっても、製品そのものが変るわけではない。
メリディアンの製品はメリディアンが製造しているわけで、
オンキヨーになったからといって、製品の質に変化が生じるわけではない。

価格に関しては、なんともいえない。
変らない場合もあるし、変る場合もある。

オンキヨーでの取り扱いが始まって、価格が変るのかどうかは知らない。

輸入元以外、現行製品に関しては何も変らないかもしれない。
それでも心情的に、私は喫茶茶会記には、
オンキヨー扱いの218ではなく、ハイレス・ミュージック扱いの218を入れたかった。

10月2日のaudio wednesdayの後に、店主の福地さんが、
218を導入したい、といってきた。
私は春に218を鳴らした時から、218を入れようよ、と福地さんには何度か言ってきた。

その気になってくれた一週間後に、オンキヨーに移る、というニュースだった。
福地さんの決心は早かったし、固かった。

ハイレス・ミュージック扱いの218を納めることができた。
よかった、うれしい、というのが、私の本音だ。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その12)

外部クロックが話題になりはじめたころだから、
もう十数年以上の前のことになる。

クロックの精度が上るほどに音の透明度が良くなる──、
どのオーディオ雑誌でも、どのオーディオ評論家でも、概ねそのようなことをいっていた。

音の透明度とは、音楽と聴き手のあいだにあるガラスに例えられてもいた。
クロックの精度が上っていくと、ガラスの透明度が増していく。

もうガラスの存在はなくなったかのように感じても、
さらに高精度のクロックを接続すると、
それまで、これ以上はないと思っていた透明度、
つまりガラスの存在を意識させなかった音が、
実はまだまだガラスの透明度は完全ではなかったことが感じとれるようになる。

理想は、もちろんガラスの存在を意識しないのではなく、
ガラスの存在がなくなること、のはずである。

それはスピーカーの存在が完全になくなってしまうこと、
アンプやCDプレーヤーの存在も完全になくなってしまうことを意味するのだとしたら、
私は、そこに一言いいたくなる何かを感じていた。

別項「続・再生音とは……(その29)」で書いていることが、ずっと頭にあるからだ。

瀬川先生が、熊本のオーディオ店で話されたことだ。

美味しいものを食べれば、舌の存在を意識する。
美味しいものを食べて、ほどよく満腹になれば、胃の存在を意識する。

空腹だったり食べ過ぎてしまっても胃の存在は意識するわけだが、
これは、悪い音を意識するのと同じことである。

人間の身体は不具合があっても存在を意識するが、
快感を感じても意識するようになっている。

瀬川先生はさらに、臍下三寸にあるものもそうだと話された。
臍下三寸にあるもの、つまりは性器である。

快感を感じている部位の存在を意識しない、という人がいるだろうか。

ならば、ほんとうに「いい音」とは、おもにスピーカーの存在、
さらにオーディオ全体の存在を意識することではないだろうか。
もちろん悪い音で意識するのとは反対の意味での意識である。

だから存在を感じさせない音は、
健康であるという意味であって、その先がまだあると考えられる──、
ということだった。

そのことがずっとあったからこそ、
ガラスの例えは、瀬川先生のいうところの健康な状態であって、
その先があるはずだ、
なぜ、誰もそこの領域に行こうとしないのか、と思っていた。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・その3)

今日、喫茶茶会記にメリディアンの218をセッティングしてきた。
USBをSPDIFに変換するD/Dコンバーターもセッティングしてある。

218での音が、これからずっと聴けるようになっている。
たったそそれだけのこと、といってしまえば、そうかもしれない。

けれど、MQAの音を多くの人に聴いてもらえる環境が常にあるということは、
素直に嬉しい。

これまでは喫茶茶会記では、audio wednesdayで、
メリディアンのULTRA DAC、218を用意できた時だけだった。
だからこそ嬉しいわけだ。

218に関心のない人にはどうでもいいことだが、
218のシリアルナンバーは、218から始まっている。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: ディスク/ブック

小林秀雄 最後の音楽会

小林秀雄 最後の音楽会」を見つけた。

最近、音楽関係のコーナーに行かなくなっていた。
今日は、歯の治療で東京駅近くにいた。

たまには丸善に行こう、と思い立った。
八重洲ブックセンターは、やっぱり歯の治療で来た時(二週間ほど前)に寄っている。

いつも行く書店とは違い、たまに行く書店は新鮮である。
なので音楽関係のコーナーものぞいていた。

平積みになっていたのが、「小林秀雄 最後の音楽会」だった。
とにかく、この本が最初に目に飛び込んできた。

メニューインの写真が使われている。
扉には、フラームスの交響曲第一番の直筆譜である。

いい感じが伝わってくる本である。

まだ読み終っていない、どころか、
読み始めてもいない。

ぱらぱらとめくってみただけである。
五味康祐という名前が出てくるのかどうかを、まず知りたかったからだ。

出てくる。
ステレオサウンドという名称も出てくるし、
ステレオサウンド 2号の「音楽談義」も出てくる。

著者の杉本圭司氏は、
ステレオサウンド創刊20周年記念に出た「音楽談義」のカセットテープも聴かれていることがわかる。

そうやって眺めているだけでも、いい本だな、と思う。
だから、とにかく少しでも早く知ってほしかったので、
読まずに書いた次第。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: アナログディスク再生

「言葉」にとらわれて(トーンアームのこと・その6)

ウィルソン・ベネッシュのCircleには、
ワンポイントアームがついている。

このトーンアームは、アームパイプがカーボン製で、
エクスポネンシャルカーヴを描いていることなどが、出た当時は話題になっていた。

でも私が注目したいのは、メインウェイトである。
おにぎり型といいたくなるメインウェイトの底辺の両端には、
直径1cmほどの金属棒がカートリッジ側に取り付けられている。

一般的にトーンアームのメインウェイトの形状は円柱である。
その方が使いやすい、調整しやすいからであろう。

おにぎり型のメインウェイトは、ややゼロバランスがとりにくい、といえばそうだし、
針圧を印加する際に動かすのも、ちょっと注意が要るといえば、そうでもある。

慣れればいいだけ、のことでもあるが、
ウィルソン・ベネッシュが、メインウェイトの形状をこのようにしたのは、
その5)で触れたファイナルのKKC48と同じか、それに近い考え方からなのではないのか。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その13)

ソニー・エスプリのAPM6は、モニタースピーカーとして開発された、といっていいだろう。
けれど、APM6をモニタースピーカーとして導入したスタジオはあっただろうか。

CBSソニーのスタジオには導入されたのだろうか。

QUADのESL63は、家庭用スピーカーとして開発された。
にも関らず、当時のフィリップスがモニタースピーカーとして採用し、
それに応じてESL63 Proが登場した。

ESL63 Proは、型番からわかるように、モニタースピーカーとしてESL63の別ヴォージョンだ。

APM6はモニタースピーカーを目指しながら、採用されることはなかった。
ESL63は家庭用でありながら、モニタースピーカーとして採用されていった。

フィリップスの録音エンジニアは、おそらくAPM6の存在は知らなかったのではないか。
知っていたとして、音を聴いていたのだろうか。

もし彼らがAPM6を聴いていたとしても、
結局はESL63がモニタースピーカーとして選ばれたように思う。

その理由は、(その12)の最後に書いている「漂い」の再現なのだろう。

日本ではモニタースピーカー・イコール・定位の優れたスピーカーというイメージが、
アルテックの604シリーズが、広くモニタースピーカーとして使われていたことからもある。

ESL63をモニタースピーカーとして選んだフィッリプスは、
クラシックの録音を行う部門であるから、「漂い」が、その理由のように思うのだ。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: 境界線

境界線(その14)

その13)で、ネットワークの設置位置を、
スピーカー側からアンプ側へと移動したことによる境界線の変化、
つまりどこまでがパワーアンプの領域で、
どこからがスピーカーシステムの領域なのかについて触れた。

(その13)は、2018年5月に書いている。
この時までは、喫茶茶会記のスピーカーのネットワークはコイズミ無線製だった。
つまり一般的な並列型ネットワークを使っていた上での、
設置位置の違いで、境界線(アンプ、スピーカー、それぞれの領域)についてだった。

その後、喫茶茶会記のネットワークは、私が作った直列型に変った。
設置位置は、コイズミ無線製と同じで、アンプのすぐ側である。

ならば境界線に変化はない、と考えられなくもない。
けれど直列型ネットワークは、その名称が示すように、
帯域ごとのスピーカーユニットを直列に接続する。

つまりウーファーとトゥイーターが直列に接続されたかっこうになる。
こうなると境界線は、並列型ネットワークからさらに曖昧になってくる。

(その13)では、
ネットワークを含めて、ネットワークからユニットまでのケーブルまでが、
パワーアンプの領域と考える、とした。

並列型ネットワークであれば、いまもその点に関しては同じである。
けれど直列型ネットワークとなると、どうなるのか。

同じようにユニットまでのケーブルまでがアンプの領域としよう。
すると、トゥイーターとウーファーを直列接続する一本のワイヤーをどう捉えるか。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(若い人こそ)

デッカ・デコラについて書いている。
書けば書くほどに、書きたいことが浮んでくる。

だからこそ、若い人に、できるだけ若いうちに、
できれば10代、無理ならば20代のころに、一度でいいから、
わずかな時間でいいから、デコラの、いい状態の音を聴いてほしい、といいたい。

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」に、
《大木忠嗣さん曰く、「これは長生きできる音だなぁ」》とある。

このことを、今回、じっくりデコラを聴いて実感しているところだ。
そういう音だからこそ、若い時に、わずかな時間ではあったが、
聴いておいて良かった、とおもう。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その13)

ひとつ前の(その12)でも二年以上前、
その1)は六年以上前である。

(その1)の時にはまったく意識していなかったが、
10月13日に、ひさしぶりにデッカ・デコラを聴いて、
ここでのテーマであるオプティマムレンジという発想は、
デコラをずっと以前に聴いている、その経験にあるということに気づいた。

デコラはナロウレンジだ、と別項で書いている。
書いておきながら、実際に聴けば、ほとんどの人が感じることだろうが、
ナロウレンジということをことさら意識することはない。

まったくない、とまではいわないが、
デコラの品位のある音を聴いていると、
ナロウレンジだなんてことは、どこかに消えてしまう。

これは周波数レンジだけではない。
ダイナミックレンジに関しても、
デコラはオプティマムレンジといえる。

完結しているとは、そういうことにつながることなのかもしれない。

Date: 10月 16th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その13)

また別の人は、
デコラの脚を外して、分厚く重いベースを代りにしている。

これで音が良くなった──、そうである。

そういうことをすれば、かなり音は変化する。
買ったモノをどうしようと勝手だろ、
そういう人はいうのだろうか。

こう書いている私も、オーディオ機器に手を加えることがある。
それでも、自分にルールを課している。
そのルールからは決して逸脱しないようにしている。

ルールを自らに課すことなく手を加える行為と、
ルールを課して手を加える行為、
まったく手を加えないという人からすれば、
どちらも同じ穴の狢のはず。

それをわかった上で書いている。
デコラをもし手に入れることができたとして、何をするか。

私はデコラには何もしない。
それは、デコラが完結しているからだ。

デコラは、いわゆる電蓄である。
プレーヤーがあり、チューナーがあり、
コントロールアンプ、パワーアンプがあり、
そしてスピーカーシステムから構成される大型のシステムだ。

デコラが開発されてから、かなりの年月が経っている。
技術は大きく進歩している。

どんな技術であれ、完成するということはまずない。
だからこそ、デコラのようなシステムは特に完結していなければならない。

デコラは完結したシステムである。
そうおもうから、デコラに手を加えることは絶対にしない。

Date: 10月 16th, 2019
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(ブームなのだろうか・その4)

今日は原宿で、
「音の未来・音を知ること、音をつくることについて」というテーマの、
林信行氏と畑中正人氏によるトークイベントが行われた。

定員50名、入場無料ということもあってか、満員だった。
どういう人が、このトークイベントを聞きに来るのだろうか、という興味もあった。

女性が多いのに驚いた。
30代から40代くらいの女性が多かったように思う。

音にまったく関心がない人は来ないイベントのはずだ。

50分という、少々短いかな、と思われるイベントだったが、
いくつか収穫はあったし、音に関心をもつ人が増えてくれることこそ、
世の中がよくなっていくことにつながっていく、という確信が、より強くなった。

オーディオがこれからブームになるのかどうかはわからないし、
ブームにならなくてもいい、と思うところもある。

けれど、音に関心をもつ人が増え、
関心をもたない人よりもはっきりと多くなった時、
オーディオはブームではなく、はっきりと定着するはずだ。

Date: 10月 16th, 2019
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その12)

別項「オーディオマニアと取り扱い説明書」で、
最近のマッキントッシュの取り扱い説明書について書いているところだ。

取り扱い説明書を、購入前にチェックする人はどのくらいいるのか。
私も、これまでいくつものオーディオ機器を購入してきているが、
購入前に、取り扱い説明書を手にとって、
取り扱い説明書の出来がいいとか悪いとか、
気にしたことは一度もない。

取り扱い説明書が必要になる、
そして気になるのは、購入後である。

たいていのオーディオ機器は、取り扱い説明書なしでもかまわない。
それでも最近のマッキントッシュのアンプのように、
一つのツマミに複数の機能を持たせているとなると、
どうしても取り扱い説明書の出来は気になる。

それに購入後は予期せぬトラブルが生じる。
その時にだって、これまでならば、経験則でなんとかなったものの、
上記別項で書いているように、
アンプやCDプレーヤー自体を一度リセットしないと、
トラブルの解消とならない設計だと、取り扱い説明書がないとどうしようもない。

ステレオサウンドに時々載る導入記に、
取り扱い説明書についてふれた記述があるのか。

私が読んだのは207号掲載の、
和田博巳氏の「ファンダメンタルMA10導入記」、
原本薫子氏の「マッキントッシュMCD550導入記」の二本だけである。

そこには取り扱い説明書については、何もなかった。
取り扱い説明書が必要となる状況が生じていない──、
理由はそれだけなのだろうが、
導入記を購入後の視点から書かれたものと受け止めれば、
そこに取り扱い説明書についてなにも書かれていないのは、
オーディオマニアの導入記とレベル的には変らない、ともいえる。

Date: 10月 15th, 2019
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その3)

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる。

味わえば味わうほどに、ということは、くり返しくり返し聴く、ということでしかない。

くり返しくり返し聴くために必要なものは、それこそが美しい音なのかもしれない。

いい音と書こう、とした。
けれど、いい音と書いてしまうと、そうとうに認識が違ってくることがわかっているから、
美しい音とした。

美しい音にしても、単にきれいな音を美しい音と勘違いしている人も少なくないし、
こちらも認識が、人によって大きく異っているのはわかっていても、
それでも美しい音とした。

精度の高い音、精確な音、
そういう音をひたすら目指していく。
そういうことも必要なのはわかっている。

それでも、それだけではどんなにしても到達できない領域があって、
その領域を目指すのか目指さないのか。

表現を変えれば、その領域が視えているのか視えていないのか、である。

そこをどう判断するのか。
結局、聴くしかない。

バッハの平均律クラヴィーア曲集を、
ベートーヴェンの後期のピアノソナタを、
美しくしていくために。

それが、レコード音楽(録音された音楽)を聴く上での、
音楽の理解だと確信している。