つきあいの長い音(その3)
つきあいの長い音を持つ人が得られるのは、安心感だけではない。
つきあいの長い音を持つ人が得られるのは、安心感だけではない。
ずっと以前の話だ。
山水電気は新入社員の研修の一環として工場に行き、ハンダ付けをやらされる。
プリント基板にではなく、魚を焼くときに使う金属製の網をである。
網のワイヤーとワイヤーが交わっている箇所を、すべてハンダ付けしなければならない。
山水電気はオーディオ専業メーカーだから、
新入社員の多くはラジオ、アンプの自作の経験を持つ者も多い。
ハンダ付けにもみな自信を持っている。
すべての箇所がハンダ付けされた網を、
工場勤務の女性が手にとり、作業台の天板の角に網を叩き付ける。
するとハンダがボロボロと落ちていくそうだ。
工場勤務のハンダ付けのベテランの人たちによる網は、当然のことながらひとつも落ちない。
昔はそういう人たちの手によって、オーディオ機器が作られていた。
高価で信頼性の高い部品をどれだけ使おうと、
余裕のある動作をする設計しようと、
ハンダ付けの技術が未熟な手で作られてしまえば、どうなるか。
山水電気の新入社員たちは工場に勤務するわけでhなく、
開発や、営業、広報の仕事につくわけで、網にハンダ付けができてもできなくと、
工場から出来上がってくる製品の出来には直接関係ないわけだが、
だからといって、このハンダ付けの研修が無駄とは思わない。
コンクリートブロックのような例は他にもあるが、ひとつひとつ書いていくつもりはない。
定石はない、ということの例として書いたまでである。
そう書きながらも、まったく定石といえることはないのか、とも考えてしまう。
なにかひとつぐらいはあるのではなかろうか。
いまから40年ほど前にKEFからModel 105というスピーカーシステムが登場した。
30cm口径のウーファー、11cm口径のスコーカー、5cm口径のドーム型トゥイーターの3ウェイ。
このスピーカーシステムは、
ウーファーをおさめた、フロントバッフルが傾斜したメインエンクロージュアの上に、
スコーカーとトゥイーターをおさめたサブエンクロージュアがのるという、階段状の外観をもつ。
中高域のサブエンクロージュアは上下と左右に動かせるようになっている。
垂直は±5度、水平は±20度の稼働範囲をもっている。
トゥイーターとスコーカーの間にインジケーターがあり、
これを目安にして調整しやすいように配慮されている。
実をいうと、この可動範囲が、当時中学生だった私は疑問だった。
垂直(上下)の調整は理解できる。
聴き手が坐る椅子の高さ、それに聴き手の座高などが人によって違うのだから、
最適な位置を調整できるようにするのはわかる。
わからなかったのは、なぜ水平方向にも動かせるようにしているのか、だった。
この調整はスピーカーシステム本体の振りを動かすことで調整できるわけだから、不要なのではないか。
なぜ余分な機構をつけているのか、そんな疑問を持っていた。
この疑問はずっと持ちつづけていた。
「続コンポーネントステレオのすすめ」で、シュアーのV15シリーズについて書かれている。
*
ところでシュアーだ。表看板のV15シリーズは、タイプIVまで改良されて、改良のたびにいろいろと話題を呼ぶ。ひとつ前のタイプIIIは、日本でもかなりの愛好家が持っているし、若いファンのあこがれにもなったベストセラーだ。けれど、私はタイプIIまでのシュアーが好きで、タイプIII以後は敬遠している。まあ参考としては持っているが。
V15の最初のモデルは、いま聴き直してみても素晴らしい。とくにピアノのタッチの、鍵盤の重量感がわかるような芯の強い輝きのある音。ルービンシュタインのステレオ以後の録音にはことによく合う。そう、カートリッジのルービンシュタインと言いたいほど、V15は好きだ。
タイプIIになって、もっとサラッとくせのない音になった。ちょうどオルトフォンがSPUからMCに変った印象に似ている。その意味ではタイプIIでない最初の音のほうが、個性的だが魅力もあった。けれどタイプIIは、トレースの安定性とバランスの良い格調高い音質が、当時はズバ抜けた存在で、最も安心して常用できるカートリッジひとつだった。
タイプII以前のシュアーが、最高の性能と音の品位を追求していたのに対して、タイプIII以後のシュアーの音は、逆に大衆路線に変更された。そこが、私のシュアー離れの大きな原因だ。これは私の想像だが、タイプIIIは、その時点でのコンポーネントステレオ・パーツの、ごく一般的な水準にぴたりとピントを合わせて計画されたにちがいないと思う。実際、たいていのコンポーネントステレオにV15/IIIをとりつけると、とたんに解像力の良い、格段に優れた音を聴かせる。一般評価が高まったのもとうぜんだ。
だがおもしろいことがわかってくる。タイプIIIは、再生装置のグレイドがある水準を越えて上ってくるにつれて、次第に平凡な音に聴こえてくる。再生装置が極めて品位の高い音質に仕上がってくると、もはやタイプIIIの音の品のなさはどうしようもなくなってくる。
*
V15 TypeIII以降はTypeVまでじっくり聴いている。
TypeIIと最初のオリジナルモデルは聴いていない。
瀬川先生の、この文章を読むと、最初のV15を無性に聴いてみたくなる。
「カートリッジのルービンシュタイン」、これだけでそう思えてくる。
そして、これだけでV15の音が想像できる。
V15でルービンシュタインのレコードを鳴らしてみたくなる。
この文章を読んでわかるのは、
シュアーのV15の歴史の中にも境界線があったことがわかる。
つきあいの長い音を持たない人は、持てなかったのか持たなかったのか。
瀬川先生の著書「続コンポーネントステレオのすすめ」の221ページ。
ここにB&OのBeogram 4002が上半分、
EMTの927Dstが下半分をしめている写真だけのページがある。
927Dstは真上からのカット、
Beogram 4002は真上とはいえないまでも、ほぼ同じカットの写真が上下に並んでいる。
どちらもアナログプレーヤーであり、開発年代は927Dstが古いが、
1970年代、どちらも現役のアナログプレーヤーとして市場に流通していた。
EMTは西ドイツ、B&Oはデンマーク。
いかにも927Dstは古いドイツのプレーヤーという雰囲気をもっている。
Beogram 4002はモダンデザインのプレーヤーである。
どちらがアナログプレーヤーのデザインとして優れているかではなく、
927Dstは精密な機械としてのアナログプレーヤーであり、
そのデザインもそれにふさわしいものである。
一方のB&Oは、そこが違う。
もちろんEMTとは違う精密さをもっているけれど、そこには電子制御というテクノロジーがあり、
そのデザインは、電気・電子が加わったからこそのものといえる。
昔から価格的にアンバランスな組合せはやられていた。
小型で安価なスピーカーシステムを、物量投入のセパレートアンプをもってきて鳴らすとか、
そういうことは試聴室という、いわば実験室の中でやってきていた。
それが最近ではアクセサリーにまで、そのことが及んでいる。
たとえば小型で安価なスピーカーシステム。
スタンドが必要になるわけだが、そのスタンドにスピーカー本体の価格の10倍、
ときにももっと高価なスタンドを用意して鳴らす。
それで音が素晴らしく良くなった、と大騒ぎする人がいる。
スタンドだけではない、スピーカーケーブルについても同じことをやる人はいる。
極端なアンバランスをことをやれば、音は大きく変る。
変って当然といえる。
でも、そのこと自体は、人にすすめるようなことだろうか、と思う。
あくまでも試聴室という空間の中でのことであったり、
個人が、その人のリスニングルームで試してみる分には、けっこうなことだ。
気心の知れた仲間たちと、そういう実験をしてみるのは、楽しい。
オーディオマニアは、どこかアンバランスなところを持っているともいえる。
でも、だからといって、このスピーカーの本領を発揮させるためには、
このスタンド、このケーブルが必要ですよ、と言ってしまうのは、もういただけない。
もちろん人それぞれだから、
スピーカー本体よりもずっと高価なスタンド、ケーブルを購入する人もいる。
いるからこそ、そういう商売が成りたっている。
1980年代後半、598のスピーカーシステムに対して、
そんな高価すぎるスタンドがあったら、もっと容易に鳴らせた可能性はあるだろう。
けれど、そんなモノは、どこも出さなかった。
598というスピーカーシステムそのものはどこかアンバランスなところを内包していたけれど、
まだ当時は常識の範囲内でオーディオという商売が行われていた、といえる。
ステレオサウンドの試聴室にはいくつかのスピーカースタンドがあったが、
598のスピーカーシステムのウーファーとスコーカーの中間が、
椅子に坐っている聴き手の耳の高さにくるような、そんな高さのあるスタンドはなかった。
そういうスタンドを使って鳴らすことになる。
その状態でも、井上先生の使いこなしによって、
これが598のスピーカーか、というくらいの音では鳴ってくれる。
でも、その状態であっても、耳の高さをウーファーとスコーカーの中間位置にくるようにすれば、
もっとバランスのいい音で聴ける。
ならば特註でもっと高さのあるスタンドを用意したらいいのか。
よくなるかもしれないし、そうでもないかもしれない。
いうまでもなくスピーカーは置き方によって音は変る。
同じ位置、同じ振りであっても、床からの距離が変れば音は変る。
スタンドが高くなれば、床からとの距離が離れるわけだから当然変る。
それにあの頃の598のスピーカーシステムは、前にも書いたように重量バランスがよくない。
スタンドの幅と奥行きが同じで、高さのみ高くなったとしたら、物の道理として不安定になる。
そこに重量バランスの悪い、しかも重量物がのる。
ただでさえスタンド上のスピーカーの前後位置の変化によるスタンドへの荷重の掛かり方の変化で、
音はかなりシビアに変化するのが、スタンドをそのまま高くすればよりシビアになるであろう。
ならばもっと幅と奥行きを十分にとり安定度の高いスタンドを用意すればいいわけだが、
そういうスタンドは当時はなかったし、もしつくればけっこうな金額となる。
598のスピーカーは大量生産されてこその値段であったが、
そんな頑丈なスタンドをどこかに頼んでつくってもらったとしたら、
スピーカー本体と同じか高く付くことにもなる。
ダイナコの管球式パワーアンプといえば、Stereo 70、Mark IIIがよく知られている。
これらはオーソドックスな真空管アンプのスタイルで、
シャーシの上に、真空管、トランスが配置されている。
Mark VIは120Wの出力をもつモノーラルアンプ。
8417のパラレルプッシュプルである。
Mark VIが他のダイナコのアンプと少しだけ違うのは、フロントパネルを持っていることだ。
三段の感度切り替えのメーターが中央上部にぽつんとついていて、
あとは両サイドのハンドルが目立つ程度のフロントパネルである。
割と素っ気ないつくりは、いかにもダイナコらしいといえばそういえるつくりだ。
同時代のソリッドステートのパワーアンプにもハンドルつきはなかった。
なぜMark Viにだけハンドルをつけたのか、その理由はわからないが、
このハンドルは木を使っている。
Mark VIの重量は25kgとなっているから、
おそらく金属製のハンドルで、表だけ木なのか、木の中に補強として金属が使われているのか、
なにしろMark VIは写真だけで、実物を見たことがないので、そのへんのことは確認できていない。
この木のハンドルが、いいアクセントになっている。
このハンドルがなかったら、Mark VIへの興味はもたなかったかもしれない、
そう思えるほど、このハンドルはいい。
なぜMark VIは金属製のハンドルにしなかったのか。
木を使わない方がコスト的には抑えられたはずた。
ダイナコはキットも販売していたことからもわかるように、
コストパフォーマンスを大事にしていたメーカーである。
そのダイナコがしゃれっ気をみせている。
岩崎先生はHarknessの上に2397ホーンを置かれていた。
ドライバーは2440か375。
この、ドライバーとホーンの組合せを設置してみるとわかるのだが、
2440(375)とホーンとの重量バランスが極端に悪い。
2397の下に、なにかスペーサーをいれなければホーンが前下りになる。
かといって適当なスペーサーをいれてホーンが水平になるようにすると、
2397とHarknessの天板とのスキマが広くなりすぎて、
見た目の印象が、やや不安定にも感じてしまう。
ステレオサウンド 38号の写真を見ているだけでは、
このスキマがそれほどないように感じる。
けれど写真が小さすぎて詳細がわからなかった。
岩崎先生はスペーサーをどうされていたのだろうか。
「コンポーネントステレオの世界 ’76」をぴっぱり出してきて、ナゾがとけた。
101ページに、その写真がある。
2397の下にスペーサーしらきものは見当たらない。
それに2397と天板との間隔も、わずかに狭いように感じる。
おそらく岩崎先生はドライバーを天板の上には設置されていなかったのではないか。
Harknessの後側にドライバーははみ出た恰好になっているはずだ。
つまりホーンとドライバーを支えているのは、
スロートアダプターとホーンの根元の接合部だけとなる。
他の人にとってはどうでもいいことだろうが、私にとっては小さな発見である。
6月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。
「コンポーネントステレオの世界 ’76」にある岩崎先生の「オーディオの醍醐味はスピーカーにあり」。
ここにボザークのことが出てくる。
*
JBLとの結びつきは、こうして単なる思い出以上につながりの深さを感ずるわけですが、そのあとオーディオファンのみなさんの誰もがスピーカーに対して迷うのとまったく同じように、D130以外の他のスピーカーに気をとられたり、あこがれたりしたものです。
たとえば、クラシックのコンサートに行ったときに、そこで聴く音というのはD130とまったくちがう音であり、そうした逆の音もどうしても欲しくなって、それを出せるスピーカーとして、ボザークがあると感じる、そうするとむしょうにボザークが欲しくなってしまう。そんなことを常に繰返しているわけです。
*
同じアメリカのスピーカーメーカーでも、JBLとボザークは西と東である。
同じ国のスピーカーシステムとは思えぬほど、JBLとボザークは違うところをもつ。
JBLは岩崎先生だけでなく、菅野先生、瀬川先生も愛用されていた。
ボザークは井上先生だけだった。
3月に出た井上卓也 著作集の表紙も、だからボザークである。
とはいえ井上先生は、あれだけオーディオ機器を買いこまれていた人。
菅野先生が鳴らされていたJBLの4320は井上先生のところへいっている。
井上先生のオーディオの楽しみ方からすれば、
JBLが、もうひとつのメインスピーカーとして存在していても不思議ではない。
井上先生は低音再生を本格的にやろうとすれば、片チャンネルあたり15インチ口径ならば二本、
12インチ口径なら四本必要と発言されていた。
となるとJBLでは4350ということになる。
井上先生が慣らされていたボザークのB310Bは12インチ口径ウーファー四本であるのだから。
数年前にきいて知ったことがある。
井上先生は、別のリスニングルームには4350を鳴らされていた、ということだ。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
UL接続でもなく五極管接続を、私はKT120を使うのであれば選ぶ。
UL接続を嫌っているわけではなくて、
KT120という球の形からの印象として、なんとなく五極管接続が合いそうな気がする。
その程度の理由である。
五極管接続でポイントとなるのは、スクリーングリッドの給電である。
20年かもっと以前のことになるが、
無線と実験かラジオ技術で、
スクリーングリッドの給電を専用の電源トランスを設けて、という製作記事があった。
五極管の理屈からいっても、スクリーングリッドにかかる電圧は重要といえるから、
スクリーングリッド専用電源トランスという手法は、非常に有効であると考えられる。
これをやると電源トランスが最低でもふたつ必要になる。
でもスクリーングリッドに必要な電流はわずかである。
電源トランスの容量も大きなものは必要ではない。
もちろん整流回路、平滑回路がまた必要になるけれど、この手法は、ぜひ試してみたい。
専用電源トランスを用意しなくとも、
これまでのような安易な方法ではなく、充分な配慮のうえでスクリーングリッドに給電すべきである。
つきあいの長い音を持つ人と持たない人がいる。
新聞広告に載った自分の名前が、彼よりも若い評論家の名前よりも小さかったというだけで、
編集部に怒鳴り込む。
この人のことを正気の沙汰ではない、とか、バカな人だ、とか、
そんなふうにいうのは簡単である。
この人を擁護する気はないが、私は別の人のことを思い出している。
今度はオーディオ評論家と呼ばれている人のことだ。
その人は編集部に怒鳴り込んだりはしない。
そういう人ではない。
けれど彼は、オーディオメーカー、輸入元からの食事に呼ばれた際、
帰り際に、メーカー、輸入元がいくら払ったのかを領収書を見せてくれ、といって確認する。
ある金額よりも高ければ、満足そうにうむっ、と頷き、
そうでないときは、不満げな表情をする──、
そんな話を聞いている。誰なのかも知っているけど、名前は書かない。
その人のことを批判したいわけではないからだ。
音楽評論家は新聞広告での、自分の名前の大きさ、
オーディオ評論家は、いわば接待の金額の多寡を気にする。
なんと小さな人間なんだろう……、
そう思う人もいるだろうが、評論家という、いわば自由業で虚業ともいえる仕事をしていると、
自分の立場と評価に対して敏感であることは、仕事をしていく上で必要なことのはず。
菅野先生がステレオサウンドにほとんど書かれなくなってから、
ステレオサウンドに何かを書いている人の誰かを、先生と呼ぶことはない。
今後、先生と呼びたくなる人がステレオサウンドに書いてくれるのだろうか、とも思ったりする。
けれど実際には、ほとんどの筆者が、オーディオ業界では先生と呼ばれている。
オーディオショウやフェアに行けば、
メーカー、輸入元のスタッフが、オーディオ評論家と呼ばれている人たちを、先生と呼んでいるのがわかる。
ずっと以前から、オーディオ評論家と呼ばれている人たち、という書き方をしている。
オーディオ評論家と呼びたくないからだ。
業界の人たちだけではなく、
販売店の人たちも先生と呼んでいようである。
そして読者にも、先生と呼ぶ人がいる。
人が誰かを、さん付けで呼ぼうと先生と呼ぼうと自由である。
他人の私が口出しすることではない。
それはわかったうえで、あの人も先生と呼んで、この人も先生なの? と思ってしまうこともある。
誰かを先生と呼べば、別の人も先生と呼ばなければならないような気がしてのことだろう。
そうした方が角が立たないのもわかっている。
そういえば、と思い出した話がある。
オーディオ評論家ではなく音楽評論家のことだ。
ある大手新聞に、音楽雑誌の広告が載った。
特集記事の紹介があり筆者名があり、連載記事のタイトルと筆者名などが載っている。
そこで編集部に怒鳴り込んできた大御所の評論家がいた。
自分の名前が、若手評論家よりも小さかったのが、その理由だった。
なにも大御所評論家をないがしろにしたからそうなったのではなく、
若手評論家は特集記事、大御所評論家は連載記事であったら、そうなったまでである。
にも関わらず怒りだす人がいる。