オーディオの罠(その1)
約7700本ほど書いているなかで、
「オーディオの罠」と書いたのは三本。
2009年12月、2010年3月、2011年8月に書いている。
ここに来て、結局、オーディオの罠は存在しない、と思うように変った。
オーディオの罠と思ってしまうだけで、
それは自分自身の未熟さゆえに、そう思ってしまうだけであろう,と。
また数年したら、やっぱりオーディオの罠はある、と言い出すかもしれない。
約7700本ほど書いているなかで、
「オーディオの罠」と書いたのは三本。
2009年12月、2010年3月、2011年8月に書いている。
ここに来て、結局、オーディオの罠は存在しない、と思うように変った。
オーディオの罠と思ってしまうだけで、
それは自分自身の未熟さゆえに、そう思ってしまうだけであろう,と。
また数年したら、やっぱりオーディオの罠はある、と言い出すかもしれない。
鳴り出した「THE DIALOGUE」の音に驚いた。
こんなに変化するのか、とやった本人が驚くほどの違いにも関らず、
聴いていると「今日の私のようだ」とも感じていた。
疲労感があって、どこかしゃっきりしない感じにも似た、
この日の私の体調にも通じるような感じがどこかにあって、
納得がいかない、とも感じていた。
10月4日のaudio wednesdayでは、実はドライバーが左右で違っていた。
これまでは806Aだったが、二週間ほどに前にある客が鳴らした際に、
左側のドライバーから異音が発生して、それ以来まともな音が出なくなった、ということで、
左チャンネルは予備(以前鳴らしていた807A)に交換されていた。
この807Aも、別の客が片方を床に落としてしまったせいで806Aになっていたのだが、
806Aも客に壊されてしまった、というわけだ。
話はそれるが、それにしても……、と思う。
今回のドライバーの破損は、ジャズマニアがけっこうな音量を出して、のものだった。
いったいどれだけの音量なのか、と思う。
「THE DIALOGUE」で私が鳴らしている音量もかなりのものだが、
ドライバーを壊すような鳴らし方はしない。
ジャズマニアの、ごく一部なのだろうが、
大音量再生でスピーカーを壊すことを、誇りと思っているフシがあるのではないか。
オーディオマニアとの話で、朝沼予史宏氏がステレオサウンドの取材で、
ダイヤトーンのスピーカーのトゥイーターを破損した話題が出たことが、数回ある。
たいてい、この話をしてくる人は、
朝沼予史宏氏、すごいですね、だったり、
ダイヤトーンのスピーカーって、そんなにヤワなんですか、だったりする。
前者の方が多いけれど、それにしても……、と思うわけだ。
朝沼予史宏氏は、オーディオ評論家であった。
いわばオーディオのプロフェッショナルだ。
プロフェッショナルとは、その定義はいろいろいあるが、
そのひとつには、力量を見極めることが挙げられる。
自分自身の力量、相手の力量を正確に見極める。
それはときによって冷酷に見極めることであり、
オーディオ評論家であれば、この場合、スピーカーの力量を見極めることが求められる。
昨晩(10月4日)はaudio wednesdayだった。
喫茶茶会記に向う電車の中、寝過ごしてしまいたい誘惑があった。
空腹だったし、疲労感もあった。
喫茶茶会記に着いたのは18時ごろだった。
それから準備にかかる。
スピーカーの位置を動かし、セッティングを大きく変える。
アンプ、CDプレーヤーのセッティングも同様に変えていく。
しかも今回は前回のテーマであった「結線というテーマ」の続きという面もあり、
外付けのネットワークの配線をさらに変更した。
それからアッテネーターの巻線の可変抵抗を、
無誘導巻線抵抗によるアッテネーターに交換する作業もあって、
音が出はじめたのは19時をけっこう回っていた。
それからCDプレーヤー、アンプの電源を入れて音を出す。
ウォーミングアップをかねて少しの間CDを鳴らしていた。
まだまだ足りないけれど、30分ほどして、いつものとおり「THE DIALOGUE」をかける。
マッキントッシュの電子ボリュウムは、前回と同じ70%にする。
どれだけ音が変化しているのか、それを確認する前に、とにかく驚いた。
聴感上のS/N比をよくしていくと、ローレベルの再現性がよくなるため、
聴感上の音量感は大きく感じられるものだ。
といっても、それほど大きく感じられるものではない。
昨晩の出だしの「THE DIALOGUE」の音量は、
思わず電子ボリュウムの表示を確認してしまうほど、明らかに大きく感じられた。
固定抵抗によるアッテネートだから、最初に減衰量を決めておかなければならない。
できるならば、1dB刻みでいくつもの抵抗パッドを用意して聴いて決めていきたいが、
今回は一発勝負で減衰量を決めて抵抗を用意していた。
ちなみにこれまでの可変抵抗による減衰量よりも3dB近く落としている。
つまり単純に考えれば、800Hz以上のレベルは前回よりも3dB近く低いはずだ。
にも関らず、実際に感じられた音量は3dB以上大きく、だった。
11月1日のaudio wednesdayは喫茶茶会記のLルームもSルームも空いていないので、
会場をかえて行います。
つまり飲み会です。
11月のaudio wednesdayは、喫茶茶会記では行いません。
12月6日のaudio wednesdayは、喫茶茶会記での音出しを予定しています。
一度もaudio wednesdayに来られなかった方が飲み会に参加されることはまずないと思ってますが、
飲み会ならば、という方が、おられないとは言い切れないので、告知しておきます。
参加されたい方は私までメールをお送りください。
フツーにいい音が、「毒にも薬にもならない音」だとしたら、
「毒にも薬にもならない文章」は、フツーにいい文章なのかもしれない。
スピーカーを買い換え、謝罪した知人は、
文章のテクニックの向上には、つねに積極的で熱心だった。
けれど、そうしたところで知人は「毒にも薬にもならない文章」を自ら選択した──、
25年目でちょうど切れてしまった縁だが、
知人をみてきた私は、そう思っている。
フツーにいい音もフツーにいい文章も、無害を求めているのだろうか。
無害な文章であれば、
謝罪する(でも、それが間違っている、と思うのだが……)ようなことにはならない。
無害な文章といえば、
別項『「商品」としてのオーディオ評論・考』で書こうとしていることも結局はそうなのかもしれない。
川崎先生の9月30日のブログ「間も無くだろうか、中秋の名月を看るだろう」、
そういえばと思い出したのは、フランコ・セルブリンのことだった。
CDジャーナル別冊「オーディオ名機読本」(1996年発行)に、それは載っていた。
傅信幸氏が書かれている。
*
この時の訪問ではもうひとつのエピソードがある。ソナスファベール製品にはスピーカーだけではなく、日本には当時も今も輸入されてはいないが、アンプがある。インテグレーテッドアンプ(プリメインアンプ)とセパレートアンプとがある。そのボディはイタリアンウォルナットとアルミニュームとのコンビネーションで、これまたとても美しく仕上げられていた。そうしたアンプの試作機を見せてもらって時だ。完成するのはいつだと問うと、答えは3ヵ月先という言い方ではなく、「そうだね、あと、満月が3回来る頃かなあ」と言うのである。太陽暦と太陰暦との違いといえばそれまでだが、この「満月が3回」には、わたしにはカルチャーショックだった。
*
明日(10月4日)は中秋の名月。
audio wednesdayの日でもある。
ストコフスキーの録音も、ライナーの録音も、
年代からいえば真空管の器材での録音である。
ヤマハのプレゼンテーションでは、最新の録音もあった。
ハイビット、ハイサンプリングの録音は、
ストコフスキー、ライナーの録音と比較すまるでもなく、
ほぼノーノイズといえるレベルであり、
ストコフスキー、ライナーの録音には、当時の器材の発するノイズも含まれてのものである。
にもかかわらずストコフスキー、ライナーの音の見事なこと。
結局は、ノイズがあるおかげだ、と私は判断する。
NS5000の試作機から最終モデルにいたる過程は、深くは知りようがない。
聴いて分るのは、聴感上のS/N比が向上していることであり、
その聴感上のS/N比の向上のためにヤマハがしたことは、
少なくとも私は裏目に出ているように感じる。
S/N比をよくするということは、信号のレベルを高くするか、
ノイズのレベルを低くするか、もしくはその両方である。
ここではノイズのレベルをできるだけ抑えようという手法だったのだろう。
確かに、ある意味成功しているとはいえる。
けれど音を聴くと、ノイズを抑えたことによって、試作機にあった良さも抑え込まれた。
試作機の音がいまも耳に残っている私には、そう聴こえる。
ノイズも音のうちである。
井上先生が以前からいわれてきたことである。
まったくそのとおりであって、ノイズの扱いは難しいともいえる。
今回NS5000の、ストコフスキー、ライナーのディスクでの音は素晴らしさは、
試作機から最終モデルの過程で失われてしまったなにかを、
録音のノイズがうまく補ってくれた結果ではないのか。
今年(2017年)のインターナショナルオーディオショウでも、
ヤマハのNS5000を聴いてきた。
2015年のインターナショナルオーディオショウでの試作機の音に驚き、
2016年のインターナショナルオーディオショウでの音に期待していた。
けれど、私の勝手な期待は裏切られた。
2016年のショウ雑感にも書いたように、
優秀なスピーカーがひとつ増えただけ、というふうにしか感じなかった。
2015年の試作機に感じた「欲しい」という気持はきれいに消えてしまった。
それにも関らず、2017年の今年もまた聴いたのは、
たまたまヤマハのブースを前を通りかかったら、17時30分からのプレゼンテーションが始まる直前だった。
ブースに入ったら、最前列には誰も坐っていなかった。
最前列の中央の席が空いているにも関らず、誰もいない。
なので、そこに坐って聴いてきた。
45分間のプレゼンテーションは、いつものとおり製品説明はない。
ソツの無い進行で、さまざまなディスクがかけられていく。
他の出展社も手本にしてほしい、と毎回思う。
一曲目は日本人の女性ヴォーカルだった。
2016年のインターナショナルオーディオショウで感じたことにかわりはなかった。
それでも席をたたずに最後まで聴いたのは、
アンプの横に置かれてあった試作機のアナログプレーヤーの音を聴きたかったからである。
CD、LP、SACD、アンプとCDプレーヤーも途中からアキュフェーズにしての音出し。
45分間のプレゼンテーションを最後まで聴いて確信したのは、
試作機よりも聴感上のS/N比は向上している、ということと、
そのことによって失われたものがはっきりある、ということだった。
インターナショナルオーディオショウでのブースでの試聴、
しかも一年前の音、二年前の音との比較で、そんなにはっきりといえるのか、
そんな疑問をもたれるだろうが、
ヤマハが鳴らしたディスクのなかには、古い録音のクラシックが二枚あった。
ストコフスキーとライナーで、どちらもRCAビクター交響楽団を振ってのものだから、
50年ほど前の録音である。
この二枚のディスクの鳴り方は、
2015年の音を思い出させてくれる鳴り方だった。
三年前だったと記憶している、
ヤマト運輸の家財便で、オーディオ機器が取り扱われなくなった。
なんでも、あるオーディオ店が非常に高価なスピーカーの発送に家財便を利用。
高価なスピーカーなので、ヤマト運輸側がことわったそうだが、
オーディオ店がごり押しで依頼。
結局、こわれていて、オーディオ店はヤマト運輸に損害賠償請求。
具体的な金額も聞いているが、驚く金額である。
どうも最初からこわれていたスピーカーの発送を依頼して、
損害賠償を騙しとる、ほんとうにひどい話である。
昨日(9月29日)、
インターナショナルオーディオショウの会場を歩いていたら、
この話をしている人たちがいた。
どの業界にも、こういう輩はいるんだと思うが、
特にオーディオ業界は多い、とも聞いている。
昔、ある会社が輸入しているスピーカースタンドを購入したら、
カタログに記載されている重量よりも重かった、
たったこれだけの理由で裁判を起こした人がいる。
この時は、
裁判長が「オーディオの世界では重量は重い方がいい、といわれているんでしょう」ということで、
相手にされなかった、とも聞いている。
とにかく難癖をつけて……、という輩がいるわけだ。
こんなことを書いているのは、
ヤマト運輸の家財便のクレーマーの話を聞いたからではなく、
会場に立っている警備員に、高圧的な態度で一方的な文句を言っている人がいた。
違うフロアーで、二人いた。
年齢は60前後か、一人は、あるブース(おそらくテクニクスだと思う)がわからなくて、
警備員に穢い口調で、脅し文句を言っていた。
その警備員は無線で問合せをしていて、
その態度に問題があると思えなかった。
別のフロアーでは、警備員に説教するようなことをねちねちといっている人がいた。
警備員の二人に同情したくなる。
彼らは案内係ではないはずだ。
彼らは、オーディオマニアって、こんな人たちなんだ、と思ったかもしれない。
仕事が終った後、互いに、こんな人がいた、と話していたかもしれない。
コンビニエンスストアで、店員に横柄な態度をとるのは、
スーツ姿の中高年だ、という話もある。
昨日のショウでの二人の輩もそうだった。
昨日の入場者が何人だったのかは知らないし、
その中のたった二人だろう、という見方もできるが、
いままで、こんな輩は見かけたことがなかった。
ハイエンドのブースで鳴っているスピーカーといえば、
プラズマ(イオン)トゥイーターを搭載したランシェオーディオである。
ブースに入って時も、ランシェオーディオのスピーカーが鳴っている、と思ってしまった。
そして、いままでのランシェオーディオとは少し違って、いい感じだな、と思って聴いていたら、
完全に私の勘違いで、鳴っていたのは隣に置いてあった小型スピーカーだった。
ドイツのKii AudioのKii THREEというアクティヴ型スピーカーが鳴っていた。
少し驚いていたら、Kii Aiduoの人による解説がはじまった。
小型2ウェイのように一見思えるが、
6ウェイということだった。
フロントバッフルにメインといえるウーファーとトゥイーターがあり、
両サイドにウーファーが一発ずつ、リアバッフルにウーファーが二発あり、
それぞれのユニットに専用アンプをもち、DSPによる信号処理を行っている、とのこと。
つまりウーファーユニットは計五発ついているわけだが、
いわゆるダブルウーファー的発想の延長でのウーファーの数ではなく、
ウーファーの指向特性をコントロールするためのユニットの数であり、
DSPによる信号処理であり、200Hz以下の周波数では単一指向性を実現している、という。
それによるメリットは、部屋の影響を受けない、ということだった。
そして見た目はこんなに小型であっても、2m×2mの大きさのスピーカーに匹敵する、とも話していた。
Kii Audioの人が話していたは英語であり、ハイエンドのスタッフの人による翻訳だった。
私の勝手な解釈なのだが、この2m×2mというのは、平面バッフルのサイズのことではないか、と思っている。
Kii THREEの搭載されている技術が具体的にはどういうものなのか、詳細はわからないが、
平面バッフルのコンパクト化のヒントが、ここにある、そう確信できた日だった。
20代のはじめのころ、
シーメンスのコアキシャルユニットを1.9m×1mの平面バッフルに取り付け、
5.5畳ほどのスペースに押し込んで聴いていた。
そのころから2m×2mの平面バッフルは、憧れであり、目標であった。
いやもう少し前から、そうだった。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESのフルレンジユニットの号で、
2m×2mの平面バッフルでの試聴記事を読んでからだった。
2m×2mの平面バッフルを、ステレオだから二枚というのは、
私のいまの住環境では到底無理である。
昔もそうだった。
だから2m×2mの平面バッフルを、いかにコンパクトにするかを考えてきた。
ただ小型にするだけでは、低音再生能力を考えると、ほとんど意味がない。
2m×2mのサイズと同じだけの能力を維持したまま、
いかに小さくできるか、という意味でのコンパクト化である。
平面バッフルの働きを少し違う視点から捉えれば、
スピーカーユニットの指向特性を単一指向性にするというふうにも考えられる。
そうスピーカーユニットの背面からの音を、なんらかの方法で打ち消せば、
平面バッフルのコンパクトは可能である。
ここまでは考えていた。
けれど実際にどうやって、背面の音だけを打ち消すのかは考えつかなかった。
今日からインターナショナルオーディオショウである。
夕方二時間ちょっとだけ会場にいた。
できるだけ多くのブースを、と思って駆け足でまわっていたら、
あるブースで足が止ってしまった。
ハイエンドのブースだった。
知人がスピーカーを買い換え、
そのことを自身のウェブサイトに書いたところ、
ある掲示板で叩かれたことを、別項で書いている。
私が読んでも、友人が読んでも、
知人が書いた文章は、誰かを不愉快にさせるようなものとは思えなかった。
けれど、ある掲示板では、不愉快だ、
そういう自慢話は、そのスピーカーを欲しくとも買えない人を傷つける、
無神経な行為だ、
そんなことが、掲示板の常連たちによって、ずらずらと書かれていた。
友人も私も、そんなことをいわれようと気にしないい。
知人の文章を偉ぶったように(上から目線と)思うのは、
そう思う方が弱くイジケているのだろうと、一笑に付すだけだ。
けれど知人は、その掲示板に謝罪を書き込んだ。
友人にも私にも理解できない行為だった。
なぜ、知人は謝罪したのか。
彼は、知らない人とはいえ、不愉快にしたのだから、と言った。
つまり知人は謝罪の時点で、
「毒にも薬にもならない文章」を書くことを、意識してなのか、無意識なのかはわからないが、
その道を選択したわけだ。
「フツーにいい音」。
私の周りには、こんな表現を使うオーディオ仲間はいないが、
私の知らないところでは、意外にも使われているのかもしれない。
「フツーにいい音」とは、
菅野先生がいわれた「いい音だけど、毒にも薬にもならない音」だと思う。
菅野先生が、そう表現されたことは(その5)に書いている。
「毒にも薬にもならない音」。
なにも、その録音エンジニアの録音だけにいえることではない。
いま優秀な、といわれるオーディオ機器が聴かせる音も、
「毒にも薬にもならない音」になりつつある、
「毒にも薬にもならない音」が増えつつある、そんな気もしている。
だから「毒にも薬にもならない音」という菅野先生の言葉が、
あの時からずっと心にひっかかり続けている。
「毒にも薬にもなる音」。
それはラッパと呼ばれていたころの大型スピーカーが聴かせる音ともいえる。
それだけにうまく鳴らすのが難しい、ともいわれたし、
スピーカーと格闘する、という表現が生れてきたのも、
そういう音のスピーカーだから、ともいえる。
そういう音(スピーカー)に辟易してきた人もいる、と思う。
「毒にも薬にもならない音」は、
「毒にも薬にもある音」のアンチテーゼでもあったとも考えることはできる。
古くからの友人でありオーディオ仲間のKさんから、
SNSでのメッセージが来た。
そこには、いま聴いているスピーカーのことが書いてあった。
短いけれど、彼が昂奮しているのが伝わってくるものだった。
どのスピーカーなのかは、いまは書かない。
私はまだ聴いていないスピーカーのことだから。
Kさんのメッセージのなかに、テクスチュアという単語があった。
そうだろうな、やっぱりな、と思いつつ、
Kさんが昂奮しているのは、私が春に「GHOST IN THE SHELL」を、
IMAXで観ての昂奮と、実のところ同じなのかもしれない、とも考えていた。
Kさんは、それを耳で聴き、私は目で観た。
ふたりとも、(おそらく)同じ昂奮を味わった(のだろう)。
間違っている音を出していた男は、はっきりとナルシシストである。
本人にその自覚があるように感じるときもあれば、
そうでないように感じるときもあったから、
本人が自覚していたのかどうかははっきりしないが、
少なくとも私だけでなく、間違っている音を出していた男とつきあいのあった人の多くが、
ナルシシストだといっているから、
私だけのひとりよがりではないのだろう。
別にナルシシストであってもいい。
けれど、それがことオーディオ、音に関係してくると、
どうしても何か言いたくなるのが、私の性格だ。
間違っている音を出していた男は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と私を誘った。
七年前のことだ。
(その6)でも書いているように、
彼は瀬川先生に会ったことはない。
あったことがないのだから、瀬川先生の音を聴いてもいない。
にも関らずナルシシストの彼は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と恥ずかしげもなくいう。
そのとき、たいしたナルシシストだ、と思っていた。
もちろん彼の音が、瀬川先生の音を彷彿とさせるなんて、
まったく期待していなかった。
それでも、彼なりの、ナルシシストとしての美意識が反映された音であるならば、
聴いてみたいという好奇心はあった。
けれど、そこで鳴っていたのは、
残念なことに美的ナルシシズムではなく、醜的ナルシシズムとしかいいようのない音だった。
美少年も歳をとる。
皺が増え、皮膚も弛んでくる、
体形も変ってくる、腰まわりには脂肪がついてくるし、
髪の毛だって白髪になったり、抜け毛も増えてこよう。
ナルキッソスはそうなっても、己の姿を水に映してうっとりするのだろうか。
もっともナルキッソスは、その前に死んでいるのだが。
だが現実のナルシシストは、みな老いていく。