アンチテーゼとしての「音」(その8)
知人がスピーカーを買い換え、
そのことを自身のウェブサイトに書いたところ、
ある掲示板で叩かれたことを、別項で書いている。
私が読んでも、友人が読んでも、
知人が書いた文章は、誰かを不愉快にさせるようなものとは思えなかった。
けれど、ある掲示板では、不愉快だ、
そういう自慢話は、そのスピーカーを欲しくとも買えない人を傷つける、
無神経な行為だ、
そんなことが、掲示板の常連たちによって、ずらずらと書かれていた。
友人も私も、そんなことをいわれようと気にしないい。
知人の文章を偉ぶったように(上から目線と)思うのは、
そう思う方が弱くイジケているのだろうと、一笑に付すだけだ。
けれど知人は、その掲示板に謝罪を書き込んだ。
友人にも私にも理解できない行為だった。
なぜ、知人は謝罪したのか。
彼は、知らない人とはいえ、不愉快にしたのだから、と言った。
つまり知人は謝罪の時点で、
「毒にも薬にもならない文章」を書くことを、意識してなのか、無意識なのかはわからないが、
その道を選択したわけだ。