Date: 9月 28th, 2017
Cate: アンチテーゼ
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アンチテーゼとしての「音」(その8)

知人がスピーカーを買い換え、
そのことを自身のウェブサイトに書いたところ、
ある掲示板で叩かれたことを、別項で書いている。

私が読んでも、友人が読んでも、
知人が書いた文章は、誰かを不愉快にさせるようなものとは思えなかった。

けれど、ある掲示板では、不愉快だ、
そういう自慢話は、そのスピーカーを欲しくとも買えない人を傷つける、
無神経な行為だ、
そんなことが、掲示板の常連たちによって、ずらずらと書かれていた。

友人も私も、そんなことをいわれようと気にしないい。

知人の文章を偉ぶったように(上から目線と)思うのは、
そう思う方が弱くイジケているのだろうと、一笑に付すだけだ。
けれど知人は、その掲示板に謝罪を書き込んだ。

友人にも私にも理解できない行為だった。
なぜ、知人は謝罪したのか。

彼は、知らない人とはいえ、不愉快にしたのだから、と言った。
つまり知人は謝罪の時点で、
「毒にも薬にもならない文章」を書くことを、意識してなのか、無意識なのかはわからないが、
その道を選択したわけだ。

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