Archive for category テーマ

Date: 9月 28th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その6)

(その5)へのfacebookでのコメントがあった。
audio wednesdayの常連Hさんからだった。

哲学者セオドア・グレイシックの「音楽の哲学入門」には、
鳥の鳴き声は音楽か? に対して、
グレイシックは、文化の背景を持たない鳥の鳴き声は音楽ではない、
と答えている、と書いてあった。

「音楽の哲学入門」は読んでいないが、
文化の背景を持たない鳥の鳴き声が音楽ではないとすれば、
放尿の音も、とうぜんそうなる。

ではヨッフムのレクィエムの冒頭の鐘の音は、
教会の鐘であるし、演奏の始まりをつげているのだから、
文化の背景をもっている──、そういえることになる。

グレイシックが間違っている、とはいわないが、
私がここで書いているのは、放尿の音にしても、鐘の音にしても、
録音された音である、ということが前提である。

しかも録音された放尿の音にしても、鐘の音にしても、
オーディオというシステムを介して鳴らすわけである。

窓の外から聞こえてくる鳥の鳴き声は、
グレイシックのいうように音楽ではないとしても、
一度録音され、再生された鳥の鳴き声は、文化の背景を持たないから、といえるのか、である。

録音というプロセスとシステム、再生というプロセスとシステムに、
文化の背景がまったくないと捉える、いや違う、というのか。
それによって音楽とはいえない、音楽といえるというふうになっていくのか。

Date: 9月 27th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その5)

極端なことをいえば、
その1)で書いている放尿の音と、
ヨッフムのレクィエムでの始まりをつげる鐘とは、
いったいどれだけ違う、というのだろうか。

音楽とは関係のない音ということでは、同じではないのか。
こんなバカなことも考えている。

放尿の音と鐘の音の、どこが同じなのか。
そういわれそうだが、ヨッフムのレクィエムでは鐘の音だったが、
これが、教会ではなくコンサートホールで行われた演奏であるならば、
始まりをつげるのは鐘ではなく、ブザーの音であろう。

ヨッフムのレクィエムで、冒頭に、ブザーの音が入っていたら──、
どう感じるだろうか。
ブザーの音と放尿の音とでは、どれだけ違うのか。

こんな屁理屈みたいなことを考えてしまう。
屁理屈は、どんなに言葉を連ねたところで、しょせんは屁理屈でしかない。
それはわかっていても、音楽性という、ひじょうに曖昧なことについて考えるには、
こんな屁理屈、捻くれたものの見方も必要になってくるのかもしれない──、
と屁理屈の屋上屋を重ねる的なことを試みる。

放尿の音を録音した本人は、
数年後には忘れてしまっている。

聴きに来い、としつこく誘われた五味先生は、
そのことをしっかりと憶えているのに──、である。

だから、ここを読まれている人のなかには、
そんなことどうでもいいよ、という人の方が多いだろうなぁ、と思いつつも、
そんなどうでもいいことこそ音楽性という曖昧なことばを理解するうえで、
意外にも重要になってくるのではないか、とすら思っている。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 電源

LiB-AID E500 for Musicという電源

ホンダのLiB-AID E500 for Musicという、
いわゆる蓄電器がコンセプトモデルとして発表された。

オーディオ関係のサイトでも、それにSNSでも取り上げている人がけっこういる。
私も、LiB-AID E500 for Musicは試してみたい。

この種の製品は以前からあった。
安いモノだと出力が正弦波ではなかったりするが、
二万円ほどの価格のモノだと正弦波出力になっている。

消費電力の小さなオーディオ機器であれば、
この種の蓄電器でも十分使用できるだけの容量を備えている製品も少なくない。

SNSでも、既発売の同種の製品を導入している人を見かける。
なかなかいい結果になっているようだ。

amazonで検索してみると、意外にも製品数は多い。
どれを試してみようか、と迷っているうちに時間だけが経っていく。

迷っていても仕方ないから、そろそろ、どれか一つに決めて……、と思い始めていた。
なので、LiB-AID E500 for Musicの発表は、タイミング的に文句なしだ。

個人的には、AC出力は100Vだけでなく、200V出力が欲しい。
たとえばメリディアンの218はスイッチング電源を採用している。

そのおかげで100Vから240Vまで、仕様変更なく対応できるわけだが、
理屈からいっても、100Vよりも電圧は高い方が有利でる。

200V出力がついていればなぁ、と思うけれど、
一般的な使用状況を考えれば、100Vだけのほうが安心といえば、そういえる。

いくつか注文をつけたいところはあるけれど、期待している製品である。

ACと違い、DCは電圧が高くなり、電流も多ければ、
電源スイッチにひじょうに苦労するようになるから、実用化はけっこう大変だろうが、
オーディオ機器も、消費電力の小さなモノは、
AC入力だけでなくDC入力の規格化の検討も始まってよさそうなのに……、と思う。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その13)

一通のメールが、日付が変ったころに届いていた。
私より一世代若い方(Fさん)からのメールだった。

Fさんのメールには《取り留めもない話ばかり》とあった。
それでも、Fさんは、いまのオーディオの在り方に何かを感じていて、
そのもやもやとした気持が、メールになって届いたような感じを受けた。

Fさんと同じような気持のオーディオマニアの方は、少なからずおられると思っている。

Fさんのメールの最後には、
《楽がすべてなのかと悶々としています》とある。

メールにもあったが、
自動車は自動運転を目指している。

自動運転に向っているのは、私はけっこうなことだと考えている。
クルマの運転を趣味としない人にとっては楽で、
さらに、どこまでなのかははっきりとはいえないが安全も確保されるであろう。

悲惨な交通事故は大きく減ってくれるはずだ、と期待している。

クルマの運転を趣味としている人にとっては、自動運転はどうだろうか。
余計なことをしやがって、と捉える人もいよう。

でも、自動運転が支配的ではなく補助的に働くことで、
自動運転の機能なしでは避けられない事故を防ぐことは可能になるはずだし、
事故を避けられなかったとしても、被害をできるだけ小さくできる可能性もある。

なかには、そういう人もいるのかもしれないが、
クルマの運転の楽しみは、スリルを味わうことではない。

クルマの運転の楽しみ、趣味性を高めることのできる自動運転の補助的利用方法は、
十分考えられることのはずだし、
自動運転機能の利用の仕方は、二つに分れていくように思っている。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 「うつ・」

偏在と遍在(その2)

録音されたプログラムソースを再生するのをオーディオ機器とすれば、
四十年前のウォークマンの登場以前、さらにはオーディオブーム以前、
日本の各家庭にどれだけオーディオ機器(当時はステレオの方が一般的だった)があったのか。

それは遍在とはいえなかった。
テレビにしてもそうだった時代がある。

テレビが各家庭に一台、
ほぼ必ずあるといえるようになったのは、私が幼かったころより少し前ぐらいか。
それがいつのころからか、各家庭に一台から各個人に一台、という時代になった。

ステレオの普及はテレビよりも遅かった。
各家庭に一台、といえるような時代が来る前に、
ウォークマンが登場したのではないだろうか。

東京や大阪などの大都市ではどうだったか知らないが、
ウォークマンが登場したころ、
私がまだ高校生だったころ、ステレオがない家庭は別に珍しくなかったし、
ある家庭の方が少なかった。

大都市ではそこそこステレオが普及していたのであれば、偏在といえよう。
ウォークマンは、まだそういう段階だった時代に登場した。

いまは、というと、一人一台、スマートフォンを持っている。
一台という人が多いのだろうが、電車に乗っていると、
複数台のスマートフォンをいじっている人を見かけることは、そんなに珍しいことではない。

いまでは、そのスマートフォンが、広義ではオーディオ機器となる。
その1)で、スマートフォンで撮った写真を、
すぐさま公開できるようになった、ということは、
偏在から遍在への、大きな変化だ、とした。

カメラとしてのスマートフォンは、確かにそうだ。
それではオーディオ機器としてのスマートフォンの場合は、どうだろうか。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その4)

今日、といっても、すでに日付が変っているが、
野上さんの写真展、「DISCOVER AMERICA; Summer Of 1965」に行ってきた。
今週末(28日)まで、新井薬師駅近くのスタジオ35分でやっている。

野上さんの写真を見て、そうだ、と思い出したように、続きを書いている。
その3)はほぼ一年前。
また間が飽き過ぎたなぁ、と思いながら、また書き始める。

(その3)の最後に、
野上さんの写真とは対照的に、
ある人の写真に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた、と書いている。

その時感じたナルシシズムは、被写体となった人たちも、不思議と強く感じられた。
それらの写真に写っている人たちは、プロのモデルではないし、
芸能人や有名人というわけではない。

写真を撮影した人の友人、知人といった人たちである。
もちろん、それらの人たちのことを私はまったく知らない。

それでも、普段、この人たちはナルシシズムを感じさせるような人たちなのか、と思った。
撮影者(写真家と書くべきかと思うが……)がナルシシストであるならば、
結果としての写真からは、撮影者のナルシシズムだけでなく、
被写体もナルシシストとして、ナルシシズムを表に出してしまうのか。

そんなことを思ってしまうほどに、
それらの写真は見ていて、こういって失礼なのはわかっているが、
気持悪さを感じてしまった。

写真がヘタだとか、そういうことではない。
ナルシシズムの相乗効果が、私には堪えられなかった。

Date: 9月 25th, 2019
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その9)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
卒意の音が鳴らせての裸の音楽なのだろう、と思う。

Date: 9月 24th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(ULTRA DACについて話してきた)

その24)で書いている5月4日の飲み会。
同じ場所で、同じ時間からの開始で、前回とほぼ同じメンツで、昨晩も行われた。

そこでメリディアンのULTRA DACについて話した。
来ていた人に、いわゆるオーディオマニアの人はいない。
でも、みな筋金入りといえる音楽好きの人たちばかりである。

ULTRA DACについて話した、といっても、
技術的なことはまったく話していない。

プレーヤー、アンプ、スピーカーがどういうものなのかわかっていても、
D/Aコンバーターって何? という人がほとんどだから、
技術的なこととかを話そうとは思っていなかったし、
そんなことを話されても……、であっただろう。

とにかくULTRA DACの音について話してきた。
16人ほど来ていた人のなかで、ULTRA DACの興味をもって話して聞いていた人は数人だけど、
うち一人は、とても関心をもって聞いてくれていた。

オーディオマニアでない、しかも女性の人が、
ULTRA DACに、ULTRA DACが聴かせてくれるであろう音に、強い関心をもってくれて、
こちらの話を熱心に聞いてくれる。

話していて、こちらも楽しい。

ほかの数人の方たちも、かなりの関心があり、
どこで聴けますか? と訊ねられて、
○○のオーディオ店で聴けます、と答えずに、
毎月第一水曜日に喫茶茶会記での試聴会で、
すでに三度鳴らしている、と伝えた。

話していると、いくつかの気づきがあった。

Date: 9月 23rd, 2019
Cate: イコライザー

トーンコントロール(その8)

トーンコントロールで昂奮する日が来るとは、まったく予想していなかった。

たとえばCelloのAudio Paletteの登場は、昂奮もしたし、
実際にAudio Paletteを見て触れて、さらに中身を見て、すこし醒めたところもあった。

それでもAudio Paletteでの昂奮は、
Audio Paletteというオーディオ機器への昂奮の方が、私の場合、大きかった。

Audio Paletteの六つのツマミを触れてみればすぐにわかることだが、
マーク・レヴィンソンが自慢するほど精度の高い造りではなかった。

それでもツマミをまわしていけば、おもしろいように音は変化していく。
使いこなせれば、おもしろそうだな、と思っても、
Audio Paletteをリスニングポイントから手が届く位置に置いて、
レコード(ディスク)ごとに六つのツマミをいじっていく、という聴き方は、
私は、あまりしたくない、と思う方だ。

ステレオサウンドの試聴室で、目の前にAudio Paletteを置いて、という使い方では、
おもしろいと思うし、オーディオマニア心が触発されるのは否定しない。

でも、ステレオサウンドの試聴室での聴き方と、
自分の、小さいとはいえリスニングルームでの聴き方は、決して同じではない。

メリディアンの218のトーンコントロールは、
218本体には、ツマミ、ボタン類はまったくついていないから、
必然的にiPhoneもしくはiPadで操作することになる。

218は、その外観からわかるようにバックヤードでの使用を前提としている。
218は目の前に置く必要はまったくない。

iPhoneが手元にあればいい。
そのうえで、トーンコントロールの効き方が、
何度でもくり返し伝えたくなるほど、心地よいのだ。

Audio Paletteがアプリケーションになっているのは知っている。
ダニエル・ヘルツからMaster Classという名称で、数年前から出ている。

macOS用である。
これがiPhoneから操作できるようになれば、
そしてアプリケーションのユーザーインターフェースが、
Audio Paletteをどこか思わせるようになってくれれば……、
そんなことを思ってしまうが、どうなのだろうか。

Date: 9月 22nd, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(美味しさと味の良さ・その2)

「五味オーディオ教室」に書いてあったことも思い出している。
     *
 ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
 見事な宴席料理をこしらえる板前ほど、重ねて言うが、小人数の家庭では味をどう加減すべきかを知っている。プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった。
     *
昨晩、Aさんと一緒に行った中華料理店、
そして三十数年前に行ったことのある、やはりこれも中華料理店、
この二つの店の料理の味の良さみたいなものは、
五味先生が書かれているようなことなのかもしれない。

もちろん、どちらの中華料理店で出てきた料理は、
完全な意味での家庭料理ではないのはわかっていても、
私たち以外の客層を眺めていても、そういうことなのかなぁ、と思ってしまう。

ステレオサウンド 56号で、瀬川先生は、
KEFのModel 303、サンスイのAU-D607、デンオンのDL103Dの組合せについて、
本筋の音と表現されていたことも、昨晩の料理の味に関係してくることとして思い出す。

本筋の音について、56号ではそれ以上の説明はされていない。

五味先生は
《腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである》
とされている。

これこそが本筋の音なのだろう。
「五味オーディオ教室」を読んで四十年以上が経つ。
その四十年間は、結局のところ、
「五味オーディオ教室」にある答に向ってのプロセスだったのだろう。

Date: 9月 21st, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(美味しさと味の良さ・その1)

三十数年前、ある中華料理店に行った。
池波正太郎氏が贔屓にしている、という店だった。

東京には、そういう店がいくつもあったし、
いまもGoogleで「池波正太郎 グルメ 東京」とかで検索すれば、
それらの飲食店がヒットする。

三十数年前は、20代前半だった。
美味しいといえば美味しいけれど……、と感じていた。

もう一度来よう、とは思わなかったから、
その店の前を通ることは幾度となくあったけれど、それきり行っていない。

その店も昨年末に、一旦閉店している。
再開するのかは知らない。

ここまで書けば、その店がどこなのかわかるだろうから、
店の名前は出さない。

今日、さきほどまで、友人のAさんと食事をしていた。
中華料理店であり、ここも池波正太郎氏のお気に入りの一つだ、と昔からいわれている。

食べていて、そしてAさんと味について話していて、ふと気づいた。
この歳になって、この店の美味しさ、というより、味の良さがわかるようになったのか、と。

三十数年前に一度だけ行ったきりの中華料理店にいま行けば、
きっと、美味しさうんぬんより、その良さに気づいたかもしれない。

どちらの中華料理店も、際立った美味しさはない。
けれど、なんといおうか、どちらにも、美味しさを含めての共通した良さがあるように感じた。

Aさんと帰り際に、今度は、これを食べましょう、と話したぐらいである。

Date: 9月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その4)

No.1のオーディオ雑誌とは、影響力の大きさで決るのか。
この影響力はわかりやすいようでいて、そうでない面もある。

それに影響力といっても、
それは読者に対しての影響力なのか、
クライアント(広告主)に対しての影響力なのか、ということもある。

もちろん読者に対しての影響力があれば、
それだけクライアントに対しての影響力も大きいはず、ではある。

けれど、それぞれのオーディオ雑誌の読者層は同じなわけではない。

以前、別項「598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その3)」で、
1980年代のオーディオ評論家の、国産メーカーによるランク付け的なことを書いている。

熊本市内のオーディオ店の店主が言っていたことなのだが、
オーディオ評論家でSクラスは長岡鉄男氏ひとり、
Aクラスが菅野沖彦氏と瀬川冬樹氏のふたり、
他の人たちはBクラス、Cクラスにランクされている、ということだった。

このランクづけを行っているのは、そのオーディオ店店主ではなく、
オーディオ業界、もっといえば国内メーカーということだった。
さらにいえば、おそらく営業関係者によるランクづけであろう。

つまり、この時代、国産のオーディオメーカー、
それも598のスピーカーシステムを売っているメーカーにとって、
長岡鉄男氏の存在は大きかったし、
長岡鉄男氏の影響力、
つまり598のスピーカーシステムを買う層に対しての影響力は、
他のオーディオ評論家よりもそうとうに大きかったわけである。

ならば、それだけ影響力のある長岡鉄男氏をメインの書き手として、
必ず毎号、長岡鉄男氏の記事が載っているオーディオ雑誌が、
影響力が大きいといえるかというと、そうとは言い切れない。

Date: 9月 20th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その4)

鐘の音といえば、ベルリオーズの幻想交響曲の第五楽章で鳴る。
とはいえ、実際のコンサートで鐘を鳴らすこともあるようだが、
チューブラーベルで代用されることも多い。

録音では、古いものだとチューブラーベルが大半だが、
1980年代ごろからか、実際の鐘を使った録音が増えてきているようだ。

広島の平和の鐘を使ったのが、アバドの幻想交響曲である。
デジタルで信号処理をして、ピッチを変えている。

幻想交響曲をそれほど聴いているわけではないが、
アバドの演奏での鐘の音は、聴き手のこちらが日本人だからということではなしに、
いいと思う。

アバドがなぜ広島の平和の鐘にこだわったのか、その理由までは知らない。
それでも、アバドの演奏での、広島の平和の鐘の響きは、美しいと感じる。

幻想交響曲での鐘の音と、ヨッフムのレクィエムにおける鐘の音は別ものである。
幻想交響曲では、スコアにそれが書かれている。

レクィエムには、そんなことは書かれていない。
ヨッフムのレクィエムでは、あくまでも始まりをつげる鐘でしかない。

にも関らず、その鐘の音に身の凍るような思いがするのは、どうしてなのか。

アバドの幻想交響曲はデジタル録音で、当時優秀録音ということで話題にもなったし、
ステレオサウンドの試聴でも、けっこうな回数、使われている。

ヨッフムのレクィエムは1955年のライヴ録音で、しかもモノーラルである。
優秀録音というわけでもない。

それでも、冒頭の鐘の音が、うまく鳴ってくれる(響いてくれる)と、
もうそれだけでぞくぞくする、そして身の凍るような思いがする。

幻想交響曲の鐘の音には、音楽性がある、といえよう。
ヨッフムのレクィエムでの鐘の音には、音楽性はない、といえよう。

なのに、私が聴きたい(うまく鳴らしたい、響かせたい)のは、
ヨッフムのレクィエムでの鐘の音である。

考えれば考えるほど、おかしな話ではないか。

Date: 9月 19th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その3)

瀬川先生が「夢の中のレクイエム」で書かれている。
     *
 最後にどうしても「レクイエム」について書かないわけにはゆかないが、誰に何と言われても私は、カラヤンのあの、悪魔的に妖しい官能美に魅せられ放しでいることを告白せずにはいられない。この演奏にはそして、ぞっとするような深淵が隠されている。ただし私はふつう、ラクリモサまでしか、つまり第一面の終りまでしか聴かないのだが。
 そのせいだろうか、もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。
     *
私はCDで聴いている。
瀬川先生が書かれているように《冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのする》モーツァルトだ。
この鐘の音は、始まりをつげる音である。

モーツァルトのレクィエムに、鐘の音が含まれているわけではない。
その意味では、音楽とは無関係といおうとおもえば、いえなくもない。

それでも、初めてヨッフムのレクィエムを聴いたとき、
この鐘の音に、身の凍るような思いがした。

瀬川先生の文章の読みすぎだ──、といわれようが、
確かにそういう思いがした。

めったに聴く演奏ではないが、聴く度に、同じ思いがする。
以前に、鐘の音が含まれていない、
純粋に演奏だけを収録したCDが廉価盤で出ていた。

モーツァルトのレクィエムを、音楽だけで聴きたければ、廉価盤のほうだろう。
けれど、どちらかを残すとなれば、迷うことなく鐘の音が入っている盤である。

この鐘の音は、いったい何なのか。

Date: 9月 19th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その2)

駅のアナウンス、
それも特別なアナウンスではなく、ごく日常的なアナウンスを録音している人がいる。

写真を撮る鉄道マニアを撮り鉄というらしいが、
同じとりてつでも、こちらは録り鉄なのか。

けっこういい録音器材を使っている人もみかける。
録音しながらヘッドフォンでモニターしている。

録音が終り、帰宅してから、もう一度再生しているはずである。
駅での録音だから、どうしてもさまざまな雑音がまじっていることだろう。

だからこそ、雑音がほとんどなく、うまく録音できたのであれば、
相当に嬉しいはずだ。

でも、駅のアナウンスは、音楽はまったく関係ない。
あくまでも駅のアナウンスとして、であり、
録音している人たちも、音楽性なんてことはまったく考えていないはずだ。

うまく録れたときほど、何度も再生しては聴いて、にんまりするのだろう。
でも、それらの録音は、コレクションの一部と化してしまうのではないのか。

誰かに自慢するために、鳴らすことはある。
けれど、録音してから一年、五年、十年……、と経って、
どれだけの人がどれだけ以前の、そういった録音を聴き直すのか。

私の周りには、そういう録り鉄は一人もいない。
友人の知人にもいないようである。

なので、実際のところどうなのかはわからない。
あくまでも想像で書いているにすぎない。

そうなると、(その1)での放尿の録音と同じく忘れられていくのか。

放尿の音は趣味としての録音ではないはず。
駅のアナウンスの録音は、鉄道という趣味がバックグラウンドにある。

その違いがあるのはわかったうえで、これを書いている。