Archive for category テーマ

Date: 6月 7th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

いつかはタンノイを……、
これは「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に入ってきた私が、
ずっといだいてきたおもいである。

いつかはタンノイを……、
このタンノイとは、オリジナル・エンクロージュアのオートグラフのことである。
とはいえ、タンノイ・オリジナルのオートグラフは、
すでに製造中止になっていて、輸入元ティアックによる国産エンクロージュアになっていた。
それにユニットもHPD385にかわっていた。

スピーカーだけは新品で……、
これもずっとおもっていることだが、製造中止になっている以上、
中古で手に入れたスピーカーも、すでにいくつかある。

オートグラフの後継機として、ウェストミンスターがある。
いいスピーカーだと思っている。

それでも、オートグラフをベートーヴェンにたとえるなら、
ウェストミンスターはブラームスである。
このことは以前書いているので、これ以上はくり返さないが、
ここはどうしても譲れないところである。

もうひとつ加えるなら、オートグラフの佇まいとウェストミンスターのそれとは、
かなり違う。
ウェストミンスターを置くだけのスペースがあったとしても、
どうしても自分のモノとしたい、とは思えない理由である。

これも以前書いているが、私にとってのタンノイ本来の音は、
フロントショートホーン付きのエンクロージュアでのみ、と考えている。

こうなると、もうコーネッタしかない。
コーネッタは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」で初めて、
その存在を知った。
といっても、詳しいことを知ったわけではない。

その二年後、「コンポーネントステレオの世界 ’79」でもコーネッタを見た。
リスニングルームの雰囲気とともに、コーネッタを欲しい、とおもった。

いつかはタンノイを……、というおもいも少しずつ変化してきている。
オートグラフだけではなくなってきている。
コーネッタを鳴らしたい、とおもう気持が、数年ごとに、わき上がってくる。

7月1日のaudio wednesdayでは、コーネッタを鳴らす。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その1)

少しは飽きてくるのかな……、と、まったく思わないわけでもなかった。
けれど、メリディアンの218で聴いていると、MQAへの関心は増す一歩である。

MQAで聴いてみたい──、
そう思うものはかなりある。

そのうちの一つが、三味線である。
といっても、三味線の世界に詳しいわけではない。
まったく知らないわけではないが、ほとんど知らない、といったほうがいい。

それでもMQAで三味線は、どんなふうに鳴ってくれるのか、ということに、
ひじょうに関心と興味がある。

こんなふうに思うのは、伊藤(喜多男)先生が、
三味線がきちんと聴けるスピーカーは、世の中にほとんどない、といったことをいわれていたからだ。

いまでこそ、あまりいわれなくなったが、
スピーカーは、その国独自の音色をもつ。

だからヨーロッパサウンド、アメリカンサウンドがあり、
ヨーロッパのなかでも、イギリス、フランス、ドイツ、デンマークなどでは違ってくるし、
アメリカのなかでも、西海岸と東海岸の音ということが盛んにいわれていた。

そこには、その国独自の音楽文化との関連性も語られていた。
ならば三味線、つまり純邦楽の再生には、日本のスピーカーなのか、
そういうことになりそうだが、伊藤先生はそう思われていなかったはずだ。

三味線にかぎらず、箏、尺八、それから(歌ではなく)唄となると、
私が思い浮べるのは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」での上杉先生の組合せである。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その2)

いま書店に並んでいるオーディオ雑誌、
ステレオ、オーディオアクセサリー、ステレオサウンド、
いずれも特集は、試聴室で試聴をしないでもすむ企画になっている。

そうだろうな、と思うし、だからといって、次号以降も同じ、というわけにはいかない。
試聴室で試聴を行うけれど、
数人のオーディオ評論家がいっしょに試聴する、ということはしばらく影をひそめるだろう。

オーディオ評論家は一人。
あとは編集者が必要最低限の人数での試聴。
気をつけるところは、試聴中は、
試聴室にはオーディオ評論家だけ、ということもありそうである。

試聴機器を入れ替える時だけ、編集者が試聴室に入る。
これまでの試聴からすれば、なんと大袈裟な……、という印象を持つ人もいるだろうが、
そのくらい気をつけるのが、これからの当り前になっていってもおかしいことではない。

夏が終り秋になれば、メーカー、輸入元は、
オーディオ賞関係の試聴が増えてくる。

いまでは各オーディオ雑誌が、それぞれに賞をもうけていて、
それが年末号の特集になっている。

そのための試聴は、たいていはオーディオ評論家のリスニングルームに、
メーカー、輸入元の担当者が機器を持ち込んでの試聴である。

これも今年は変っていくのかもしれない。
担当者数人とオーディオ評論家だけならば、小人数での試聴とはいえ、
担当者は毎日のように、同じことをくり返していく。
外回りの、しかもある部分、肉体労働でもある。

雑誌社の試聴室ならば、搬入もしやすかったりするが、
オーディオ評論家のリスニングルームは個人宅である。
場合によっては、けっこう大変なことだってある。

感染リスクは、決して低くはない、といえる。
しかもオーディオ評論家、特にステレオサウンドに書いている人たちは、高齢者が多い。

Date: 6月 5th, 2020
Cate: 「かたち」

音の姿勢、音の姿静(その1)

「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
     *
 はじめに言っておかねばならないが、再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている。これを悟るのに私は三十年余りかかったように思う。
 むろん、音を出さぬ時の(レコードを聴かぬ日の)スピーカー・エンクロージァは、部屋の壁ぎわに置かれた不様な箱であり、私の家の場合でいえばひじょうに嵩張った物体である。お世辞にも家具とは呼べぬ。ある人のは、多少、コンソールに纏められてあるかも知れないが、そんな外観のことではなく、それを鳴らすために電気を入れるとしよう。プレーヤーのターンテーブルが、まず回り出す。それにレコードをのせる以前のたまゆらの静謐の中に、すでにスピーカーの意志的沈黙ははじまる。
 優れた再生装置におけるほど、どんな華麗な音を鳴らすよりも沈黙こそはスピーカーのもてる機能を発揮した状態だ。装置が優れているほど、そしてこの沈黙は美しい。どう説明したらいいか。レコードに針をおろすのが間延びすれば、もうそれは沈黙ではない。ただの不様な置物(木箱)の無音にとどまる。
 光をプリズムに通せば、赤や黄や青色に分かれることは誰でも知っているが、円盤にそういう色の縞を描き分け、これを早く回転させれば円盤は白色に見えることも知られている。つまり白こそあらゆる色彩を含むために無色である。この原理を応用して、無音こそ、すべての音色をふくんだ無音であると仮定し、従来とはまったく異なる録音機を発明しようとした学者がいたそうだ。
 従来のテープレコーダーは、磁気テープにマイクの捉えた音を電気信号としてプラスする、その学者の考えは、磁気テープの無音は、すでにあらゆる音を内蔵したものゆえ、マイクより伝達される音をマイナスすれば、テープには、ひじょうに鮮明な音が刻まれるだろう、簡単にいえばそういうことらしい。
 私はその方面にはシロウトで、テープヘッドにそういうマイナス音の伝達が可能かどうか、また単純に考えて無音(零)からマイクの捉えた音(正数)をマイナスするのは、数式で言えば結局プラスとなり、従来のものとどう違うのか、その辺はわからない。しかし感じとしては、この学者の考えるところはじつによくわかった。
 ネガティブな録音法とも称すべきこれを考案した学者の話は、だいぶ以前に『科学朝日』のY君から聞いたのだが、その後、いっこうに新案の録音機が発表されぬところをみると、工程のどこぞに無理があるのだろう。あるいはまったく空想に過ぎぬ録音法なのかもしれぬが、そんなことはどうでもよい。
 おそらくこの学者も私と同じレコードの聴き方をしてきた人に相違ないと思う。ひじょうに密度の濃い沈黙——スピーカーの無音は、あらゆる華麗な音を内蔵するのを知った人だ、そういう沈黙のきこえる耳をもっている人だ、と思う。
 レコードを鑑賞するのに、針をおろす以前のこうした沈黙を知らぬ人の鑑賞法など、私は信用しない。音楽が鳴り出すまでにどれほど多彩な楽想や、期待にみちびかれた演奏がきこえているか。そもそも期待を前置せぬどんな鑑賞があり得るのか。
 音楽は、自然音ではない。悲しみの余り人間は絶叫することはある。しかし絶叫した声でメロディを唄ったりはすまい。オペラにおける“悲しみのアリア”は、この意味で不自然だと私は思う。メロディをくちずさむ悲しみはあるが、甲高いソプラノの歌など悲しみの中で人は口にするものではない。歌劇における嘆きのアリアはかくて矛盾している。
 私たちがたとえば“ドン・ジョバンニ”のエルヴィーラの嘆きのアリア「私を裏切った……」(Mi tradi……)に感動するのは、またトリスタンの死後にうたうイゾルデに昂奮するのは、言うまでもなくそれが優れた音楽だからで、嘆くのが自然だからではない。厳密には理不尽な矛盾した嘆き方ゆえ感動するとも言えるだろう。
 そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
 たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき“音の革命”をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
 ——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
 ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。
 いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
 試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
 私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
 ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
 私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
     *
さらに五味先生は《無音はあらゆる華麗な音を内蔵している》とも書かれていた。
13のときに「五味オーディオ教室」出逢って、44年。

「音の姿静」だと、やっと気づいた。

Date: 6月 5th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その1)

AV⋄Head-fi Show(香港オーディオショウ)は、いまのところ、
予定通り8月7〜9日開催するようである。

でも、本当に開催されるのか、と思っている人もいる。
コロナ禍の現状では、晩秋よりも真夏の開催のほうが、少しは安全なのかもしれない。

AV⋄Head-fi Showが開催されたとしても、
11月開催のインターナショナルオーディオショウが、
予定通りに行われる可能性が高くなる、というわけではない。

1月開催のCESはどうなるのだろうか。
楽観視している業界の人は少ないのではないだろうか。

先のことをはっきりとわかっている人は、誰もいない。
今年は無理でも来年はできるかもしれないし、
だからといって再来年も安心できるとはかぎらないだろう。

コロナ禍が、ほんとうに終息したとしても、
新たな感染症が発生するかもしれない。

今回のコロナ禍を機に、リモート試聴ということを真剣に考えていく必要が出てきているような気がする。
リモート試聴なんかで、こまかな音の違いがわかるわけない、
そんなアホなこと考えるだけムダ、
こんなことを言い捨てたら、そこまで、である。

リモート試聴には、まったく可能性がないのだろうか。
YouTubeには、かなり以前からスピーカーの音をマイクロフォンで拾った音を公開している動画が、
けっこうな数ある。

インターナショナルオーディオショウをはじめ、
オーディオショウのブースの様子も公開している人がいる。

全部がそうだとはいわないが、意外にも、大掴みには、
その場の音の雰囲気を伝えてくれているように感じる。

友人のAさんはオーディオショウには行かないけれど、
YouTubeで、そういった動画をけっこう見ている。

オーディオショウに行った私と、各ブースの話になったときに、
けっこう音の印象は一致している。
大きな違いがあったことは、いまのところない。

Date: 6月 4th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ

7月のaudio wednesdayは、1日。

火曜日は、別項で書いているようにAさんのところに、
昨日の水曜日は喫茶茶会記に、メリディアンの218を持ち込んでいた。

218+αになってから、218だけでなく、いくつかものも持っていくことになった。
5月のaudio wednesdayから、200Vへの昇圧トランスが加わって、そこそこ重くなってきた。

それでもバッグに入れて運べる大きさと重さ。
電車以外持ち運ぶ手段のない私は、助かっている。

そして、こうやって違う環境で鳴らすことのおもしろさも味わっている。
特に今回は二日続けて、違う環境で聴けたのは、個人的には収穫があった。

次回のテーマは未定だが、これまで通り218は持参する。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その5)

CDで聴いていても、グルダとアバドのモーツァルトは素晴らしい、と感じていた。
それでも、バルトークやベルクに感じたすごさまでではなかった。

それがMQAで聴いて、己の聴き方の未熟さを感じた。
ハイレゾリューションになっているから(192kHz、24ビット)、
MQAだから……、
これらのことが、どれだけ音楽の、ここでの二人の演奏の本質に関ってくるのか。

ここで、そのことについて触れていくと、延々と書き続けることになりそうなので省くが、
とにかく、MQAで聴いて、協奏曲のおもしろさが、ほんとうにわかったような感じがした。

愛聴盤のなかに、いくつかの協奏曲はある。
それでも協奏曲は、それほど多い数ではない。

どこか、協奏曲に対して夢中になれない気質のようなものが、私にあるからなのか。
それでも、いくつかの協奏曲は愛聴盤になっているのは、
ほんとうにそれらの演奏が、とびぬけてすごいからである。

グルダとアバドのモーツァルトは、そこまでではなかった。
MQAで聴く前までは、そうではなかった。

グルダの、ここでのモーツァルトへの姿勢が、アバドの演奏をここまでにしているのか。
それともアバドのモーツァルトへの姿勢が、グルダをここまでむきにしているのか。

(その1)を書いたころは、
MQAで20番と21番は出ていなかった。

だから、MQAで聴きたい、とタイトルにつけているわけだが、
すでにリリースされているし、聴いているのだから、
聴ける、とか、聴いた、に変えた方がいいかな、と思うのだが、
変えるのであれば、聴ける、でも、聴いた、でもなく、
聴いてほしい、である。

「MQAで聴いてほしいグルダのモーツァルトの協奏曲」である。

Date: 6月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その4)

グルダとアバドのモーツァルトのピアノ協奏曲 第20番、21番は、
すでにe-onkyoで購入してMQAで聴いている。

6月3日のaudio wednesdayにもっていく予定でいるから、
その日まで書かずにおこう、と思っていた。

来られた方に、何の先入観ももたずに、このモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いてもらいたい、
そう思っているからだ。

それでも昨晩、また聴いていて、やっぱりすごい、と思っていた。
あと二日待てないほどに、このことを伝えたい、と思うほどに、素晴らしい。

CDで初めてきいたとき以上で、
MQAで、メリディアンの218を通して聴いて、驚きを新たにしているだけでなく、
驚きと感動は深まっていく。

クラウディオ・アバドという指揮者を、好きか嫌いかでわければ、好きな方である。
でも、ものすごく好きな指揮者なわけではない。
なので熱心な聴き手ともいえない。

アバドの録音のすべてを聴きたい──、とは思っていない。
こんなことを書いていいのなら、アバドははずれのない指揮者である。
この人の録音で、ダメなものはないだろう。

というより、ほとんどが優れた演奏である。
それでも夢中になって聴きたい、とはあまり思わないのは、
私の音楽の聴き方の偏りゆえなのだろう、とは自覚はしている。

それでもアバドの録音をそれでも聴き続けているのは、
時に、すごい演奏があるからだ。

ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲を、真っ先に挙げる。
ここでの演奏を聴いているからこそ、
アバドの演奏(録音)に関心をもち続けている、ともいえる。

それからベルクの「ヴォツェック」。
これもほんとうに、すごい。

他にもいくつもあるけれど、こういう演奏にであえるから、アバドを聴く。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・コメントを読んで)

(その4)へのコメントが、facebookにあった。
そこには、非の打ち所のない音であったとしても、
その音から生きた演奏が聴こえてこなければ、テレビの音と大差ないのでは?
ということだった。

ちょっと考え込んでしまった。
コメントにあったような音、つまり精度が高くても、
オーディオマニアがチェック項目とするすべての要素で、
ほぼ満点といえる音。

そうであったとしても、生きた演奏に聴こえてこなければ、
私は、そこに何ら価値を認めないし、意味もないことだと思う。

けれど、そこでテレビの音と大差ないのでは? となると、考え込むわけだ。
以前書いているように、テレビのあった生活よりもない生活のほうが、二倍くらい長い。

つまり私にとってのテレビの音とは、どうしても昔のテレビの音のことなのだ。
いまの、薄型のテレビのなかには、ひどく音の悪いモノがあるのは、
実際に聴いて知っている。
最近は少しはまともになった、という話も聞いている。

それでも、最近のテレビの音とは、こういうもの、というイメージが、ほぼないといっていい。
わかっていても、テレビの音=以前の、ようするにブラウン管時代のテレビの音である。

しかも私が小学校に入るか入らないころ、わが家のテレビは真空管式だった。
それがトランジスターになり、カラーになり、モノーラルからステレオになった。
そこまでが、私にとってのテレビである。

つまり、これらのテレビについていたスピーカーは、
10cmから16cm前後のフルレンジユニットであり、
いまの薄型テレビとは違い、スピーカーのキャビティは、ずっと確保されていた。

確かにナロウレンジの音である。
Netflixやamazon Prime Videoで、そんな昔のテレビが公開されているのを見て感じるのは、
こんなにもナロウレンジの音だったのか、である。

スピーカーユニットの特性が、という話ではなく、
元の録音そのものがナロウレンジであることに気づく。

なのでコメントされた方のいわれるテレビの音のイメージと、
私がもつテレビの音のイメージがずいぶん違っているはずだ。

なので、あくまでも、そんな古いテレビの音のイメージだけでいえば、
ナロウレンジであったけれど、活き活きとした音とまではいわないまでも、
十分に生きた演奏は聴こえてきていたのではないだろうか。

コメントにあった、生きた演奏が聴こえてこなければ……は、
ここでのテーマよりも、別項のテーマに関係してくることでもある。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その4)

ここでのアパッチとは、アメリカインディアンの部族名である。

「死の舞踏」がアパッチの踊りでは困るわけだが、
それでも実演であっても、どれだけ「死の舞踏」たりえているのかは、
当時でも疑問に感じていた。

けれどレコードを疑っていては、オーディオはできない。
それに「死の舞踏」を、バーンスタインのマーラーの録音から、
つまり旧録音から五味先生は感じとられていた、ということだ。

少なくとも五味先生のリスニングルームでは、
《悪魔が演奏するようにここは響いて》いるわけだ。

だからこそアパッチの踊りでは困る、とされている。

でも、いま読み返して、アパッチの踊りならば、まだいいほうじゃないか、と思っている。
(その2)で書いた人のリスニングルームでは、
バーンスタインの第五(新録音)が、
どう聴いてもウィーンフィルハーモニーが演奏しているとは思えないし、
それこそチンドンヤのように鳴っているだけである。
響いてもくれない。

別項「五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか」で、
《他人(ヒト)とは違うのボク。》と書いた。

確かにオーディオの自作の理由、大義名分はこれである。
けれど、出てくる音までが、極端に《他人(ヒト)とは違うのボク。》になってしまうと、
バーンスタインのマーラーの第五がチンドンヤ的に成り果ててしまう。

そこで、何を疑うのか。
自作スピーカーで聴いている、その人は、スピーカーの出来に自信をもっている。
それは悪いことではない。

けれど、バーンスタインのマーラーを「ラウドネス・ウォーだね」といってしまったのは、
明らかに自身のスピーカーではなく、
本来疑うべきではないレコード(録音)を疑ったことになる。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その3)

書いていくことで思い出すことが次々と出てくることがある。
今回も「五味オーディオ教室」にあったことを思い出した。
     *
 最近、私は再生装置がもたらす音楽に、大変懐疑的になった。これまでずいぶん装置を改良するのに無駄金をつかい、時にはベソをかきながらつかい、そのたびによくなったと思ってきた。事実よくなっているらしい。人さまのどんな装置を聴かされても、うらやましいとはもう思わないし、第一、音がよかったためしがない。私ごとき音キチにこれは大変なことで、要するに、わが家の再生音は家庭でぼくらが望み得るもっとも良質な音のひとつを響かせているからだろう。
 が、装置のグレード・アップが、果たしてレコードの《音楽》そのものをグレード・アップしているか。いい演奏、いい録音、いい再生装置——これらは家庭で音楽を鑑賞するわれわれに重要な三条件だと、そう単純に私は考えてきたが、どうやら違う。
 いい演奏者といい録音、これはまあレコード会社にまかせるしかないが、どういう装置を選択するかで、究極のところ、演奏と録音をも選んでいる──その人の音楽的教養(カルショーの言う審美眼)は、再生装置を見ればうかがえると、私は思ってきた。しかし間違っていたようである。
 芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じに鳴る傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだのは、13歳のとき。
マーラーの交響曲も何ひとつ聴いていなかった。
バーンスタインの名前は知っていても、
バーンスタインの演奏も何ひとつ聴いていなかった。

なので、そういうこともあるのか……、と思いつつ読んでいた。
「死の舞踏」がアパッチの踊りに変じてしまうのか。

そして、この時は、KLHがどういうスピーカーなのかも知らなかった。
上杉先生が鳴らされていたKLHは、屏風状のコンデンサー型スピーカーであることを知ったのは、
「五味オーディオ教室」から、そう経たずに手にした「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻末にリスニングルームがいくつか紹介されていた。

そこにKLHのスピーカーが写っていた。
といっても、上杉先生の部屋ではない。

それでもKLHがどういうスピーカーなのか、
少なくとも見た目だけはわかったし、
そのころには、ヴォーカルや弦の再生には、コンデンサー型が向くようなことは、
何かで読んでいた。

だから、「五味オーディオ教室」を何度目かの読み返しのときには、
それでも「死の舞踏」がパッチの踊りに変じてしまう、その理由について考えていた。

それにだが、
レコードから《悪魔が演奏するようにここは響いてくれ》るような音が鳴ってくるのか。
そういう音を鳴らすことそのものが、そうとうに難しいことなのではないのか。

そんなことを「五味オーディオ教室」をくり返し読むたびに考えていた。
ひたすら想像するしかなかったころのことだ。

Date: 5月 31st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その2)

バーンスタインのウィーンフィルハーモニーとのマーラーの交響曲第五番には、
バーンスタインによるマーラーならではの毒がある。

けれど、その毒を腑抜けにしてしまう音も、世の中にはある。
そういう音を好む人も、世の中にはいる。

そういう音を好む人が少なからずいるから、
私が、まったくいいとは思わない演奏が、世の中にはけっこう多くあるのか──、
とも思う。

ここでも、毒にも薬にもならない、ということを考えるわけだが、
そういえばと思い出すことを(その1)に書いていた。

四年前に書いている。
その時は、(その1)とはつけていなかった。
「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五」がタイトルだった。

いま「毒にも薬にもならない」音について書いている。
昨晩、また違う意味での「毒にも薬にもならない」音になるのか、と思い出したから、
タイトルに(その1)とつけて、今日、この(その2)を書いている。

その音は、個人のリスニングルームでの音だった。
自作のスピーカーシステムだった。
(その1)にも書いているように、
中高域での機械的共振が著しくひどい構造であり、
オーケストラが総奏で鳴ると、もうどうしようもないくらいに聴感上のS/N比が悪くなる。

けれど、このスピーカーを自作した人は、そのことに気づかずに、
バーンスタインのマーラーの第五の録音を「ラウドネス・ウォーだね」と一言で決めつける。

スピーカーは耳の延長だ、ということがいわれる。
どういうスピーカーで聴くか、ということは、使いこなし以前に、
己の耳だけでなく、音楽を聴く感性をも、歪めてしまうことだってある。

その人が「ラウドネス・ウォーだね」といいたくなる気持はわからないではなかった。
そんな感じを人に与えるような音で、バーンスタインのマーラーが鳴っていた。

けれど、それは録音の所為ではない。
自作スピーカーの所為であることは明らかなのだが、本人だけが気づいていない。

そんなスピーカーから鳴ってきたバーンスタインのマーラーの第五には、
もう毒はなかった。
毒が抜かれてしまった、というのではなく、毒が変質してしまっていた。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

巧言令色鮮矣仁とオーディオ(その1)

別項で、「毒にも薬にもならない音」について、何度か書いてきている。

巧言令色鮮矣仁といえる音もまた、毒にも薬にもならない音であろう。

以前、「音を表現するということ(その4)」で、
優れたアナウンサーが、優れた朗読家とはかぎらない、と書いた。

アナウンサーはannouncer、つまりannounce(告知する、知らせる)人であり、
アナウンサーに求められるのは、情報の正確な伝達である。

ならばアナウンサーは、巧言令色鮮矣仁であってもいいのではないか。
巧言令色鮮矣仁がアナウンサーの理想なのかについては考えなければならないが、
仮にそうだとしたら、もっとも理想的なアナウンサーは、
これから先、AIがますます発達してきたら、人が読むよりも、
AIに読ませたほうが、より巧言令色鮮矣として、
より正確に情報を伝えてくれる可能性も考えられる。

アナウンサーは、人である。
男性か女性か、どちらかである。

けれどAIの発達は中性のアナウンサーを、見事につくりあげてくれるかもしれない。
中性的な男性、中性的な女性、そんな雰囲気の人はいても、完全な中性なわけではない。

完全な中性とは、どういうものだろうか。
両性具有が、完全な中性とは思えない。
性器をもたない者こそが、完全な中性だとしたら、
それはAIによるもののはずだ。

一方、朗読は、announceではなく、recite。
音楽や朗読などの少人数による公演は、recital(リサイタル)である。

ここに巧言令色鮮矣仁は、どれだけ求められるのだろうか。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(コメントを読んで)

(その12)に、facebookでコメントがあった。

ガソリン臭くて、燃費が悪くて、音がいっぱい出る、
そんな野性味溢れた車が好き──、
そういうことをいった人がいる、という内容だった。

クルマ好きのなかには、そういう人がいるのは確かだろう。
このコメントで私が興味深いと感じたのは、「燃費が悪くて」のところだった。

野性味溢れるクルマは、燃費が悪い、というイメージが、私にはある。
免許を持たない私の印象だから、事実かどうかはなんともいえないが、
スーパーカーと呼ばれるクルマであっても、昔のスーパーカーと現在のスーパーカーでは、
燃費に関しては改善されているはずだ。

この燃費は、いわば変換効率であって、
スピーカーに関しては、昔のスピーカーのほうが変換効率は高かった。
いわば燃費のいいスピーカーといえるわけだ。

このことは、ここでのテーマよりも、
別項「拡張と集中」に深く関係してくることでもある。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その9)

トロフィー屋としか呼べないようなオーディオ店で、
オーディオ機器を購入する──。

そこで扱っているオーディオ機器は、ひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルにしてもひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルなどのアクセサリーを含めたシステム・トータルの価格は、
数千万円はあたりまえで、ときには一億円前後にもなる。

そういう、まさしくトロフィー屋でオーディオ機器を買う、
買える、ということは、優越感を満たしてくれるはず。

まして、そこの常連ともなれば、まさしく優越感がそうとうに満たされることだろう。
そのこと自体を否定するつもりは、さらさらない。

買える人は、どんどん買えばいい。
けれど、どれだけ優越感をえられたとしても、それは幸福とはいえないはずだ。
どこまでいっても、優越感は幸福にはつながらず、快感でしかない。

快感はどれだけ重ねようと、
どれだけエスカレートさせようと、快感でしかない。

快感を幸福と思える人ならば、それでいい。
けれど、そういう人はオーディオマニアではない。

少なくとも五味先生と同じオーディオマニアではない。
まるで別種のオーディオマニアなのかもしれない。