S氏とタンノイと日本人(その2)
「わがタンノイ・オートグラフ」に、タンノイとのであいを書かれている。
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タンノイ・スピーカーを我が家におさめたのは昭和二十九年(当時はいま使っているオートグラフではない)だから今年で二十四年目になる。この間私はタンノイを骨の髄までしゃぶった。このことはオーディオ愛好家としての私が人さまに、はばかりなく言えることだ。
はじめてタンノイを聴いたのは昭和二十七年秋、S氏のお宅でだった。フランチェスカッティの、ベートーヴェンの『ロマンス』を聴いた。おもえば、ト長調(作品四〇)の冒頭で独奏ヴァイオリンが主題を呈示する、その音を聴いた時から、私のタンノイへの傾倒ははじまっている。ヴァイオリンの繊細な、澄みとおった高音域の美しさは無類だった。あれほど華麗におもえた当時評判の『グッドマン』が、途端に、色あせ、まるで鈍重に聴こえたのを忘れない。
しかし、実はかならずしもすべてがうまく聴こえたわけではない。どうかすれば耳を突き刺す金管の甲高い響きや、弦合奏でガラス窓をブリキで引っかくに似た乱れた軋みを出すのをきくと、これが海外のHiFi雑誌に絶賛されたスピーカーかと狼狽したのは、むろん当のS氏だったろう。
この時のタンノイはいわゆるバスレフ型のコーナーキャビネットにおさめてあった。バスレフ型というのは、周知のように、箱の上辺にスピーカーを取付け、下辺にダクトを設けているが、「音のわるいのはキャビネットのせいに違いない」とS氏は言って早速、家具屋に新しく《タンノイ指定》のキャビネットを注文された。今なら笑い話だがわたくしが知っているだけでも、タンノイのためにS氏の発注されたキャビネットはグランドピアノの重さのある巨大なの(これは高城重躬氏の設計になった)まで、ゆうに七個をかぞえる。キャビネットばかりは下駄箱にもならず、残骸が次々納屋を占領して夫人を嘆かせていた。笑い話といえば、当時S氏のアンプを製作していた技術者は、「タンノイは磁石が強力だから低音が出ない」といい、それならとワーフデールのウーファーをS氏はタンノイに組合わせて鳴らされたものである。グランドピアノの重さのキャビネットがこれである。
涙ぐましいこういう努力で、少しずつ音質はよくなり、しかし疑念は晴れない。ワーフデールでこれ位よくなるなら、さらにタンノイをもう一個取付け、低音だけを鳴らせば一層、音の美しさはまさるだろうと、二個目のタンノイをS氏は芳賀檀氏の渡欧の折に依頼された。当時神田のレコード社でタンノイ(15インチ)は十七万円した。英本国でなら邦貨三万数千円で入手できる。芳賀さんはロンドンで購入したのはよいが、どんなにS氏がレコードを、その音質を、つまりスピーカーを大切にする人かを熟知していたので、リュックサックに重いタンノイを背負い込み、フランス、ドイツ、スイスと旅して回った。なんのことはない、国がかわる度に通関手続で英国製品の余分な税金をふんだくられねばならない。「これはぼくの友人のスピーカーだ。日本へ持って帰るのだ」何度説明しても、この真摯なドイツ文学者にリュックサックでスピーカーを持ち回らせる、そんな音キチが東洋の君主国にいようとは、彼らには信じられなかったのである。ハイ・ファイという言葉すら当時は一般に知られていない。「日本に持ち帰るなら、なぜロンドンから直送せんか」「大切なスピーカーだからだ。これは、有名なタンノイだ。少しでも早く友人に届けたいからだ」なんと説明しても、「税金を支払わないのなら貴下を入国させるわけにはいかん。そのリュックサックは没収する」
これまた、語るも涙であろう。涙のこぼれるこういう笑い話を、大なり小なり、体験しないオーディオ・マニアは当時いなかった。この道は泥沼だが、音質が向上するにつれて泥沼はさらなる深みを用意し、濫費を要求する。みんな、その濫費に泣きながら、いい音が聴きたくて悪戦苦闘するのである。
タンノイにおける、S氏のこの悪戦苦闘ぶりをつぶさに傍で見たことが、その後のわたくしの苦闘につねに勇気を与えてくれた。この意味でもS氏は、かけがえのないわたくしには大先達であった。
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瀬川先生が聴かれたのは、
グランドピアノの重さほどのキャビネットに、
ワーフデールの15インチ・ウーファーをパラレルにおさめられていた時の音だ。
五味先生がS氏宅のタンノイをはじめて聴かれたときは、
芥川賞受賞前のことだ。
菅野先生も、瀬川先生も、S氏のタンノイを聴かれたころは、五味先生を知らなかった。
五味先生が「西方の音」を藝術新潮に連載されるようになるのは、ほぼ十年後である。