Archive for category テーマ

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その17)

その4)でも、
さらには他の項でも何度か引用していることをまた一度やる。

中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章がある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之──N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
今年は、ベートーヴェンの生誕250年である。
音楽関係の書籍も、ベートーヴェンに関係するものが出ている。

河出文庫から吉田秀和氏の「ベートーヴェン」が出ている。

そこにおさめられている「ベートーヴェンの音って?」に出てくるエピソードが、
まさにこのことに関係してくるからである。

長くなるので(その18)で引用することになるが、
読まれれば、同じことが起っている、と思われるはずだ。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その1)

東京で暮すようになって、初めて行ったクラシックのコンサートは、
ヘンリク・シェリングだった。

いま思うと、なぜシェリングを選んだのか、もう定かではない。
クラシックのコンサート、それも海外の演奏家のコンサートには、
それまでの熊本での暮しでは行っていなかった。

39年前のことである。
あのころ、東京を感じさせてくれたのは、雑誌のぴあだった。
こんなにも東京では、あちこちで毎日いろんなことが催されているんだ──、
とにかく驚いていた。

ぴあも毎号買っていたわけではなかった。
学生で、しかもロクにアルバイトもしていなかった。
年中金欠だった。

ときどきぴあを買っては、東京を感じていた、ともいえる。
関心あるのはクラシックのコンサートと映画だった。

それ以外のページも眺めていた。
お金さえあれば、今日はここに行って、明日はあそこ……、楽しいだろうなぁ、
そんなことを妄想していた。

シェリングのコンサートを知ったのは、ぴあだったような気がする。
シェリングのコンサートがあるんだ、くらいで受け止めていたのではないだろうか。

ぴあも毎号買えなかったのだから、オーケストラのコンサートのチケットは高くて無理だった。
それでもシェリングはS席を、かなり無理して買ったものだった。

そうやって聴きに行ったにも関らず、演奏された曲をすっかり忘れてしまっている。
それでも、この日聴いたヴァイオリンの音は、
初めて聴くヴァイオリンのナマの音だった。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(その2)

 どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
(虚構世界の狩人・「素朴で本ものの良い音質を」より)
     *
五年半前の(その1)も、同じ書き出しだ。

別項「218はWONDER DACをめざす(番外)」で書いていることが、
ここでの瀬川先生が書かれていることと重なってきたからだ。

《いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。》
まさにそうだった。
四人が、その場にいた。

みな同じだった(はずだ)。

この時のオーディオは、《難しいものでもしかつめらしいものでもなく》、
ただただ楽しいものだった。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その24)

Pro-Jectのアナログプレーヤー、Xtention 10TAの発売が中止になった、
ステレオサウンド・オンラインの記事にあった。

《搭載アームの供給が困難になったため》と記事にはある。
それ以上のことは書かれていないか、
記事にあるXtention 10TAの写真をみれば、トーンアームがJELCO製なのはすぐにわかる。

その19)で書いているように、
JELCO 市川宝石株式会社は4月から休業しているが、どうも廃業するようだ、という話もある。

休業なのであれば、Xtention 10TAの発売延期となるだろうが、
実際は発売中止である。

記事には、《同型アームを搭載した「Xtention 9TA」については、アームの確保ができている》ため、
継続して販売される、とある。

ということは、確保分が終了すれば、Xtention 9TAの販売も終了となるか、
別のトーンアームを搭載して、型番に変更が加わるかもしれない。

ステレオサウンド・オンラインの記事の終りには、
「※4月13日の発表記事はこちら」とあり、
Xtention 10TAについての記事へのリンクがある。

その記事を読むと、《オルトフォン製9インチショートアームを搭載》とある。
Xtention 10TA発売中止の記事で、
JELCOのことについて一言も触れていないのは、そういう理由からなのか。

コロナ禍が、あらわにすることはまだ続くだろう。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その7)

誰が読んでいるのかわからない、いいかえると、
どれだけの知識や経験をもっているのかまったく不明な人たちに向けて書くのであれば、
きちんとしたオーディオの知識を身につけておくべきである。

こう書いてしまうと、たいしたことではないように受け止められるかもしれないが、
では、きちんとしたオーディオの知識とは、いったいどの程度のレベルのことなのか。
どれだけの知識をもっていればいいのか。
そのことについて書いていくのは、なかなか難しい。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の人も、
オーディオの勉強を、まったくしていなかったわけではないだろう。
少なくとも慣性質量という言葉は知っているのだから。

でも、その知識があまりにも断片すぎるのではないのか。
そんな気がする。

断片すぎる、ということは、知識の量が圧倒的に少ない、ということなのか。
そうともいえるし、これは以前書いていることなのだが、
知識の量だけでは理解には到底近づけない。

知識の有機的な統合があってこその理解である。
これはどういうことかというと、
これも以前書いていることのくり返しなのだが、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その6)

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」は、
あきらかに間違いだから即座に否定したわけだが、
もし私が悪意で「そうだよ」といったとしたら、
その人は、「やっぱり! そうですよね!」と大きな声で喜んだはずだ。

オーディオにおいて仮説を立てるのはよくあることだ。
仮説を立てて、検証していくことで学べることはある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」も、
その人にとっての仮説であったのだろう。
ずいぶん稚拙な仮説ではあっても、その人にとっては大事な仮説だったのかもしれない。

でも、仮説を立てるにも、ある程度の知識は必要となる。
CDの回転がどういう性質のものなのか、大ざっぱにわかっているだけで、
そして慣性とはどういうことなのかを、これも大ざっぱにわかっているだけで、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」という仮説は、
仮説ですらないことに気づくものだ。

私が「そうだよ」といって、周りにいた人が誰も否定しなければ、
その人は、SNSやブログなどに、その仮説は正しかった、と書いたのかもしれない。

インターネット普及前は、こんなことは起らなかった。
間違った仮説を発表できる場は、なかったといえよう。
せいぜいが、その人の親しい人とか、その人にオーディオのことを訊いてくる人に、
話すくらいでしかなかった。

けれど、インターネット普及後は違う。

ここで考えることがある。
オーディオをやっていくうえで、技術的な知識は必要なのか。

私は基本的には必要ない、と考えている。
オーディオのプロフェッショナルになるのであれば技術的知識は必要だが、
そうでなければ、所有しているオーディオ機器を自分で接続して使えるだけの知識があればいい。

ずっとそう思ってきた。けれど状況はインターネットの普及によって変ってきた。
その人が間違っている仮説を、さも正しいことのようにインターネットで公開した、としよう。

ほとんどの人が、まったく相手にしない。
けれどほんのわずかでも、それを信じてしまう人がいる。

そんな人はいないだろう、と思われるかもしれないが、
この項の前半で例に挙げた人は、
CDは角速度一定、アナログディスクは線速度一定という間違いを書いているサイトを、
大半のサイトが正しいことを書いているにも関らず、信じてしまった。

ごく少数ではあっても、あきらかな間違いを信じてしまう人がいる。
しかもインターネットは不特定多数の人に向けての公開である。
母数は、周りにいる人だけの時代よりもずっと大きい。

Date: 6月 15th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その5)

ある人がCDプレーヤーを、数ヵ月前に買い替えた。
その人は、重量級のCDプレーヤーを購入した、と喜んでいる。

その人が、それまで使っていたCDプレーヤーよりも重量があるから、
その人にとっては確かに重量級といえる(感じる)のだろうが、
重量という数値だけで判断するならば、傍からみれば、それほど重量級ではない。

かといって軽量級ではないのも確かだから、本人が喜んでいることに水を差すことはいわずにいた。
でも、その人がこんなことをいった。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」

CDプレーヤーでもターンテーブル(スタビライザー)をもつモノがある。
エソテリックの製品がそうだし、
47研究所の4704/04 “PiTracer”もそうだ。
古い製品では、パイオニアがPD-Tシリーズもそうだった。

これらの製品であれば、ターンテーブルプラッターの分だけ慣性質量は増す。
けれど、それ以外の大半のCDプレーヤーは、センターをクランプしているだけでディスクを回転させる。

CDプレーヤー本体の重量がどれだけあろうと、
ディスクの回転に関する慣性質量にはまったく関係ない。

それにCDプレーヤーにおいて、
つまり線速度一定の回転系において、慣性質量が増すことのデメリットはある。
もちろんターンテーブルプラッターをもつことで、
ディスクの回転のブレを抑えられるというメリットもある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の発言には、
その場にいた複数の人から、つっこみがあった。

その人は「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」であって、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですよね」ではなかった。

いちおう疑問形になっていたのだから、まだいいほうなのかもしれない。
でも、その人のなかでは、確信に近かったのではないか、とも感じた。

誰にも勘違いというのはある。
それでも、その人は、(その4)で書いている人と同じにみえる。
同じ人ではない。
(その4)の人と、ここで書いている人は、30以上齢が離れている。
世代はずいぶん離れている。

それでも、どの世代にもいる、ということなのか。
それともたまたまなのか。

Date: 6月 14th, 2020
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その8)

瀬川先生の「虚構世界の狩人」を読んだことも、
憶音について考えるきっかけに なっている。
     *
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
 だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから——ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
 しかし悲しいことに、やがて一千枚になんなんとするレコードが目の前に並ぶようになってしまうと、こういう幸せな状態は、もはや限られた少数のレコードにしか求めることができなくなってしまう。人は失ってからそのことの大切さに気がつく、とはよくぞ言ったものだ。
     *
レコードのジャケットを半分みえただけで、
そのレコードおさめられている音楽が、一瞬のうちに頭のなかで鳴ってしまう、という経験は、
音楽好きの人ならば、きっとあったはずだ。

でも、いまでは《ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、
やっと百枚ほどたまった》というような聴き方は、とおい昔のことになっているかもしれない。

瀬川先生が、この文章を書かれたころからすると、レコード(録音物)の価格は、
相対的に安くなってきている。
それにいまではインターネットにアクセスできる環境があれば、
ほぼ聴き放題の状態を簡単に得られる。

月に二〜三枚のペースで、百枚ということは三年から四年ほどかかる。
いまでは百枚(それだけの曲数)は、聴く時間さえ確保できれば、それで済む時代だ。
三年から四年かかる、なんてことは、いまでは悠長すぎるのかもしれない。

けれど、それだけの時間をかけながら、音楽を聴いてきたからこそ、
一瞬のうちに頭のなかで音楽が鳴ってくる、はずだ。

この経験は憶音に関係してくることのように感じているけれど、
そういう経験をもたない人も現れ始めていても、不思議とはおもわない。

Date: 6月 13th, 2020
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その7)

別項で、コーネッタについて書いている。
いつかはタンノイ……、いつかはコーネッタ……、というおもいはずっと持ち続けていたけれど、
いまさらコーネッタなのか……、というおもいもないわけではない。

なのにコーネッタなのは、ここでのテーマである憶音という仮説について、
検証してみたいから、という気持もあるのだろう。

それでも思うのは、MQAを聴いていなければ、実行にうつすことはしなかっただろう、ということ。
MQAで音楽を聴いていると、確かめたいことが次々と出てくる。

こんな仮説を、誰かがかわりに検証してくれることはないのだから、
自分でやるしかない。

Date: 6月 13th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その4)

食指が動かない、といってもしようがない。
まず、MQAで聴ける三味線で、しかも独奏のタイトルということで、
一枚購入したのは「はなわちえ 津軽三味線独奏集 Vol.1」である。

flac、WAV、MQAが192kHz、24ビット、
DSFが5.6MHzと11.2MHzが用意されている。

いうまでもなく私が購入したのは、MQAである。
元は11.2MHzのDSD録音とあるから、
そこが、MQAで聴きたい私としては、すこしばかりひっかかるところなのだが、
あまりこまかなことばかりいっていると、どれも買えなくなってしまう。

そうなってしまっては、オーディオマニアゆえの癇癪みたいなものである。

とにかくひさしぶりに聴く三味線である。
自分のシステムで聴いたのは、三十年以上前のことになる。

出している音も変っているので、記憶の上での比較も何にもならない。
はなわちえという人の演奏も初めて聴くわけだから、
とにかく、いまここで鳴っている音だけに耳を傾ける以外にない。

聴いていると、はなわちえの、この三味線をコーネッタで鳴らしたら、とやっぱり思ってしまった。
コーネッタはコーナー型だから、部屋のコーナーにそうやって設置すれば、
試聴位置はかぎられてしまうし、スピーカーに近いところにもなる。

まさに一人で聴くためのかたちになるわけで、
そうやって鳴ってくる三味線(独奏)を、どう感じるのかに興味がわいてくる。

7月1日のaudio wednesdayで、鳴らす。

Date: 6月 11th, 2020
Cate: ディスク/ブック

鉄腕アトム・音の世界(その2)

鉄腕アトム・音の世界」は、5月のaudio wednesdayに持っていくつもりでいた。

でも、誰も来ないだろうことは予想できていたし、
実際に誰も来なかったのだから、持っていかないことを選択した。

6月のaudio wednesdayには持っていくつもりは、最初はなかった。
前の晩に用意していて、ふと「鉄腕アトム・音の世界」が目に留った。

200Vの昇圧トランスが持っていくモノに加わってからは、
CDの枚数は少なくしたい、と思うようになってきた。
それにiPhoneには、MQAのライブラリーが充実してきているから、
CDを持っていかなくても済むといえば、そうなりつつある。

audio wednesdayに来る人の大半は、
私と同世代か上の世代の人たちである。
「鉄腕アトム」のアニメも、きっと見ていた人たちのはずだ。

その人たちがどういう反応をするのかに興味があったし、
5月のaudio wednesdayに持っていこうとしたのは、
音楽ではなく、こういうCDをアルテックはどんなふうに鳴らしてくれるか、
という点に興味があったからだ。

喫茶茶会記のアルテックで聴いてると、私のシステムで聴くよりも楽しい。
音そのものもそうだが、いっしょに聴いている人たちの反応があるから、
よけいに楽しい。

大きな驚きがあった、という感想を伝えてくれた人がいた。
翌日、amazonで注文した、とのことだった。

「鉄腕アトム・音の世界」に収録されている音たちは、
それまで世の中に存在しなかった音である。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

audio wednesdayの場を提供してくれている喫茶茶会記は、
四谷三丁目にあるジャズ喫茶である。

そのジャズ喫茶で、タンノイを鳴らす。
タンノイでジャズ、と書くと、
!か?、もしくは!?がつくだろう。

けれど菅野先生はスイングジャーナルで、
タンノイでジャズを、という組合せをやられていた。

井上先生は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
オートグラフを、マッキントッシュのMC2300とマークレビンソンのLNP2という組合せで、
やはりジャズを鳴らされている。

すごく実体感のある音が鳴ってきた、とあるし、
実際に井上先生に訊いたこともある。

いい音が鳴った、ということだったし、
ウッドベースの音は、ほんとうに気持ちよかった、とのことだった。

なので別項「妄想組合せの楽しみ(番外・その1)」では、
ジャズ喫茶の店主だったら、という妄想を書いている。

ジャズ喫茶の店主だったら、スピーカーを何にするか。
ロックウッドのMajor Geminiにする、と書いている。

タンノイのHPD385Aを二発、
独特のエンクロージュアに搭載したモニタースピーカーである。

コーネッタで、どこまで鳴らすか、は、当日の音を聴いてからだ。
コーネッタが、どこまで鳴ってくれるのか、が、いまのところの最大の関心事の一つである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その3)

シーメンスのコアキシャルで聴いた三味線は、
数枚だったが、すべてアナログディスクだった。

これを書きながら思い出したのは、CDになってから、
自分のシステムでは三味線の録音を聴いていないことだ。

正確にいえば、三味線単独の録音を聴いていない。
余所では数度聴いてはいる。

SACDが登場してからも、三味線の録音を聴きたい、とは思わなかった。
なので、三味線のSACDが出ているのかも知らない。

なのにMQAの音を継続して聴くようになってから、
三味線は、いったいどんなふうになるのだろうか、と思うようになった。

e-onkyoでは、純邦楽ということになる。
邦楽は、歌謡曲やJ-POPのことになっている。

e-onkyoで、純邦楽+MQAで検索すれば、いくつか表示される。
純邦楽のタイトル自体、e-onkyoにはそれほどない。

e-onkyoが特別少ないというのではなく、
レコード店でも扱いは小さい。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」の記事中にもあるが、
1976年当時でも、邦楽のコーナーがないレコード店はあった。

MQAのタイトルは少ないが、
flac、WAVはそこそこある、といえなくもない。
そのなかには聴きたい、と思う録音があるが、
残念なことにMQAにはなっていない。

理由は、純邦楽を録音しているレコード会社が、
MQAに関心がない、というところだろうか。

ハイレゾリューションで三味線を聴きたいのではない。
MQAで聴いてみたいのだ。

そうなると,現在のところのe-onkyoのラインナップは、食指がなかなか動かない。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その23)

黒田先生の「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
引用するのは、これで四回目になる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章だ。

レコード会社は、確かに《ディスクという物を売る会社》ではなく、
《音楽を売る会社》である。

レコードが、いまではアナログディスクのことを指し示す言葉として扱われるようになっているが、
レコード(record)は、記録、録音といった意味であるから、
音楽を録音して売る会社が、レコード会社であり、
時代時代によって、SPであったりLPであったり、
CD、SACD、MQA-CDでもあったりする。
それだけでなく、オープンリールテープ、カセットテープなどもあった。

ならばオーディオ会社は、何を売る会社なのだろうか。
スピーカーを売る会社、アンプを売る会社、
アナログプレーヤーを売る会社……、なのだろうか。

スピーカーやアンプを売っていることは確かだ。
それは当時、フィリップスが、LPやカセットテープを売っていたのと同じことだと捉えれば、
オーディオ会社は、音を売る会社ともいえる。

オーディオショウは、ならば、音を売るためのショウとも考えられる。
そうであるならばオーディオショウのあり方は、いまのままでいいのか、とも考えなければならない。

Date: 6月 8th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その2)

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
上杉先生が邦楽のための組合せをつくられている。

スピーカーシステムは、ヤマハのNS1000(Mが付くタイプではない)、
プリメインアンプがラックスのL309V、
プレーヤーしてステムがビクターのQL7Rで、カートリッジがエラックのSTS455Eである。

高価なシステムではないが、カラー見開きのページで、
これらオーディオ機器の集合写真は、なんとも雰囲気がよかった。
いかにも三味線、箏などの邦楽を聴くのに、ぴったりという感じが伝わってくる。

「コンポーネントステレオの世界」は、架空の読者からの手紙から始まる記事で、
架空の読者とオーディオ評論家の狙いと試聴によって、組合せができあがっていく。

邦楽での組合せでの架空の読者からの手紙には、こうある。
     *
 邦楽のレコードをきくには、たとえばワーグナーの楽劇とか、すさまじいロックのレコードをきく時のような、オーディオ的な面での、むずかしさはないかもしれません。しかし、邦楽には、独特の〝静けさ〟がどうしても必要で、レンジはせまくとも、音に対しての反応がシャープでないといけないようです。
     *
「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ時は、そういうものなのか、とおもったくらいだった。
その後、伊藤先生が三味線をきちんと鳴らすスピーカーはきわめて少ない、
その少ないスピーカーの一つが、シーメンスのスピーカーであること──、
これらのことをいわれているのを知って、たしかにそうだ、とおもった。

シーメンスのオイロダインで、三味線を聴きたかったけれど、
もうその機会は訪れないだろう。

でもシーメンスのコアキシャルでは、平面バッフルで鳴らしていたから、
三味線のレコードは聴いている。
といっても数えるほどしか聴いていない。

でも、私のなかでは、そのときのコアキシャルでの三味線の音が、
いまも聴きたい三味線の音につながっている。