オーディオの想像力の欠如が生むもの(その76)
オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう。
上書きしかできない者は「心に近い」音を求めることは無理なのかもしれない。
オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう。
上書きしかできない者は「心に近い」音を求めることは無理なのかもしれない。
マークレビンソンもマッキントッシュも、創業者の名前がつけられたブランドである。
この二社だけでなく、他にも創業者の名前がそのままブランドになった会社はいくつもある。
創業者はいつかは、そのブランドからいなくなる。
会社から去っていくこともあるし、この世から去っていくこともある。
創業者がいなくなれば、そのブランドも変っていく。
そういうものであり、その変化は嘆くことではない。
そうとわかっていても、今回のマークレビンソンのML50、
マッキントッシュのいくつかの製品を見ると、そういうこととは何か違うような気がしてならない。
創業者が去ったことだけによる変化なのだろうか──、と思ってしまう。
投資会社に買収されたことによる変化だけなのだろうか、とも思う。
陳腐なことをいうんだな、と笑われそうだが、
愛の不在だ、としか、いいようがない。
ルコントを再建したベイクウェルには、愛があった。
だからこそ、といえる。
いまマッキントッシュ、マークレビンソンに残っている人たちに、
同じ意味での愛はあるのだろうか。
愛ゆえのパチモン的新製品だとしたら、もうほんとうに終りでしかない。
同時に、ルコントは洋菓子のブランドである。
洋菓子は嗜好品である。
ではオーディオは?
そのあたりのことも考えているわけだが、
ここから先は、ここでのテーマとは大きく離れてきそうなので、割愛する。
マークレビンソンのML50が、つい最近発表になったばかりだから、
ついML50だけを取り上げてしまったけれど、
ML50だけではない、自らのブランドのパチモンを出してくるのは。
ここ数年のマッキントッシュの一部のモデルは、
マッキントッシュのパチモンとしか思えないかっこうをしている。
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」よりも早く、
「マッキントッシュがマッキントッシュでなくなるとき」がおとずれていた。
ただ、こちらも、現行のラインナップのすべてがパチモン的なわけではない。
マッキントッシュらしいアンプもある。
けれど、パチモン的新製品が、あまりにもパチモン的すぎる。
今回のマークレビンソンのML50が、いまのところ、これ一機種だけである。
ML50があっさり限定台数が売り切れてしまったりしたら、
この路線が今後続いていくことだって考えられる。
でも、いまのところML50だけである。
マッキントッシュは、もうそうではなくなっている。
一つ一つ機種名をあげたりは、もうしない。
別項で、これまで書いてきているからだ。
こういうパチモン的新製品を見るのは、つらい。
特に、昔憧れていたブランドの製品だと、よけいにそうである。
オーディオ・ブランドも、いまや投資対象であり、
一つのブランドがある会社が買収し、また別の会社に買収され──、
そんなことがけっこう続いている。
買収されることが、すべて悪とは考えていないけれど、
時にはそう口走りたくなることがある。
別項「オーディオと偏愛(その4)」で、ルコントのことを書いている。
だからよけいにML50の写真を見ていると、愚痴ってしまいたくなる。
一年ほど前の(その16)で、この項は終りのつもりでいた。
けれど、いまこうやって、また書いているのは蛇足かもしれないと思いつつも、
やっぱり書いておこう、という気持のほうが強い。
(その1)は七年ほど前。
だから、少しくり返しになるが、黒田先生の「風見鶏の示す道を」のことを書いておく。
《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》
ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。
駅が登場してくる。
幻想の駅である。
駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。
しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
*
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
*
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。
13歳のときに、「風見鶏の示す道を」を読んでいる。
それだけに記憶に強く残っている。
どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。
このレコード(録音物)だけが、行き先を告げてくれる。
けれど、その携えているレコードを、乗客(聴き手)は、どうやって選んだのだろうか。
嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードが示すのは、
どこまでいっても、耳に近い音なのではないだろうか。
心に近い音を示してくれることはないはずだ。
つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。
別項で「オーディオがオーディオでなくなるとき」を書いている。
そこで、「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」についても、
考えて書いていきたい、としている。
今回マークレビンソンのML50の写真を見て、まず思ったのは、
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」が、
いよいよ来たな、だった。
個人的には、マーク・レヴィンソンが離れた時点で、
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」だったわけだが、
それでもNo.20は、新体制の意気込みを感じさせるに足る製品で、
あえて、そんなことを言葉として発することはしなかった。
mark levinsonのロゴも少し変更になってから、
ずいぶん変ってしまったなぁ……、とは感じていた。
でも今回のML50を見ていると、
「マークレビンソンがマークレビンソンでなくなるとき」が来たな、と感じたのは、
マークレビンソンがマークレビンソンのパチモンを作ってどうするんだ!──、
そういう想いが根底にあるからだ。
しかも創立五十周年記念モデルである。
どういう発想から、こんな製品を出すことになったのだろうか。
ここが、ほんとうに知りたい。
私がオーディオに興味をもった1976年において、
マークレビンソンのLNP2とJC2は、すでに高い知名度と評価を得ていた。
その約一年後にML2が登場した。
ほんとうにわくわくして、その登場を待っていたし、
実際のML2の音を聴いた時は、衝撃でもあったから、
LNP2の登場に、当時、衝撃を受けた人たちの気持はわからないわけではない。
そのマークレビンソンが五十年を迎える。
その記念モデルがML50とは、なんとも寂しい、という気持以上に、
落ちぶれてしまった感が強い。
しかも現行のラインナップもそうであるならば仕方ない、とあきらめるしかないのだが、
そうではないのだから、よけいに理解に苦しむ。
別項「B&W 800シリーズとオーディオ評論家」を書きながら、
この項のテーマを思い出していた。
B&Wの800シリーズのスピーカーシステムは、
感覚の逸脱のブレーキなのか、
それともアクセルなのか。
もしかすると、そのどちらでもなく自動運転のようなものなのか。
いまも管球式のプリメインアンプは、数社から出ている。
けれど、多くがアマチュアが組む管球式プリメインアンプと同じスタイルといえる。
出来がいいとか悪いとか、そういうことではなく、
メーカー製プリメインアンプらしいスタイルではない、ということだ。
数センチの高さのシャーシーをベースにして、
その上部(天板)に真空管、トランス類を配置していく。
昔ながらの自作アンプのスタイルである。
自作アンプと、つい書いてしまったが、
自作パワーアンプのスタイルである。
このスタイルを、いまではメーカーも採用することが多い。
個人的には多すぎる、と感じている。
ラックスのSQ38のように、フロントパネルをもつ管球式プリメインアンプは、
ほんとうに少なくなった。
管球式プリメインアンプはこれからも登場するだろうが、
フロントパネルをもつ管球式プリメインアンプは、もう絶滅機種かもしれない。
アマチュアが管球式プリメインアンプを作るのであれば、
このスタイルがいちばん手間がかからない。
同じスタイルを、オーディオメーカーもとるのか。
心情的に納得がいかない、といえば、そうである。
それならばプリメインアンプにすることはない、
セパレート型のほうが、よほどすっきりする。
管球式プリメインアンプであるのならば、
管球式パワーアンプに、入力セレクターとボリュウムをつけました的ではなく、
しっかりと管球式プリメインアンプであってほしいだけである。
コロナ禍のためCESがオンラインで開催されていて、
そこでの新製品の発表のニュースが、いくつか続いている。
別項で触れたJBLの4305Pがそうだし、
JBLと同じハーマン・グループのマークレビンソンからは、
初のヘッドフォンが登場し、さらにマークレビンソン創立五十年を記念しての、
ML50も発表になっている。
Mark Levinsonの頭文字MLを型番につけていたのが、
マーク・レヴィンソンが会社を離れ、新体制になったことで、
型番の頭にはNo.とつけられるようになり、最初の製品がNo.20だった。
ML2の出力を25Wから100Wに増したNo.20は、やはりA動作のパワーアンプだった。
ML50もモノーラル・パワーアンプである。
型番はML2風、フロントパネルのラックハンドルはNo.20風、
フロントパネルの意匠は、いまのマークレビンソンのアンプ風である。
これがなんともちぐはぐな印象でしかない。
音はどうなのかはわからない。
マークレビンソンのパワーアンプなのだから、それなりのクォリティであることは確かだろう。
それはいいのだが、このML50(限定モデルでもある)を欲しがる人は、
いったいどういう人なのだろうか。
限定というキャッチフレーズ、
創立五十周年記念というキャッチフレーズ、
そういったことに心がグラッとくる人向けなのだろうか。
(その15)で、
新製品の登場は、新性能の登場である。
たまには旧性能の登場といえるモノもないわけではないが、
基本的には、新製品は新性能の登場である、と書いている。
ML50のベースモデルは、No.536とのこと。
当然、そのままというわけではなく、細部のブラッシュアップが図られていることだろうし、
音もNo.536そのままというわけではないはずだ。
その意味では、No.536の音を高く評価している人にとっては、
安心して購入できるアンプということになる。
ハズレ、ということはないアンプである。
けれど、そのことは、わくわくしない、ということにもつながっていく。
私が大好きな洋菓子店のルコントは、2010年に閉店している。
それが2013年に突然、広尾に復活した。
ルコントの最初の店舗が東京に開店したのは六本木だった。
そこが本店だった。
その後、青山ツインタワーに店舗ができ、そこが本店となった。
2013年の再オープンからは、広尾が本店である。
残念なことに、この広尾本店も2021年10月に閉店となっている。
とはいえ、ルコントがなくなったわけではなく、
広尾本店が閉店しただけのことなのだが、
残る店舗はすべてテイクアウトのみなのが少し残念でもある。
一度閉店した店が、なんらかの理由で再び開店する。
その場合、経営は変っていることが多い。
ルコントも変っている。
ベイクウェルという会社が、ルコントを経営している。
どんな会社なのか知らなかった。
特に調べようともしなかった。
いまのルコントは、昔のルコントそのままといっていい。
変ってしまったなぁ……、と嘆くことはない。
昔からのルコントの定番であるフルーツケーキは、いまも美味しい。
日持ちするお菓子だから、手土産にぴったりでもある。
つい最近も、ひじょうに喜んでもらえた。
それにしても、これはすごいことである。
一度閉店し、経営の母体がかわっての再オープン。
なのに昔のルコントのイメージをまったくこわしていない。
なので、ようやく今日、ベイクウェルがどんな会社なのか、
なぜ、この会社がルコントを経営してるのか検索してみた。
詳しいことは二つの記事を、ぜひ読んでほしい。
ベイクウェルの代表取締役社長は黒川周子氏。
黒川氏自身、ルコントのファンだったそうだ。
料理王国の記事では、黒川氏の実家は菓子店とある。
そして実家の近くにルコントがあった、ともある。
どんな菓子店なのだろうか、と思いながら、料理王国の記事を読んでいた。
その後に、朝日新聞の記事を見つけた。
黒川氏の実家は虎屋である。
いうまでもなく、あの虎屋だ。
納得がいった。
そういう人だから、ルコントはルコントのままなのだ。
ダンピングファクターは、スピーカーの駆動力だと思っている人が、
キャリアの長い人であってもけっこう多い。
ここではくり返さないが、
ダンピングファクターとは、スピーカーのインピーダンス(つまり8Ω)を、
アンプの出力インピーダンスで割った値でしかない。
なので出力インピーダンスが低いほどダンピングファクターは当然高くなるわけだが、
この出力インピーダンスというのは、アンプのスピーカー端子のところでの値でしかない。
そして、何度もくり返すが、あくまでも静的なダンピングファクター(出力インピーダンス)だ。
ダンピングファクターが高ければ高いほど駆動力の高いアンプである──、
中学生のころは、わりと信じていたが、
NFBをかける前の周波数特性と出力インピーダンスのカーヴとの関連性に気づくと、
実質的なダンピングファクターの高さとは? と考えるようになってきた。
そして決定的だったのは、伊藤先生製作の349Aのプッシュプルアンプを聴いてからだった。
ウェスターン・エレクトリックの349Aは小型の五極管。
6F6と差し替えられる。
なので349Aでアンプを作るのであれば、
一般常識的には出力トランスの二次側からのNFBが必須である。
NFBがなければ出力インピーダンスはかなり高く、
いわゆるまったくダンピングのかからない低音になってしまう──、
つまりブンブンとうなってばかりで、締まりのない低音である。
伊藤先生のアンプはウェストレックスのA10の回路を採用したもので、
出力トランスの二次側からのNFBはかかっていない。
NFBは位相反転回路までで、出力管はそこに含まれていない。
なので349Aのプッシュプルアンプのダンピングファクターは、そうとうに低くなる。
それでも実際に音を聴くと、まったくそんな感じがしない。
ボンつくことがない。
むしろ澄明な低音が鳴ってきた。
出力わずか8Wのアンプだから、ウーファーを牛耳って、という感じではまったくないが、
いい音だな、と聴き惚れていたし、なんといっても音の減衰のしかたがほんとうに美しかった。
別項「ROOTS: MY LIFE, MY SONG」で、
ジェシー・ノーマンを、好きになれない歌手だと書いている。
嫌いなわけではなかったけれど、
その実力はもちろんすごいと感じていたけれども、
それでものめり込んで聴くことはなかった。
ベッティナ・ランスという写真家がいる。
彼女の名前を知ったのは、1989年ごろだった。
CREAという女性誌に載っている写真を偶然みかけての衝撃だった。
確か、そのページには「挑発」とつけられていたと記憶している。
モノクロの女性の写真が並ぶ。
担当編集者が「挑発」とつけたくなるのもわかる。
そんな感じの写真ばかりだった。
昨晩、なぜだかベッティナ・ランスのことを思い出した。
いま、どんな活動をしているのだろうか、そのくらいの好奇心で検索してみたら、
彼女のインスタグラムを知った。
昔見た写真もそこにあるのかな、と思いながら、iPhoneの画面をスクロールしていく。
するとジェシー・ノーマンの写真があった。
iPhoneの画面だから、それほど大きく表示されていたわけではない。
それでも、すぐさまジェシー・ノーマンだ、とわかるほどに、
ジェシー・ノーマンの雰囲気を捉えている。
それでもソファーに腰かけているジェシー・ノーマンは靴を脱いでくつろいでいる。
こういう表情もする人だったのか、と思ってしまった。
それだけでなく、この写真と早い時期にであっていれば、
ジェシー・ノーマンの音楽を、もう少し積極的に聴いていたであろう、とも思った。
BBCモニターの復刻を手がけているのは、グラハムオーディオばかりではない。
他にも何社かある。
そのうちの一つ、台湾のBestVoxは、
LS3/5A、LS5/9、LS3/6を復刻モデルとしてラインナップしている。
音は聴いていないし、実物も見ていない。
インターネット上の写真だけの判断なのだが、
外観のそっくり度はなかなかのレベルである。
ここは、いまではあまりに驚きに値しないのだが、
私が注目したのは、LS3/6に搭載されているユニットである。
HF1300そっくりなのである。
いまのところ外観についてしか、そっくりとはいえない。
構造や材質も同じなのかは、はっきりとしない。
それでもここまでそっくりな外観のHF1300を作るのか、と感心してしまった。
BestVoxのスピーカーは安価である。
AliExpressでも売っている。けれど送料が、けっこうかかる。
スピーカー本体の価格とそう変らない。
聴いてみたい、と思う以上に、
この復刻版LS3/6に搭載されているHF1300そっくりのスピーカーユニットを、
ぜひとも単売してほしい。
別項「2021年をふりかえって(その15)」で書いてるように、
JBLの4309は、聴いてみたいスピーカーの一つである。
その4309をアクティヴモニターとして仕上げた4305Pが発表になっている。
価格は2,200ドルだから、4309と比較してもそれほど高いわけではない。
アンプは当然マルチアンプ仕様で、いまどきのアクティヴ型だけにD/Aコンバーターを搭載している。
ここで嬉しいのが、MQA対応であること。
楽しい製品なような気がする。
昨年末の数日、ケント・ナガノのベートーヴェンの交響曲を集中して聴いていた。
ソニー・クラシカルから出ていたのは知っていたけれど、これまで聴いてこなかった。
TIDALにあるから、今回聴いた。
MQA Studio(44.1kHz)で聴ける。
オーケストラはピアノ協奏曲と同じ、モントリオール交響楽団である。
たまたま目についた四番から聴き始めた。
すぐに気づくのはライヴ録音だということ。
第一楽章の冒頭、聴いていて確認していた。
ケント・ナガノの指揮だということを。
なぜかというと、クライバーの演奏を思わせたからであり、
しかも観衆のざわめきも、クライバーの四番の演奏を思わせるところがあって、
それらがたまたま重なっての錯覚でもあった。
いい演奏だと私は思っている。
そう思ったからこそ、残りの交響曲も聴いたわけだ。
それでも、聴きながら、なんなんだろう……、とも感じていた。
だから聴き終ってから、児玉麻里とのピアノ協奏曲の一番と二番を続けて聴いた。
やはり素晴らしい演奏である。
菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」いわれていたように、
ベートーヴェンの音楽が、そこで響いている。
ケント・ナガノによる交響曲がベートーヴェンの音楽ではない、といいたいのではなく、
ピアノ協奏曲で感じたものが、交響曲では足りない、もしくは欠けている気がする。
動的平衡の音の構築物であってこそ、私にとっての「まさしくベートーヴェン」である、
と以前書いた。
ここのところが、ひっかかっている。
菅野先生のところで聴いたのなら、「まさしくベートーヴェン」と感じたのかもしれないし、
そうでないかもしれない。
それでも、私のところでも児玉麻里とのピアノ協奏曲は、やはり素晴らしいのだから、
しかもオーケストラも同じということは、
ケント・ナガノによるピアノ協奏曲における動的平衡の音の構築物には、
児玉麻里の存在があったから、としかいいようがない。