Archive for category ジャーナリズム

Date: 11月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)

こんなことがあったな、と思い出すことがある。

ずいぶん前のこと、おそらく書いた人も忘れているであろう。
そんな昔の話である。

あるオーディオ雑誌の特集記事にシェーンベルクのことが書かれていた。
シェーンベルクとその作品と、オーディオ機器とを関連づけた記事であった。

シェーンベルクだから、その文章にも12音技法のことが出てきて、
12音技法を中心に話が進んでいく。
そこにはある演奏家の録音が登場する。そして話は具体的になっていくわけだが……。

この文章を書いた筆者がとりあげていたシェーンベルクの作品は、12音技法以前の作品だった。
これは筆者の致命的なミスである。

私は、その特集記事が載った時期には、そのオーディオ雑誌には携わっていなかった。
一読者として、そのオーディオ雑誌を読んで、「あーっ」と思った。

これは、誰も気がつかないわけがない。
誰かは気づいていたはず。なのに……。

それから1年以上経ってからだったか、
どうして、その文章が訂正されることなく載ったのかを当事者(編集者)に聞くことができた。

やはり、すぐには気づいていた、とのこと。
でも原稿があがってきたのが時間的にギリギリで、
編集部による手直しでは訂正できない内容であり(ほとんどすべて書き直す必要があるため)、
といって筆者に書き直してもらう時間的余裕はまったくない。
ページを真っ白のまま発売するわけにはいかない。

だから、そのまま掲載した、と。

編集者は気づいていた。読者も気づいた。
筆者は気づいていない。

そういうことだってある(本来あってはならないことだけど)。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その8)

時代は変ってきている。
編集という仕事も変ってきている。

たとえば以前は罫線を、
どんな細い罫線であろうとキレイに引ければ、それだけでグラフィックデザイナーを名乗れた時代があった。

けれど、いまは罫線はコンピューターで指定すれば、どれだけ細い罫線でも、
誰にでも簡単に引けるようになってしまった。
だから罫線が引ける技術だけでは、デザイナーとは名乗れないし、それで食っていけるわけではなくなった。

こんな例は、他の業種でもいくつもあること。
出版の業界をみても、電子出版が主流となってくれば、
印刷、流通の会社の仕事は大幅に減り、なくなっていくことだろう。

コンピューターの導入で、すでにどれだけの写植の仕事がなくなってしまったことだろう。

写真に関しても同様である。
以前は撮影し、モノクロであれば紙焼きにしてもらっていた。
カラーであればポジフィルムだったわけだが、
デジタルカメラの登場と高性能化のおかげで、現像という仕事も減っているはず。

出版に関係している仕事が、私がいたころからは大きく変化してきたし、
これからも変化していく。

そういう状況の中にいて、編集者の仕事だけが変らない、ということはない。
変らなければならないし、変ってはいけないことも、編集という仕事にはある。
それは、編集という仕事が、出版という世界の中心もしくは中心に近いところにいてやる仕事であるからだ。

Date: 9月 26th, 2012
Cate: ジャーナリズム

附録について(その3)

附録をつければ、その附録が魅力的であれば、その雑誌の売行きは通常よりも増えるからこそ、
いまやいくつもの出版社のオーディオ雑誌に附録がつくようになったのだろう。

出版社は本を売る会社なのか。
本を売る会社だとすれば、附録をつけて売上げを伸ばすことは批判されることではないことになる。

けれど出版社は、本を売る会社ではないとしたら、附録をつけることの意味合いが変ってくる。

別項の、モノと「モノ」の(その2)、(その4)でも書いていることとだぶるけれども、
黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」の中にでてくる
フィリップス・インターナショナルの副社長の話をいまいちど引用しておく。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ
     *
出版社は、本という物を売る会社ではないはず。
たまたま、出版社が本来売るべきものをおさめる物として本という形態があったという見方もできる。

フィリップス・インターナショナルの副社長の話を読んで、
なるほどなあと思う編集者ならば、オーディオ雑誌に附録をつけることを行うとしても、
いま、どこの出版社でもやっているやり方とは違ってくるのではないだろうか。

Date: 9月 25th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その7)

“new blood”と”strange blood”のことは、
別項の「公開対談について」の(その10)のおわりのところで、ほんのちょっとだけ書いている。

組織が生きのびていくために新しい血(new blood)を定期的に、ときには不定期に入れていく。
新卒でその組織(会社)に入ってくる人も、中途入社の年齢的には若くはない人も、
その組織にとっては、入社時は新しい血であるはず。

新しい血はいつまでも新しい血ではない。
いつしか「新しい」がとれていってしまう。
だからこそ、組織は、また新しい血を求めていくのかもしれない。

“new blood”も”strange blood”も、
組織にとっては最初のうちは、どちらも新しい血であっても、
“new blood”はnew bloodではなくなる。
“strange blood”は、というと、新しい血ではなくなっても、strange bloodのままでいることだろう。

“new blood”と”strange blood”の、その違いはなんだろうか。
血の純度の高さの違いだ、と思う。
strange bloodは純度が高い血であるからこそ、つねにstrange bloodであり続けられる。

new bloodがいつまでも新しい血でいられないのは、
不純物が、その血に多いためではないだろうか。
純度の低さゆえに、組織の血に取り込まれてしまう。
純度が高ければ、そしてその高さを維持できれば、決して混じり合わない。そんな気がする。

strange bloodをもつ編集者がいる編集部は、面白い雑誌をきっとつくってくれる。
strange bloodをもつ者がいる業界は、きっと面白いはず。

Date: 9月 20th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その6)

「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」
気の合う者同士で本をつくっていても、それでは絶対におもしろいものはつくれっこない、
ということもいわれた。

私に、このことを話してくれたのは当時、編集顧問だったKさんだった。
そのころペンネームを使ってステレオサウンドにもときどき書かれていたし、
スーパーマニアの記事や、対談、座談会のまとめもやられていた。
私がステレオサウンドを離れてしばらくして、本名で書かれるようになった。

記憶違いでなければ、Kさんは中央公論の編集者でもあり、
フリーの編集者として、多くの人が知っている雑誌にも携わっておられたはず。

Kさんは、私の父と同年代か少し上の世代だと思う。
Kさんは、さまざまな本に、いったいどれだけ携わってこられたのだろうか。
かなりの数のはずだし、本の数が多いということはそれだけ多くの編集者とともに仕事をしてこられているわけだ。

そのKさんの言葉である。

雑誌の編集とは、とくにそういうものだ、と最近とみに思う。
Kさんからいわれたときは、そうなのかな? ぐらいの気持だった。

ステレオサウンドという雑誌は、いうまでもなくオーディオの雑誌であり、
その編集者は、オーディオという同じ趣味を持つ者ばかりが集まることになってしまう。
ある特定の趣味の雑誌は、ほかの雑誌よりも同じ傾向の人が集まりやすいのかもしれない。
だからこそ、Kさんは、あのとき、私にいわれたのかもしれない、といまにして思っている。

同じ部屋の空気を吸うのもイヤなヤツがいる仕事場では誰もが働きたがらないだろう。
気持ちよく仕事をしたい、というけれど、
気持ちよく仕事をしたいのが、仕事の目的ではなくて、編集者であれば面白い雑誌、
ステレオサウンド編集者であればおもしろいオーディオ雑誌をつくっていくのが仕事である。

いまのステレオサウンド編集部が、どういう人たちの集まりなのかは知らない。
気の合う人たちばかりの集まりなのかどうかはわからない。
でも、少なくとも「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!!」という人は、ひとりもいないような気がする。

さらに思うのは、”new blood”と”strange blood”のことだ。

Date: 9月 19th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その5)

こんなことをつらつら考えるのは、
以前にそこに在籍したことがあるからであって、
編集経験がなかったら、こんなことを考えることはない。
考えずに、「あぁ、こんな変な日本語、書いている」と思い、
今回は笑ってしまって、それでおしまいであっても、
こういうことがこれからも2度、3度……と続くようであれば、
まず筆者を信用しなくなるし、それから編集者を信用しなくなる、はず。
つまり、このことはステレオサウンドという本を信用できなくなってしまうことへとつながっていっている。

それは読者ばかりではない、はず。
ステレオサウンドに書いている筆者も、
こんなおかしな日本語が、これからも誌面に載っていくようなことが続けば、
編集者に対する信用が少しずつ薄れていく、ということもあっても不思議ではない。

人は絶対にミスをしない生き物ではない。
得手不得手があり、ミスもする。
だから編集部は複数の編集者によっている、ともいえる。
編集部のひとりひとりが得手不得手があり、それは人それぞれ異っていて、
ある人が気がつかない、今回のようなおかしな日本語も、
別の人が気づいて訂正すればいい。

自分の書いたものがステレオサウンドの誌面に載ったとき、
もう一度読みなおす筆者(書き手)であれば、編集部による訂正に気がつき自分のミスを恥ずるとともに、
編集者への感謝の気持も涌いてくる。

ミスに気がついた筆者は、次回からは同じミスはやらかさないだろうし、
よりよい文章を書くようにつとめていくいくのではないだろうか。
そして、編集部、編集者への信用、信頼も生れてくるに違いない。

それが今回のように、そのまま誌面に載ってしまうと、
その文章を書いた筆者は気がつかない。
そうなってしまうと、これからもそのままになってしまうかもしれない。

ここ数年、ステレオサウンドには、変な技術用語が載ることがある。
このことについては以前書いているので、
どういう用語なのかについては改めては書かないけれど、
編集部に技術的なことを得意とする人はいないのだろうか、と思う時がある。

そんなことはないとは思っているけど、
いまの編集部はみな同じことを得手として、同じことを不得手とする人ばかりなのかもしれない、と。

ステレオサウンド編集部にいたころに、いわれた言葉をおもいだす。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その4)

なにも、筆者からもらった原稿はいちど必ず紙に印刷しろ、
とそんなことをいいたいわけではない。

ただメールで送信されてくる原稿、つまりはテキストファイルをパソコンの画面で確認し、
DTPでつくられるのであれば、ページのレイアウトに必要な写真や図版、
これらもデジタルカメラで撮影していたり、パソコンでつくった図版であれば、
テキスト(原稿)とまとめてデータとして、デザイナーに渡される。

つまり原稿も写真も図版も、実際にいちども手にすることがなく、作業は進んでいく。
それがDTPなのだから、いちいち紙に印刷して、ということは時間とコストの無駄でもある。

そう思いながらも、そこには陥し穴的なところが潜んでいる気もする。
昔ながら編集の仕事を経てきた者と、
最初からDTPで編集を行ってきた者とでは、
たとえデータとして送信されてくる原稿に対しての気持、そこに違いがあるのではなかろうか。

これは人によっても違ってくる要素だし、一概にはいえない、ことなのだろうが、
それでも……と思いたくなる。

ステレオサウンド編集部がそうなのかどうかは知らない。
ただいまのステレオサウンドの誌面を見ていると、
ときに原稿がテキストデータとして取り扱われているのではないか、そんな気がすることもある。

だから、うっかり、おかしな日本語が誌面に載るのではないか。
つまり編集者が、部分的ではあるにしても、オペレーターになってはいないだろうか──、
そう思うのだ。

それとも、編集部は、おかしな日本語に気がついていて、あえてそのまま誌面に載せた、
ということも考えられる。
気がつかなかったのか、それとも気がついていて、なのか。
それは私にはわからない。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その3)

私がステレオサウンドにいた7年のあいだに、電算写植が登場し、ワープロも導入された。
編集の仕事の環境が変りはじめていた時期でもあった。

入ったばかりのころは手書きの原稿に直接朱入れしていたのが、
ワープロが導入されてからは、手書きの原稿をワープロで入力するとともに朱入れも行うようになった。

私がいたころ、手書きからワープロの原稿に移行されたのが早かったのは、黒田先生と柳沢氏だった。
そのあとに長島先生もワープロにされたように記憶している。

ワープロでもらった原稿も、いちど紙に印刷して朱入れを行っていた。
そんな時代を経験してきた。

現在のDTPへつながっていくごく初期の段階だけに、
いまのパソコンが編集の道具として活用されている状況とはずいぶん異る。

原稿は手書きにしろ、ワープロによるものにしろ、原則的に受け取りにいっていた。
メールに添付されて送信されてくるなんてことは、まだ想像もできなかった。

いまの編集作業のこまかいところは、わからない。
メールで送られてきた原稿を、編集部がどう処理しているのかはわからない。
ただ朱入れもパソコンで直接行っている気がする。
紙に印刷して朱入れして、その朱入れをパソコンで訂正、更新する、ということはやっていないのではないか。

パソコンを導入してDTPで本づくりをおこなっているのに、
しかも筆者からの原稿はテキストファイルで送信されてくるのだから、
あえて紙に印刷するなど、時間とコストの無駄、といえば、たしかに無駄である。

印刷しなくても、編集という仕事が機能するのであれば、それでいい、と私だって思う。
だが、ステレオサウンド 184号のおかしな日本語が誌面に登場したのは、
実は、そういうシステムが生んでいる弊害なのではないだろうか。

私は、なにか、そこに、筆者の書いたものが単なるデータとして処理されていくだけのような、
そんな感じさえ、つい想像してしまう。
だから、おかしな日本語が、うっかり載ってしまった──、そう思えてならない。

Date: 9月 15th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その2)

私が在籍していたころ(1980年代)のステレオサウンドでは、
筆者の原稿を受けとったら、まず担当編集者が、いわゆる朱入れをする。

この時代はまだワープロがやっと登場したばかりで、しかもそうとうに高価で大きなモノだったたら、
筆者からの原稿はすべて原稿用紙に手書きのものだった。
朱入れした原稿を、実質的に編集長だった編集次長の黛さん(いまは筆者として活躍されている)がチェックする。
そして活字にするために写植にまわすことになる。

写植があがってきたらコピーして、編集部全員で校正する。
私がステレオサウンドで働きはじめたころは、私をいれて6人だった編集者は、
私がいたころ少なかった時は、その半分だったこともある。
だいたい4、5人で校正する。

その次に写真や図版などがレイアウト通りになってくる青焼きと呼ばれるものをチェック(校正)する。
ほんとうは、この段階で文章のチェックをするものではないのだけれど、
どんなにチェックしても誤植は完全にはなくせないから、ここでも文字、文章のチェックを行っていた。
青焼きに朱をいれたものが印刷にまわる。

つまり編集者が4人いたとしたら、のべ10人の目、5人だとしたら12人の目をとおって、本になるわけだ。

いまのステレオサウンドの体制がどうなのかは知らないが、そう大きくは変っていないだろう。
担当編集者の次に編集長が、そして校正の段階で編集部全員がチェックしている、と思う。

なのに、今回のおかしな日本語は誰の目にも留まらずに、そのまま誌面に残ってしまっている。
編集者は、筆者の原稿を読んでいるのだろうか、と勘ぐりたくなる。
文字だけを追っているようになってしまっているのではないか。

ステレオサウンド 184号のおかしな日本語は、文字の間違いはない。
だからうっかり見過されたのか。

このことを小さなミスと受け取るか、
それとも編集者の存在を問うことにつながることとしてとるのか、
それは人によって違ってくるだろうが、私は小さなミスとは、どうしても思えない。

Date: 9月 14th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その1)

電子出版元年は、これまで何度いわれてきたことだろうか。
最近では、電出版元年に変り、自己出版元年ということばも見かけるようになってきた。

自己出版と同じ意味で、ダイレクト出版という言葉も登場した。
書き手が読み手にそのまま電子書籍を配信することで、
そうなると編集者の存在が問われることになる。

電子出版という言葉の登場以前から、
インターネットがこれだけ一般的なものとなり、
不特定多数の人たちになにかを発信していくことがこれだけ容易になってくると、
書き手と読み手の間に、これまでの紙の書籍では必ず存在していた編集者が、
必ずいるとは限らなくなる。

編集者不在でも(つまり出版社を通さなくても)本(電子書籍)を出すことができる、
情報が発信できることは、いい面もあればそうでない面もあって、
編集者不在がいいとは思っていない。

それでも、あえていいたいことがある。
紙の本では編集者が不可欠ではあるが、
ほんとうに編集者として機能しているのか、と問いたくなることが、
オーディオ雑誌を手にとってみると、どうしてもある。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 184号を書店で手にとってパラパラと立読みした。
5分と手にしていない、それでもある文章が目に留まった。

誰が書いているのか、どういう内容だったのかについては書かない。
その筆者を責めたいわけではないから。

それは、おかしな日本語だった。
それのどこがおかしいのか説明するのに、すこし時間がかかるくらい、
人によっては、どこがおかしな表現なの? と思われるものではあるのだが、
明らかにおかしな日本語であることは確かである。

こんなことを書いている私だって、どこまで正しい日本語を書けているのか、と振り返ることは多い。
だから、そんなおかしな表現を書いた筆者を、ここで名指ししたいとは思っていない。

問題にしたいのは、なぜ、そのおかしな日本語が誌面に載ったかということだ。

Date: 9月 3rd, 2012
Cate: ジャーナリズム

附録について(その2)

ステレオサウンド社が出しているHiVi。
先月出た9月号にケーブルメーカー、ゾノトーンのUSGケーブルが附録になっていた。
今月発売のHiVi10月号には、dtsとの共同によるブルーレイディスクが附録になる。

ここまでは知っていた。
昨日驚いたのは、ここで附録がいったん終るのではなく、まだまだ続くということ。
11月号にはまたUSGケーブルが附録になる。
今度はSUPRA製のものだそうだ。

そして1月号、3月号もUSBケーブルが附録になる予定だ、という。
1月号と3月号のUSBケーブルがどのメーカーになるのかは未定のようだ。

附録路線に進むと思われるHiVi。
それにしても……、と思う。
なぜ、ここまでUSBケーブルを立て続けに附録にするのか、と。
これはケーブルメーカーの競争心を煽っているのではないのか。

私がケーブルメーカーの関係者だったとしたら、
HiViの附録用のUSBケーブルには採算度外視で優れたものを提供する。
多少赤字になっても、それはいい広告になるからだ。
それも、9月号よりも11月号に、11月号よりも1月号に、1月号よりも3月号に提供したい、と考える。

HiViの読者の手元には4種類のUSBケーブルが集まることになる。
当然HiViの読者はこれらを比較する。
どれが優れているのか──。

この比較で圧倒的な良さを読者に提示できれば、次の購入に繋がる可能性は高い。
だから最初に附録になったゾノトーンのケーブルよりも、次に附録になるSPURAのケーブルよりも、
負担は大きくなっても、これらよりも高い品質のものを提供する。

読者にとっては、これはありがたいことのようにも思えるだろう。
良質のUSBケーブルも、ケーブル単体を購入するよりも安く手に入れることができるから。

で、ほんとうに読者にとって、これはいいことなのだろうか。
ケーブルメーカーの負担は増える。
それにHiViが附録路線を今後も積極的に行っていくのであれば、
ケーブルメーカーは、以前のものよりももっといいものを……、ということになる。
こんなことがループのように続いていけば、いずれ疲弊していくのではないだろうか。

附録を全面的に否定はしないけれど、
出版社の良心として、たとえばUSBケーブルを附録としたら、
次に別のメーカーのUSBケーブルを附録にするのはある一定の期間をあけるとか、
先に附録としてケーブルを提供したメーカーが不利にならないように、
ケーブルは同時期に提供してもらい、順次附録としていくとか、
そういう配慮なしに附録路線を続けていくことに、編集者はなんの疑問も抱かなくなったのか。
(もしかするとUSBケーブルに関しては、同時期に提供してもらっているということも考えられる。)

編集者が、このような煽る行為をやっていいのだろうか。

Date: 8月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集、本づくりとは・その1)

ステレオサウンド編集部にいたころは、
いかにしておもしろい本、いい本をつくるかということが編集という仕事だと思っていた。

ステレオサウンドをはなれて気がついたことがある。
本をつくるということは編集者にとって目的ではなく、手段だということに。

編集者がつくっていかなければならないもの(こと)は、他にある。
本をつくるのは、その実現のための手段として考えてみれば、
これからのオーディオ雑誌のあり方、つくり方が見えてくる。

Date: 8月 13th, 2012
Cate: オーディスト, ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)

ほぼ1年前に、ある言葉をオーディオ雑誌でみかけた。
そのときは、その言葉の語感がしっくりこなくて、それ以上の関心をもつことはなかった。

一昨日、あれこれ検索しているうちに、ふと思い立って、そういえば、あの言葉、一般的になったのだろうか、と、
カタカナではなく英語の単語として検索してみた。

1年前は、その筆者による造語だと、なんとはなしに決めつけてしまっていた。
筆者自身、本人による造語として使っていたように記憶している。

けれど実際にはアメリカではかなり以前から使われていて、
それも詳細については書かないが、差別に関する単語だった。

おそらく、この言葉を使われていた(というよりも提唱されていた、と受け取っている)筆者も、
その事実をご存知なかったのだろう。
その意味を知っていたら、不特定多数の読者の目に触れるオーディオ雑誌に、その言葉は使わない。

私が、この言葉をみかけた雑誌では、これから先、誌面に、この言葉が登場することはないはず。
それにその出版社から筆者のところへもなんらの連絡がいくであろう。
だから、誰が、どの言葉なのかについては、これ以上書くつもりは、いまのところない。

書きたいのは、無関心であったことへの反省である。
その言葉は、それ以前も、同じ筆者によって別の出版社の本で使われていた。
そのことも昨日知った。

見かけたときに調べていれば、すぐに気がつけたことを、ほぼ1年放ったらかしにしていたことになる。
無関心であったからだ。

その言葉の意味を調べるのは、たいした時間はかからなかった。わずか数分でしかない。
おそらく1年前に調べたとしても、いまと同じ検索結果が表示されたはず。
それをやらなかった。

その筆者による、その言葉について、賛同者もいる、否定的な人もいるだろう。
私と同じように無関心の人もいよう。
おおきくわけて、この3パターンがあり、このうち賛同者はときに盲目的であり調べずに同調し、
その言葉を使うのではないだろうか。
無関心であった人は、そのまま無関心のままだろう。
おそらく否定的な人のみが、この言葉の意味を調べたのではなかろうか。

そんなことをつい思ってしまった。

この時代、知らなかった、ではもうすまされなくなりつつある。
Google登場以前と以降では、まったく違う。

無関心ではいけない、と強制することはできない。
けれど、無関心であってはいけない人たちがいて、
その人たちが無関心であったから、その言葉がいままで放置されていたことになる。
私も、こうやって毎日ブログを書いていて、少なくない人たちがアクセスしてくださっている以上、
無関心でいてはいけなかった。

その言葉を見かけたときに語感的にしっくりこなかったのは、
なんらかの違和感に近いものを感じとっていたのかもしれない。
なのにその時、調べなかったのは、無関心であったから、というよりも無関心でいようとしたのかもしれない。
そのことへの反省がある。

たったひとつの言葉について、なんて大袈裟な、と思われるかもしれない。
でも、その言葉は、その言葉を使った人だけの問題にとどまらず、
その言葉を放置したまま、もしくは積極的に使っていくということは、
オーディオ界全体に関係してくることでもあるからだ。

Date: 6月 20th, 2012
Cate: ジャーナリズム

附録について(その1)

昨年末に出たステレオ誌は附録が話題になった。
Dクラスアンプの完成基板とACアダプターがついてきたわけで、
しかもDクラスアンプはラックスの開発によるものだから、
これだけのものがついてきて、いつもの定価よりは倍程度になっていても、お得な買物といえるだろう。
売り切れた書店も多かったようだ。

ステレオはその前からスピーカーユニットを附録としていたことがあった。
今夏もまたスキャンスピーク製のスピーカーユニットが附録となる。
ステレオを出版している音楽之友社では音楽の友にもバッグを附録としている。

附録がついている、ついてくるのは音楽之友社の出版物ばかりでなく、
いま書店に並んでいるオーディオベーシックにはインシュレーターが附録となっているし、
夏に出るDigiFi(ステレオサウンド)には、USB入力のDクラスアンプが附録となる。
ステレオサウンドではHiViにUSBケーブルを附録にする予定。

女性誌の附録の流れが、ついにオーディオ雑誌にも波及してきた、という感じで、
附録のおもしろさを喜ぶ人もいれば、附録に対して否定的な受け止め方もする人もいよう。

オーディオ雑誌の附録は、Dクラスアンプにしても、スピーカーユニットにしても、安いものではない。
本よりも高いものが附録となっている。
だから附録がついている号は、通常の定価よりも高くなる。
それでも附録そのものを欲しいと思っている人にとっては、充分お得な買物だから、通常の号よりも売れるだろう。

でも附録を必要としない人のために、附録なしでも売っているのか、と気になる。
いま売っているオーディオベーシックは、共同通信社のサイトをみるかぎりは、附録なしでは売っていないようだ。
通常1500円のオーディオベーシックを、
今号に限っては附録は要らない、という人でも2000円出して購入しなければならない。
わずか500円の差だから、ともいえる。

でもアンプやスピーカーユニットが附録となると500円程度の差ではなくなる。
DigiFiは通常1300円が2980円になる。これは附録なのか、と思ってしまう。

附録の波は、いまのところステレオサウンド誌にはまだ及んでいないように見える。
でも、オーディオ雑誌で──私がオーディオ雑誌を買うようになってから、ではあるが──最初に附録をつけたのは、
ステレオサウンドだった。
1978年12月に出た49号に、1979年の卓上カレンダーがついていた。
それまでのステレオサウンドの表紙からいくつかを選んでカレンダーに仕上げたものだった。
本の定価は1600円と、いままでと同じだった。

こういう附録は素直に嬉しいものである。
こういう附録の方が私は附録らしくて好感が持てるし、いまもつけてくれたら、と思う。

Date: 5月 31st, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その4)

なにがあったもので、なにがなくなったもの、と私が感じているのについてあえて書かないのは、
なにももったいぶって書かないのではない。

岩崎先生の文章や対談、座談会を読めばわかることだから、書かないだけのこと。
その岩崎先生の文章、発言はaudio sharingで「オーディオ彷徨」を公開しているし、
「オーディオ彷徨」の電子書籍(ePUB形式)にしたものもダウンロードできるようにしている。
まだまだすべてではないにしても、
かなりの数の個々のオーディオ機器について書かれたものはthe Review (in the past)で公開している。
それ以外の文章、座談会、対談はfacebookページの「オーディオ彷徨」を利用して公開しているのだから、
私が読んできた岩崎先生の文章、発言に関してはすべて読めるようにしている。
これから先も公開していく文章は増えていく。

だからこれらを読めば、すぐには無理かもしれないがいつの日か、はっきりとわかるはずである。
1回読んだだけでわからなければ、
それでもなにがあって、なにがなくなったのかを知りたければ、くり返し読めばいい。
集中して読むことで見えてくるものは、必ずある。
人によって、その時間は半年だったり、1年だったり、もしくはそれ以上かかるかもしれない。

それでもわからない人もいるかもしれない。
でも、それは「読んでいない」からだ。
そういう人に限って、「いまさら岩崎千明なんて」「岩崎千明なんてたいしたことない」などという。

そういう人は、もともと大切なものがなかった人だ、いまもない人だ。