Date: 9月 15th, 2012
Cate: ジャーナリズム
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オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その2)

私が在籍していたころ(1980年代)のステレオサウンドでは、
筆者の原稿を受けとったら、まず担当編集者が、いわゆる朱入れをする。

この時代はまだワープロがやっと登場したばかりで、しかもそうとうに高価で大きなモノだったたら、
筆者からの原稿はすべて原稿用紙に手書きのものだった。
朱入れした原稿を、実質的に編集長だった編集次長の黛さん(いまは筆者として活躍されている)がチェックする。
そして活字にするために写植にまわすことになる。

写植があがってきたらコピーして、編集部全員で校正する。
私がステレオサウンドで働きはじめたころは、私をいれて6人だった編集者は、
私がいたころ少なかった時は、その半分だったこともある。
だいたい4、5人で校正する。

その次に写真や図版などがレイアウト通りになってくる青焼きと呼ばれるものをチェック(校正)する。
ほんとうは、この段階で文章のチェックをするものではないのだけれど、
どんなにチェックしても誤植は完全にはなくせないから、ここでも文字、文章のチェックを行っていた。
青焼きに朱をいれたものが印刷にまわる。

つまり編集者が4人いたとしたら、のべ10人の目、5人だとしたら12人の目をとおって、本になるわけだ。

いまのステレオサウンドの体制がどうなのかは知らないが、そう大きくは変っていないだろう。
担当編集者の次に編集長が、そして校正の段階で編集部全員がチェックしている、と思う。

なのに、今回のおかしな日本語は誰の目にも留まらずに、そのまま誌面に残ってしまっている。
編集者は、筆者の原稿を読んでいるのだろうか、と勘ぐりたくなる。
文字だけを追っているようになってしまっているのではないか。

ステレオサウンド 184号のおかしな日本語は、文字の間違いはない。
だからうっかり見過されたのか。

このことを小さなミスと受け取るか、
それとも編集者の存在を問うことにつながることとしてとるのか、
それは人によって違ってくるだろうが、私は小さなミスとは、どうしても思えない。

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