Date: 9月 14th, 2012
Cate: ジャーナリズム
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オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その1)

電子出版元年は、これまで何度いわれてきたことだろうか。
最近では、電出版元年に変り、自己出版元年ということばも見かけるようになってきた。

自己出版と同じ意味で、ダイレクト出版という言葉も登場した。
書き手が読み手にそのまま電子書籍を配信することで、
そうなると編集者の存在が問われることになる。

電子出版という言葉の登場以前から、
インターネットがこれだけ一般的なものとなり、
不特定多数の人たちになにかを発信していくことがこれだけ容易になってくると、
書き手と読み手の間に、これまでの紙の書籍では必ず存在していた編集者が、
必ずいるとは限らなくなる。

編集者不在でも(つまり出版社を通さなくても)本(電子書籍)を出すことができる、
情報が発信できることは、いい面もあればそうでない面もあって、
編集者不在がいいとは思っていない。

それでも、あえていいたいことがある。
紙の本では編集者が不可欠ではあるが、
ほんとうに編集者として機能しているのか、と問いたくなることが、
オーディオ雑誌を手にとってみると、どうしてもある。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 184号を書店で手にとってパラパラと立読みした。
5分と手にしていない、それでもある文章が目に留まった。

誰が書いているのか、どういう内容だったのかについては書かない。
その筆者を責めたいわけではないから。

それは、おかしな日本語だった。
それのどこがおかしいのか説明するのに、すこし時間がかかるくらい、
人によっては、どこがおかしな表現なの? と思われるものではあるのだが、
明らかにおかしな日本語であることは確かである。

こんなことを書いている私だって、どこまで正しい日本語を書けているのか、と振り返ることは多い。
だから、そんなおかしな表現を書いた筆者を、ここで名指ししたいとは思っていない。

問題にしたいのは、なぜ、そのおかしな日本語が誌面に載ったかということだ。

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