オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)
こんなことがあったな、と思い出すことがある。
ずいぶん前のこと、おそらく書いた人も忘れているであろう。
そんな昔の話である。
あるオーディオ雑誌の特集記事にシェーンベルクのことが書かれていた。
シェーンベルクとその作品と、オーディオ機器とを関連づけた記事であった。
シェーンベルクだから、その文章にも12音技法のことが出てきて、
12音技法を中心に話が進んでいく。
そこにはある演奏家の録音が登場する。そして話は具体的になっていくわけだが……。
この文章を書いた筆者がとりあげていたシェーンベルクの作品は、12音技法以前の作品だった。
これは筆者の致命的なミスである。
私は、その特集記事が載った時期には、そのオーディオ雑誌には携わっていなかった。
一読者として、そのオーディオ雑誌を読んで、「あーっ」と思った。
これは、誰も気がつかないわけがない。
誰かは気づいていたはず。なのに……。
それから1年以上経ってからだったか、
どうして、その文章が訂正されることなく載ったのかを当事者(編集者)に聞くことができた。
やはり、すぐには気づいていた、とのこと。
でも原稿があがってきたのが時間的にギリギリで、
編集部による手直しでは訂正できない内容であり(ほとんどすべて書き直す必要があるため)、
といって筆者に書き直してもらう時間的余裕はまったくない。
ページを真っ白のまま発売するわけにはいかない。
だから、そのまま掲載した、と。
編集者は気づいていた。読者も気づいた。
筆者は気づいていない。
そういうことだってある(本来あってはならないことだけど)。