オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その4)
なにも、筆者からもらった原稿はいちど必ず紙に印刷しろ、
とそんなことをいいたいわけではない。
ただメールで送信されてくる原稿、つまりはテキストファイルをパソコンの画面で確認し、
DTPでつくられるのであれば、ページのレイアウトに必要な写真や図版、
これらもデジタルカメラで撮影していたり、パソコンでつくった図版であれば、
テキスト(原稿)とまとめてデータとして、デザイナーに渡される。
つまり原稿も写真も図版も、実際にいちども手にすることがなく、作業は進んでいく。
それがDTPなのだから、いちいち紙に印刷して、ということは時間とコストの無駄でもある。
そう思いながらも、そこには陥し穴的なところが潜んでいる気もする。
昔ながら編集の仕事を経てきた者と、
最初からDTPで編集を行ってきた者とでは、
たとえデータとして送信されてくる原稿に対しての気持、そこに違いがあるのではなかろうか。
これは人によっても違ってくる要素だし、一概にはいえない、ことなのだろうが、
それでも……と思いたくなる。
ステレオサウンド編集部がそうなのかどうかは知らない。
ただいまのステレオサウンドの誌面を見ていると、
ときに原稿がテキストデータとして取り扱われているのではないか、そんな気がすることもある。
だから、うっかり、おかしな日本語が誌面に載るのではないか。
つまり編集者が、部分的ではあるにしても、オペレーターになってはいないだろうか──、
そう思うのだ。
それとも、編集部は、おかしな日本語に気がついていて、あえてそのまま誌面に載せた、
ということも考えられる。
気がつかなかったのか、それとも気がついていて、なのか。
それは私にはわからない。