オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その3)
私がステレオサウンドにいた7年のあいだに、電算写植が登場し、ワープロも導入された。
編集の仕事の環境が変りはじめていた時期でもあった。
入ったばかりのころは手書きの原稿に直接朱入れしていたのが、
ワープロが導入されてからは、手書きの原稿をワープロで入力するとともに朱入れも行うようになった。
私がいたころ、手書きからワープロの原稿に移行されたのが早かったのは、黒田先生と柳沢氏だった。
そのあとに長島先生もワープロにされたように記憶している。
ワープロでもらった原稿も、いちど紙に印刷して朱入れを行っていた。
そんな時代を経験してきた。
現在のDTPへつながっていくごく初期の段階だけに、
いまのパソコンが編集の道具として活用されている状況とはずいぶん異る。
原稿は手書きにしろ、ワープロによるものにしろ、原則的に受け取りにいっていた。
メールに添付されて送信されてくるなんてことは、まだ想像もできなかった。
いまの編集作業のこまかいところは、わからない。
メールで送られてきた原稿を、編集部がどう処理しているのかはわからない。
ただ朱入れもパソコンで直接行っている気がする。
紙に印刷して朱入れして、その朱入れをパソコンで訂正、更新する、ということはやっていないのではないか。
パソコンを導入してDTPで本づくりをおこなっているのに、
しかも筆者からの原稿はテキストファイルで送信されてくるのだから、
あえて紙に印刷するなど、時間とコストの無駄、といえば、たしかに無駄である。
印刷しなくても、編集という仕事が機能するのであれば、それでいい、と私だって思う。
だが、ステレオサウンド 184号のおかしな日本語が誌面に登場したのは、
実は、そういうシステムが生んでいる弊害なのではないだろうか。
私は、なにか、そこに、筆者の書いたものが単なるデータとして処理されていくだけのような、
そんな感じさえ、つい想像してしまう。
だから、おかしな日本語が、うっかり載ってしまった──、そう思えてならない。