Archive for category ジャーナリズム

Date: 1月 23rd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その9)

岡先生によれば、「db」誌の創刊は1967年11月で、
創刊号の表紙いっぱいを”The State of the Art”という文字で飾っていた、とのこと。

1977年11月号で創刊10周年を記念して「db」誌は、「その後のステート・オブ・ジ・アート」特集を行っていて、
その特集を読めば、アメリカの、それもオーディオ界で”State of the Art”にどんな意味付けを、
そこに行なっているかということがわかる、と書かれている。

「db」誌の創刊10周年の特集でいわれていることを要約すると、
“revolutionaly break-through in sound technology”
(音響技術における革命的に壁を破ったもの)
ということになるようで、かなり狭い意味に限定されている、と岡先生はされている。

さらに例として、マーク・レヴィンソンによる見解(レヴィンソンは自社のアンプにこの言葉を冠している)、
「技術的に達成される最高のもの」もあげられ、両者に共通する技術を重視している点──、
つまり単なる名器とか逸品といった漠然たるものではなく、
「技術、とくに新しい技術がどのように高度に実現しているか」ということに大きな意味が、
そこに含まれている、とされている。

ここまでくるとステレオサウンド 41号の特集「世界の一流品」と
49号の特集「State of the Art賞」の違いがはっきりとしてくる。

このころのステレオサウンドには特集の最初のほうに、
各評論家による前書き・後書きにあたるものが必ず掲載されていた。

41号では「私の考える世界の一流品」、
49号では「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」というタイトルで、
選考された方々の”State of the Art”にたいする考え方・解釈について書かれている。

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その8)

“State of the Art”をGoogleの翻訳サービスでみてみると、「最先端」と表示される。
なんともそっけない答である。

“state”は、状態、ありさま、様子という意味だから、
直訳すれば”State of the Art”は「芸術の状態」ということになるわけだが、
“art”を芸術というふうに単純にとらえれば、の話である。
このことは岡先生も指摘されていて、
英語の堪能な二、三のひとに訊ねてみても、
「ぴったりした日本語におきかえようがないのではないか」ということになったと書かれている。

最先端も”State of the Art”の意味のひとつではあっても、
最先端、と言い切ってしまえるわけでもない。

結局、”art”をどう解釈するのか。
岡先生は、愛用のランダムハウス英語辞典で、”art”の項をひかれている。
そこには、
exceptional skill in conducting any human activity
the craft or trade using these principles or methods
という解もある、とのことだ。

オーディオの世界における”State of the Art”の”art”はそういう意味とするべきなのであろう、とされ、
さらにつづけて、もうひとつの手がかりとして「db」という音響エンジニア向けの専門誌をあげられている。

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その7)

State of the Artとは、いったいどういう言葉なのだろうか。

私はステレオサウンド 49号にて、こういう言葉があるのを知った。
49号の特集の巻頭には、
岡先生による「Hi-Fiコンポーネントにおける《第一回STATE OF THE ART賞》の選考について」という文章がある。

岡先生も書き出しは、
「まず、〝ステート・オブ・ジ・アート〟という言葉から説明しなければなるまい。」とされている。

岡先生によれば、State of the Artという言葉がオーディオ界に入り込んできたのは、
1960年代になってきてからであろう、とされている。
「High Fidelity」誌のテストリポートに稀に、こういう言い回しがされるようになってきて、
実際には〝ステート・オブ・ジ・アートというに値する〟
〝オーディオ・テクノロジーのステート・オブ・ジ・アートの所産〟という使われ方で、
「ひじょうにすぐれた製品にたいする特別な意味あいをそこに含めて用いられていた」とのこと。

1970年代にはいり登場してきた「Absolute Sound」誌では、
推薦するオーディオ機器の最上級のものに〝ステート・オブ・ジ・アート〟級として用いて、
それ以降、ほかの雑誌でもこの言葉がさかんに用いられるようになり、
さらにはアメリカのオーディオの広告では濫用気味なほどにもなっていたらしい。

このころ、すでにSOTAという略語も登場し、ソタと発音するようになっている。

State of the Artの定義については、
ぜひステレオサウンド 49号の岡先生の文章をお読みいただきたいところだが、
もう30年以上前の本だけに、手もとにないという方も少なくないだろうから、
もうすこし岡先生の文章を引用しながら書き進めたい。

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その6)

ステレオサウンド 41号の2年あとに出た49号で、
ステレオサウンドによる賞が始まっている。
49号でのState of the Art賞に選ばれているスピーカーシステムは下記のとおり。

●スピーカーシステム
 アルテック A5
 JBL D44000 Paragon
 QUAD ESL
 パイオニア Exclusive 3401W
 JBL 4350A
 JBL 4343
 ダイヤトーン 2S305
 ヴァイタヴォックス CN191
 チャートウェル LS5/8
 パイオニア CS955
 Lo-D HS10000
 ボザーク B410 Moorish

41号は41機種のスピーカーシステムだったのが、
名称が「世界の一流品」から「State of the Art」に変更になったのにともない選ばれたのは12機種。
1/3以下の数に減っているし、
41号ではヤマハのNS451をはじめ、
国産の比較的安価なブックシェルフ型もいくつか選ばれているけれど、
49号ではブックシェルフ型と呼べるモデルはない。

パイオニアのCS955はスタンドを必要とするタイプだけに、大型ブックシェルフと呼べなくもないけれど、
41号でのNS451、オンキョーM3、デンオンSC104といったブックシェルフ型を標準的なサイズとすれば、
CS955はセミフロアー型と呼びたくなる大きさである。

価格の面から見ても、
State of the Art賞に選ばれたスピーカーシステムで最も安価なのはQUAD・ESLの180000円(1本)と、
41号でのNS451の26500円とは大きな違いをみせている。

49号でのスピーカーシステムは、
41号から49号までに発表された新製品を除けば、当然とはいえ41号で選ばれたスピーカーシステムばかりである。

41号で選ばれ49号では選ばれなかったスピーカーシステムの一部は、
50号での旧製品のState of the Art賞で選ばれている。

参考までに50号でState of the Art賞に選ばれているスピーカーシステムは下記のとおり。
 エレクトロボイス Patrician 600
 JBL D30085 Hartsfield
 タンノイ Autograph
 KEF LS5/1A
 シーメンス Eurodyn
 ラウザー(ローサー) TP1
 AR AR3a
 JBL Olympus S7R

Date: 12月 19th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その5)

いまはステレオサウンドグランプリ(Stereo Sound Grand Prix)と名称になっている賞は、
以前はコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー(Components of The Year)だったし、
その前はステート・オブ・ジ・アート(State of The Art)だった。

ステート・オブ・ジ・アート賞の最初は49号(1978年12月発行)であるから、
ステレオサウンドの、いまにつづく賞は、ここから始まった、ともいえるけれど、
実際にはこの2年前、1976年12月に出た41号から始まった、とみるべきである。

ステレオサウンド 41号の特集は「コンポーネントステレオ世界の一流品」であり、
賞がつく名称こそ使われていないが、
記事全体のつくり方を41号と49号を比較してみると、同じといえる。

41号で「世界の一流品」として選出されているコンポーネントは下記のとおり。
●スピーカーシステム
 JBL 4350
 JBL 4343
 JBL D44000 Paragon
 アルテック A5
 QUAD ESL
 ボザーク B410 Moorish
 ヴァイタヴォックス CN191
 タンノイ Arden
 タンノイ Devon
 タンノイ Eaton
 ダイヤトーン 2S305
 シーメンス Eurodyn
 シーメンス Europhon
 JBL 4333A
 JBL L300
 アルテック 620A
 エレクトロボイス Sentry IVA
 クリプシュ K-B-WO Klipsch Horn
 ラウザー TPI Type D
 ロックウッド Major Gemini
 ロックウッド Major
 KEF Model 5/1AC
 KEF Model 104aB
 KEF Model 103
 ロジャース LS3/5A
 アコースティック・リサーチ AR10π
 キャバス Brigantin
 スペンドール BCII
 アリソン Alison One
 ダルキスト DQ10
 マグネパン MGII
 セレッション UL6
 ビクター SX3III
 ヤマハ NS690II
 サンスイ SP-G300
 サンスイ LM022
 ビクター S3
 ヤマハ NS451
 デンオン SC104
 ダイヤトーン DS251MKII
 オンキョー M3

アンプ、チューナー、プレーヤー、カートリッジなども選出されていて、
これらについても書き出そうと最初は思っていたものの、
けっこうな数になるので、スピーカーシステムだけにしておくが、
41号で選出されたスピーカーシステムの中で最も高価なのはシーメンスのEurophonで、145万円(1本)、
反対に最も安価なのはヤマハのNS451で、26500円(1本)。
50倍以上の開きがある。

Europhonは2ウェイのスピーカーシステムだが、パワーアンプ内蔵でしかもマルチアンプ駆動ということも、
高価な理由でもある。
アンプを搭載していないスピーカーシステムでは、
やはりシーメンスのEurodynで、110万円(1本)。

Date: 12月 18th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その4)

座談会での発言は、誌面にそのまま載るわけではない。
だれかがまとめるわけだから、そこでなんらかの修整がはいる。

そんなことせずに話されたことをそのまま活字にすればいいじゃないか、と思われる方もいるだろうが、
それをやってしまうと、その場で座談会を聞いていればわかることも、
ただそのまま活字にした場合は意味がはっきりしないことも出てくる。

互いの顔を見ながらの座談会と活字だけの場合との違いが、そこにある。
それに文量の問題も当然あって、編集者なり、だれかがまとめることになる。

ステレオサウンドとラジオ技術とでは、まとめる人が違う。
もうこれだけでも、たとえまったく同じことが話されていたとしても活字になる場合には、違うものとなる。

そういうことも含めて、これまで読み比べることができた。
今年から、そんな楽しみがなくなったわけだが、
そういう楽しみよりも、ラジオ技術らしい記事をその分読めるほうがうれしい。
暮に出る号だから、と、なにか特別な記事が必要というのは、
これほどどのオーディオ雑誌も賞を発表している状況では、逆にありきたりな印象さえ漂ってくる。

しかも季刊誌ともなると、年に4冊しか出ない。
そのうちの1冊の特集が、賞関係の記事になってしまうことがこれまでもずっと続いてきているし、
たぶん、これからもまだまだ続いていくのだろう、と思うと、
この気持はなんと表現したらいいのだろうか──、
ありきたり、代り映えのしない、といったものとも違う、
少し言葉が過ぎるかもしれないと思いつつも、空虚──、そんなことを感じてしまう。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その9)

「なくなったもの」がなんであるのかに気がついた、として、
それで即面白いオーディオ雑誌がつくれるようになるわけではない。

気づくことで、面白いオーディオ雑誌をつくっていくための方向に目を向けた、ということである。

「なくなったもの」に気づけば、
これから先、何を考えていかなければならないのか、何をしていかなければならないのか、
そのためには何が必要になるのか、が見えてくるようになる。

何が必要になるのか──、
これだけはあえて書いておく。
別項「オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは)」でもふれている”strange blood”である。

もうひとつ書いておくと、「なくなったもの」と書いているのだから、
ずっとずっと以前のステレオサウンドには「あったもの」である。
ずっと「ないもの」ではないということである。

「なくなったもの」がわかれば、
そのころのステレオサウンドにとっての”strange blood”とは、ということもはっきりと見えてくるはずだ。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その3)

ラジオ技術のコンポ・グランプリの審査員は、最初のころはどうだったのかは知らない。
けれど私がオーディオに関心をもちはじめたころから、石田善之氏が途中から加わっただけで、
高島誠氏、岡俊雄氏、長岡鉄男氏ほか、亡くなられた人がいて、減っていくだけであった。

ずっとそういう状態だったから、いつかはコンポ・グランプリも終りをむかえる日が来るのだろう……、
とは思っていたけれど、ふいに訪れた、という感じである。

私は個人的にラジオ技術からコンポ・グランプリが消え、喜んでいる。
コンポ・グランプリによって毎年1月号は、そこそこの頁が割かれてしまう。
私がラジオ技術に求めている記事が、その分減ってしまう。

まぁ、それでもラジオ技術は月刊誌だから年に12冊出る。
そのうちの1冊がコンポ・グランプリ、それも大半の頁がそうとはいうわけではないから、
12分の1であれば(実際にページ数で換算すれば、もっと小さくなる)、
これはこれで楽しみかな、という部分もあった。

ステレオサウンドも賞をやっている。
そのステレオサウンドの賞とコンポ・グランプリでは、以前は岡先生と菅野先生が審査委員としてだぶっていた。
ステレオサウンドは、選ばれた各機種について最初のころは、筆者ひとりによる書き原稿だった。
それが座談会になってしまい、そのままずっと続いてきている。
今年も座談会での紹介である。

ラジオ技術も座談会でなのだが、
ここでステレオサウンドとラジオ技術の違いが出てくる。
岡先生、菅野先生がどちらの賞にも共通しているけれど、座談会での発言を読み比べるという楽しみがあった。

ステレオサウンドもラジオ技術も選考日は11月の上旬である。
日が近い。
選ばれる機種も重なることも多い。だからこそ読み比べるわけである。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その2)

いまでは、どのオーディオ雑誌も暮に出る号で、それぞれの賞を決めて発表する。
この賞をオーディオの世界に最初に持ち込んだのが、ラジオ技術である。

ラジオ技術のコンポ・グランプリは、記憶違いでなければ1970年に始まっている。
コンポ・グランプリは通称であり、正確にはベスト・ステレオ・コンポ・グランプリなのだが、
ちょっと長いのでコンポ・グランプリと略させてもらう。

なぜラジオ技術はコンポ・グランプリを始めたのか。
その理由は、古くからオーディオで仕事をしていた人から聞いて知っている。
それをここで書くのは控えたい。

とにかく、ある理由からラジオ技術のコンポ・グランプリが始まった。
その理由を知る者からすると、ここまで続いたのが不思議に思えるけれど、
それだけ続けてきたということは、コンポ・グランプリのもつ影響力があったからだろうし、
おそらくコンポ・グランプリが発表される号は、他の号よりも売れたのだろう。

とにかく続いてきた。
40年以上続いてきたわけだ。

そのコンポ・グランプリを、今年ラジオ技術は行わなかった。
その理由は、ラジオ技術1月号に載っている。
未読だから外れているかもしれないが、
いくつかのあるであろう理由のなかで最も大きいのは審査委員に関係することのはず。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その1)

ラジオ技術が書店売りをやめてから数年が経つ。
秋葉原の書店に行けば店頭売りされているけれど、
その秋葉原の書店も、ラジオデパートの2階にあった電波堂書店も今夏閉店してしまい、
ラジオ技術を置く書店が、ひとつ減っている。

ラジオ技術は面白いオーディオ雑誌である。
洗練はされていない。だから、あんな雑誌、という人もいることは知っている。
ラジオ技術の執筆者の方々を素人集団と呼ぶ人も知っている。
そう呼ぶ人が実のところ、ご本人はクロウトだと思い込んでいるのだろうけど、はなはだあやしかったりする。

たしかにアマチュア(素人とはあえて書かない)の方々の発表の場になりつつあるラジオ技術。
だからこそ、私はラジオ技術が面白いと感じている。
こんなアイディアもあるのか、と感心する例が、決して少なくない。

最近ではネルソン・パスの記事の翻訳が不定期で載っている。
パスの記事は英文でならインターネットで読めるけれど、
やはり日本語で読めるのは、正直助かる。

ステレオサウンドは完全に買うのはやめてしまったけれど、
ラジオ技術だけは、不定期ではあるけれど秋葉原に行った際に購入している。
まだまだ続いてほしいからである(できれば定期購読したいところなのだが)。

今号(1月号)は、例年通りならば、ラジオ技術の巻頭をかざる記事は、コンポ・グランプリである。
けれど今号に、コンポ・グランプリは載っていない、らしい。
らしい、と書くのは自分の目でまだ確かめていないからなのだが、
コンポ・グランプリは昨年で最後になった、ということだ。

今号には4ページほどの、なぜそうなったのかについての記事が載っている、とのこと。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)

2009年11月25日、同じタイトルで書いている。
その記事は1001本目であり、
1000本目で1クールが終り、1001本目から2クールがはじまる、といったことを書いた。

そのとき、

これまでの1000本は、すこし遠慮して書いてきたところもある。
これからの1000本は、「言いたいこと」をはっきりと書いていく。

こう結んでいる。

2日前の2012年12月11日の「続・ちいさな結論(その6)」が3000本目だった。
これで3クールが終り、4クールがはじまっている。

2000本目を書いたときも、これからの1000本は、はっきりと書いていく、と決めていた。
それでも、まだ遠慮して書いてきたところがある。
過激にならないようにおさえて書きながらも、はっきりと書いていくようつとめていた。

3000本目を書いた。すでに3001本目も書いた、3006本目まで書いている。
3001本目からは、「言いたいこと」をさらにはっきりと書いていこう、と決めている。

1000本ごとに少しずつ抑えているものを外しながら書いていけそうな気がしている。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その8)

30年以上前のステレオサウンドにあって、
最近(といってもここ数年ではなくて、もっと期間は長いのだが)のステレオサウンドに「なくなったもの」が、
なんなのか、もったいぶらずに書けばいいじゃないか、といわれるかもしれない。

ここでそれについて書くのは簡単であるし、時間もかからない。
なのに書かないのは、関係のない者から指摘されて、
そのことについてステレオサウンド編集部が納得したとしても、
自分たちで気がついたことでないことだから、いずれまた忘れてしまう。
大切なことから人はみな忘れてしまう──、
そのことをいくつもみてきているし、世の中にもいくつも、数えきれないほどある。

だからこそ自分たちで気がつかなければならないことである。
それができなければ、ステレオサウンドの誌面は良くすることはできても、さらにつまらなくなっていく。

ステレオサウンドのライバル誌として、一時期のスイングジャーナルがあった。
ジャズ・オーディオということに関してはステレオサウンドのライバルであったし、
ジャズ・オーディオに限れば、ステレオサウンドよりも影響力のあった雑誌だった。

そのスイングジャーナル、スイングジャーナルという会社とともに消えてしまった。
私には、このこともステレオサウンドがつまらなくなったことも同じ理由によるものだととらえている。
スイングジャーナルが熱を帯びていたときには「あったもの」が、
いつしか薄れ消えてしまっていた。
だから「つまらなくなった」という声が出はじめ、なくなった……。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その7)

編集者は、良くしていこう、と考えている。
記事を良くしていくことを考えている。
このことはいまのステレオサウンドの編集者も私が編集という仕事をやっていたときも同じはず。

けれど、これが時として雑誌をつまらなくさせていることに関係していることを、
編集という仕事を離れて、それもある程度の月日が経ってから気がついた。

ほんとうは編集という仕事をやっているときに気がつかなければならないことを、
私はそうではなかった。
だからこそ、いまの編集部の人たちも、
この「良くしていこう」という陥し穴にとらわれているようにみえる。

しかも「良くしていこう」とした成果は、あらわれている。
誤植が減ってきたのもそのひとつだし、発売日が守られているのももちろんそうである。

「良くしていこう」というのは決して間違いではないからこそ、
「良くしていこう」という陥し穴には、編集の現場にいるとよけいに気がつきにくいではないだろうか。

なぜなのかについて書くことも考えた。
けれど、これは編集の現場にいる人たちが自ら気がつかなければならないことである。

あったもの、なくなったもの──、
このふたつのことを考えていけば、きっと答にたどりつける。
たどりついてほしい、と思っている。

この項の(その4)に書いた「なくなったもの」ではない、違う何かがなくなっている、からである。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その6)

関係のない者が好き勝手なことを書いている──、
そう関係者は思うかもしれない、とそんなことは承知のうえで書いている。
それに「つまらなくなった……」と思っているのは、おまえのまわりの人間だけだろう、ともいわれることだろう。
類は友を呼ぶ、というから、私のまわりには「つまらなくなった……」という人が集まるのかもしれない。

それでも、あえてこんなことを書くのは、ステレオサウンド編集部にいたときには気づかなかったことが、
離れてみると、ふしぎなことによく見えてくる。
見えてくると、あったもの、なくなったものがはっきりとしてくる。
そうなると当然、なぜそうなってしまったのか、と考える、からである。

ステレオサウンドの185号が先日発売された。
新しい編集長になってまる二年、八冊のステレオサウンドが出た。

まだ読んでいない。
川崎先生の連載が載っていたころは、発売日に書店に行き購入していたけれど、
川崎先生の連載が終了してからは、購入をすっぱりとやめた。
それでも発売日には書店に行き、とりあえず手にとることはあったが、
もうそれもしなくなってしまった。
オーディオに対する情熱が失せたわけではない。

ステレオサウンドがもう必要なくなった、ということもある。
けれど、そうなったとしても、オーディオ雑誌としておもしろいものであれば、買うに決っている。
だから違うところに、
買わなくなった、すぐには手にすることもなくなってきたことに関係している何かがあるわけだ。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その5)

ながくステレオサウンドを読んできた人たちからよく聞くのは、
いまのステレオサウンドはつまらなくなってきた……、といったようなことだ。

ながく、といっても、それは人によって違う。
10年をながく、ととらえる人もいる。たしかに10年同じ雑誌を読んできたら、
それはながく読んできた、といえなくもない。
でも、ここで私がいっている「ながく」は20年でも足りない。
最低でも30年以上前からステレオサウンドを読んできたうえでの、「ながく」である。

私ですら、最初に買ったステレオサウンドから、もう36年になる。

だから10年をながく感じる読者、
たいていは30代前半か20代後半ぐらいの方が多いだろう。
そういう読者の人たちにとって、
ステレオサウンドは、いま出版されているオーディオ雑誌では圧倒的に面白く感じていても不思議ではない。
そういう若い読者からは、私くらいの読者、それよりながい読者の「つまらなくなった……」は、
単に昔を懐かしんでいるだけだろう、と思われている、とも思う。

いまのステレオサウンドの誌面のほうが、
昔のステレオサウンドよりもスマートだし、それに誤植も少ない、などといわれるかもしれない。
たしかに、それらの指摘を否定はしない。
誤植は、私がいたときよりも、私が読みはじめたときよりも、それ以前よりも、確実に減ってきている。
これは認める一方で、変な記述がときどき登場してくるのは、わずかとはいえ増えてきている気もする。

誌面構成はよくなっていると感じるところもあるけれど、そうでないとかんじるところもある。
それでも、ずっとずっと以前、私が読みはじめる前よりもずっと以前のステレオサウンドと比較すれば、
大きな違いである。

でも「つまらなくなった……」は、
そういう良くなったこととか、悪くなったこととは、それほど関係のないことである。