Archive for category ジャーナリズム

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その2)

いまでは、どのオーディオ雑誌も暮に出る号で、それぞれの賞を決めて発表する。
この賞をオーディオの世界に最初に持ち込んだのが、ラジオ技術である。

ラジオ技術のコンポ・グランプリは、記憶違いでなければ1970年に始まっている。
コンポ・グランプリは通称であり、正確にはベスト・ステレオ・コンポ・グランプリなのだが、
ちょっと長いのでコンポ・グランプリと略させてもらう。

なぜラジオ技術はコンポ・グランプリを始めたのか。
その理由は、古くからオーディオで仕事をしていた人から聞いて知っている。
それをここで書くのは控えたい。

とにかく、ある理由からラジオ技術のコンポ・グランプリが始まった。
その理由を知る者からすると、ここまで続いたのが不思議に思えるけれど、
それだけ続けてきたということは、コンポ・グランプリのもつ影響力があったからだろうし、
おそらくコンポ・グランプリが発表される号は、他の号よりも売れたのだろう。

とにかく続いてきた。
40年以上続いてきたわけだ。

そのコンポ・グランプリを、今年ラジオ技術は行わなかった。
その理由は、ラジオ技術1月号に載っている。
未読だから外れているかもしれないが、
いくつかのあるであろう理由のなかで最も大きいのは審査委員に関係することのはず。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その1)

ラジオ技術が書店売りをやめてから数年が経つ。
秋葉原の書店に行けば店頭売りされているけれど、
その秋葉原の書店も、ラジオデパートの2階にあった電波堂書店も今夏閉店してしまい、
ラジオ技術を置く書店が、ひとつ減っている。

ラジオ技術は面白いオーディオ雑誌である。
洗練はされていない。だから、あんな雑誌、という人もいることは知っている。
ラジオ技術の執筆者の方々を素人集団と呼ぶ人も知っている。
そう呼ぶ人が実のところ、ご本人はクロウトだと思い込んでいるのだろうけど、はなはだあやしかったりする。

たしかにアマチュア(素人とはあえて書かない)の方々の発表の場になりつつあるラジオ技術。
だからこそ、私はラジオ技術が面白いと感じている。
こんなアイディアもあるのか、と感心する例が、決して少なくない。

最近ではネルソン・パスの記事の翻訳が不定期で載っている。
パスの記事は英文でならインターネットで読めるけれど、
やはり日本語で読めるのは、正直助かる。

ステレオサウンドは完全に買うのはやめてしまったけれど、
ラジオ技術だけは、不定期ではあるけれど秋葉原に行った際に購入している。
まだまだ続いてほしいからである(できれば定期購読したいところなのだが)。

今号(1月号)は、例年通りならば、ラジオ技術の巻頭をかざる記事は、コンポ・グランプリである。
けれど今号に、コンポ・グランプリは載っていない、らしい。
らしい、と書くのは自分の目でまだ確かめていないからなのだが、
コンポ・グランプリは昨年で最後になった、ということだ。

今号には4ページほどの、なぜそうなったのかについての記事が載っている、とのこと。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)

2009年11月25日、同じタイトルで書いている。
その記事は1001本目であり、
1000本目で1クールが終り、1001本目から2クールがはじまる、といったことを書いた。

そのとき、

これまでの1000本は、すこし遠慮して書いてきたところもある。
これからの1000本は、「言いたいこと」をはっきりと書いていく。

こう結んでいる。

2日前の2012年12月11日の「続・ちいさな結論(その6)」が3000本目だった。
これで3クールが終り、4クールがはじまっている。

2000本目を書いたときも、これからの1000本は、はっきりと書いていく、と決めていた。
それでも、まだ遠慮して書いてきたところがある。
過激にならないようにおさえて書きながらも、はっきりと書いていくようつとめていた。

3000本目を書いた。すでに3001本目も書いた、3006本目まで書いている。
3001本目からは、「言いたいこと」をさらにはっきりと書いていこう、と決めている。

1000本ごとに少しずつ抑えているものを外しながら書いていけそうな気がしている。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その8)

30年以上前のステレオサウンドにあって、
最近(といってもここ数年ではなくて、もっと期間は長いのだが)のステレオサウンドに「なくなったもの」が、
なんなのか、もったいぶらずに書けばいいじゃないか、といわれるかもしれない。

ここでそれについて書くのは簡単であるし、時間もかからない。
なのに書かないのは、関係のない者から指摘されて、
そのことについてステレオサウンド編集部が納得したとしても、
自分たちで気がついたことでないことだから、いずれまた忘れてしまう。
大切なことから人はみな忘れてしまう──、
そのことをいくつもみてきているし、世の中にもいくつも、数えきれないほどある。

だからこそ自分たちで気がつかなければならないことである。
それができなければ、ステレオサウンドの誌面は良くすることはできても、さらにつまらなくなっていく。

ステレオサウンドのライバル誌として、一時期のスイングジャーナルがあった。
ジャズ・オーディオということに関してはステレオサウンドのライバルであったし、
ジャズ・オーディオに限れば、ステレオサウンドよりも影響力のあった雑誌だった。

そのスイングジャーナル、スイングジャーナルという会社とともに消えてしまった。
私には、このこともステレオサウンドがつまらなくなったことも同じ理由によるものだととらえている。
スイングジャーナルが熱を帯びていたときには「あったもの」が、
いつしか薄れ消えてしまっていた。
だから「つまらなくなった」という声が出はじめ、なくなった……。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その7)

編集者は、良くしていこう、と考えている。
記事を良くしていくことを考えている。
このことはいまのステレオサウンドの編集者も私が編集という仕事をやっていたときも同じはず。

けれど、これが時として雑誌をつまらなくさせていることに関係していることを、
編集という仕事を離れて、それもある程度の月日が経ってから気がついた。

ほんとうは編集という仕事をやっているときに気がつかなければならないことを、
私はそうではなかった。
だからこそ、いまの編集部の人たちも、
この「良くしていこう」という陥し穴にとらわれているようにみえる。

しかも「良くしていこう」とした成果は、あらわれている。
誤植が減ってきたのもそのひとつだし、発売日が守られているのももちろんそうである。

「良くしていこう」というのは決して間違いではないからこそ、
「良くしていこう」という陥し穴には、編集の現場にいるとよけいに気がつきにくいではないだろうか。

なぜなのかについて書くことも考えた。
けれど、これは編集の現場にいる人たちが自ら気がつかなければならないことである。

あったもの、なくなったもの──、
このふたつのことを考えていけば、きっと答にたどりつける。
たどりついてほしい、と思っている。

この項の(その4)に書いた「なくなったもの」ではない、違う何かがなくなっている、からである。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その6)

関係のない者が好き勝手なことを書いている──、
そう関係者は思うかもしれない、とそんなことは承知のうえで書いている。
それに「つまらなくなった……」と思っているのは、おまえのまわりの人間だけだろう、ともいわれることだろう。
類は友を呼ぶ、というから、私のまわりには「つまらなくなった……」という人が集まるのかもしれない。

それでも、あえてこんなことを書くのは、ステレオサウンド編集部にいたときには気づかなかったことが、
離れてみると、ふしぎなことによく見えてくる。
見えてくると、あったもの、なくなったものがはっきりとしてくる。
そうなると当然、なぜそうなってしまったのか、と考える、からである。

ステレオサウンドの185号が先日発売された。
新しい編集長になってまる二年、八冊のステレオサウンドが出た。

まだ読んでいない。
川崎先生の連載が載っていたころは、発売日に書店に行き購入していたけれど、
川崎先生の連載が終了してからは、購入をすっぱりとやめた。
それでも発売日には書店に行き、とりあえず手にとることはあったが、
もうそれもしなくなってしまった。
オーディオに対する情熱が失せたわけではない。

ステレオサウンドがもう必要なくなった、ということもある。
けれど、そうなったとしても、オーディオ雑誌としておもしろいものであれば、買うに決っている。
だから違うところに、
買わなくなった、すぐには手にすることもなくなってきたことに関係している何かがあるわけだ。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その5)

ながくステレオサウンドを読んできた人たちからよく聞くのは、
いまのステレオサウンドはつまらなくなってきた……、といったようなことだ。

ながく、といっても、それは人によって違う。
10年をながく、ととらえる人もいる。たしかに10年同じ雑誌を読んできたら、
それはながく読んできた、といえなくもない。
でも、ここで私がいっている「ながく」は20年でも足りない。
最低でも30年以上前からステレオサウンドを読んできたうえでの、「ながく」である。

私ですら、最初に買ったステレオサウンドから、もう36年になる。

だから10年をながく感じる読者、
たいていは30代前半か20代後半ぐらいの方が多いだろう。
そういう読者の人たちにとって、
ステレオサウンドは、いま出版されているオーディオ雑誌では圧倒的に面白く感じていても不思議ではない。
そういう若い読者からは、私くらいの読者、それよりながい読者の「つまらなくなった……」は、
単に昔を懐かしんでいるだけだろう、と思われている、とも思う。

いまのステレオサウンドの誌面のほうが、
昔のステレオサウンドよりもスマートだし、それに誤植も少ない、などといわれるかもしれない。
たしかに、それらの指摘を否定はしない。
誤植は、私がいたときよりも、私が読みはじめたときよりも、それ以前よりも、確実に減ってきている。
これは認める一方で、変な記述がときどき登場してくるのは、わずかとはいえ増えてきている気もする。

誌面構成はよくなっていると感じるところもあるけれど、そうでないとかんじるところもある。
それでも、ずっとずっと以前、私が読みはじめる前よりもずっと以前のステレオサウンドと比較すれば、
大きな違いである。

でも「つまらなくなった……」は、
そういう良くなったこととか、悪くなったこととは、それほど関係のないことである。

Date: 11月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)

こんなことがあったな、と思い出すことがある。

ずいぶん前のこと、おそらく書いた人も忘れているであろう。
そんな昔の話である。

あるオーディオ雑誌の特集記事にシェーンベルクのことが書かれていた。
シェーンベルクとその作品と、オーディオ機器とを関連づけた記事であった。

シェーンベルクだから、その文章にも12音技法のことが出てきて、
12音技法を中心に話が進んでいく。
そこにはある演奏家の録音が登場する。そして話は具体的になっていくわけだが……。

この文章を書いた筆者がとりあげていたシェーンベルクの作品は、12音技法以前の作品だった。
これは筆者の致命的なミスである。

私は、その特集記事が載った時期には、そのオーディオ雑誌には携わっていなかった。
一読者として、そのオーディオ雑誌を読んで、「あーっ」と思った。

これは、誰も気がつかないわけがない。
誰かは気づいていたはず。なのに……。

それから1年以上経ってからだったか、
どうして、その文章が訂正されることなく載ったのかを当事者(編集者)に聞くことができた。

やはり、すぐには気づいていた、とのこと。
でも原稿があがってきたのが時間的にギリギリで、
編集部による手直しでは訂正できない内容であり(ほとんどすべて書き直す必要があるため)、
といって筆者に書き直してもらう時間的余裕はまったくない。
ページを真っ白のまま発売するわけにはいかない。

だから、そのまま掲載した、と。

編集者は気づいていた。読者も気づいた。
筆者は気づいていない。

そういうことだってある(本来あってはならないことだけど)。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その8)

時代は変ってきている。
編集という仕事も変ってきている。

たとえば以前は罫線を、
どんな細い罫線であろうとキレイに引ければ、それだけでグラフィックデザイナーを名乗れた時代があった。

けれど、いまは罫線はコンピューターで指定すれば、どれだけ細い罫線でも、
誰にでも簡単に引けるようになってしまった。
だから罫線が引ける技術だけでは、デザイナーとは名乗れないし、それで食っていけるわけではなくなった。

こんな例は、他の業種でもいくつもあること。
出版の業界をみても、電子出版が主流となってくれば、
印刷、流通の会社の仕事は大幅に減り、なくなっていくことだろう。

コンピューターの導入で、すでにどれだけの写植の仕事がなくなってしまったことだろう。

写真に関しても同様である。
以前は撮影し、モノクロであれば紙焼きにしてもらっていた。
カラーであればポジフィルムだったわけだが、
デジタルカメラの登場と高性能化のおかげで、現像という仕事も減っているはず。

出版に関係している仕事が、私がいたころからは大きく変化してきたし、
これからも変化していく。

そういう状況の中にいて、編集者の仕事だけが変らない、ということはない。
変らなければならないし、変ってはいけないことも、編集という仕事にはある。
それは、編集という仕事が、出版という世界の中心もしくは中心に近いところにいてやる仕事であるからだ。

Date: 9月 26th, 2012
Cate: ジャーナリズム

附録について(その3)

附録をつければ、その附録が魅力的であれば、その雑誌の売行きは通常よりも増えるからこそ、
いまやいくつもの出版社のオーディオ雑誌に附録がつくようになったのだろう。

出版社は本を売る会社なのか。
本を売る会社だとすれば、附録をつけて売上げを伸ばすことは批判されることではないことになる。

けれど出版社は、本を売る会社ではないとしたら、附録をつけることの意味合いが変ってくる。

別項の、モノと「モノ」の(その2)、(その4)でも書いていることとだぶるけれども、
黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」の中にでてくる
フィリップス・インターナショナルの副社長の話をいまいちど引用しておく。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ
     *
出版社は、本という物を売る会社ではないはず。
たまたま、出版社が本来売るべきものをおさめる物として本という形態があったという見方もできる。

フィリップス・インターナショナルの副社長の話を読んで、
なるほどなあと思う編集者ならば、オーディオ雑誌に附録をつけることを行うとしても、
いま、どこの出版社でもやっているやり方とは違ってくるのではないだろうか。

Date: 9月 25th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その7)

“new blood”と”strange blood”のことは、
別項の「公開対談について」の(その10)のおわりのところで、ほんのちょっとだけ書いている。

組織が生きのびていくために新しい血(new blood)を定期的に、ときには不定期に入れていく。
新卒でその組織(会社)に入ってくる人も、中途入社の年齢的には若くはない人も、
その組織にとっては、入社時は新しい血であるはず。

新しい血はいつまでも新しい血ではない。
いつしか「新しい」がとれていってしまう。
だからこそ、組織は、また新しい血を求めていくのかもしれない。

“new blood”も”strange blood”も、
組織にとっては最初のうちは、どちらも新しい血であっても、
“new blood”はnew bloodではなくなる。
“strange blood”は、というと、新しい血ではなくなっても、strange bloodのままでいることだろう。

“new blood”と”strange blood”の、その違いはなんだろうか。
血の純度の高さの違いだ、と思う。
strange bloodは純度が高い血であるからこそ、つねにstrange bloodであり続けられる。

new bloodがいつまでも新しい血でいられないのは、
不純物が、その血に多いためではないだろうか。
純度の低さゆえに、組織の血に取り込まれてしまう。
純度が高ければ、そしてその高さを維持できれば、決して混じり合わない。そんな気がする。

strange bloodをもつ編集者がいる編集部は、面白い雑誌をきっとつくってくれる。
strange bloodをもつ者がいる業界は、きっと面白いはず。

Date: 9月 20th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その6)

「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」
気の合う者同士で本をつくっていても、それでは絶対におもしろいものはつくれっこない、
ということもいわれた。

私に、このことを話してくれたのは当時、編集顧問だったKさんだった。
そのころペンネームを使ってステレオサウンドにもときどき書かれていたし、
スーパーマニアの記事や、対談、座談会のまとめもやられていた。
私がステレオサウンドを離れてしばらくして、本名で書かれるようになった。

記憶違いでなければ、Kさんは中央公論の編集者でもあり、
フリーの編集者として、多くの人が知っている雑誌にも携わっておられたはず。

Kさんは、私の父と同年代か少し上の世代だと思う。
Kさんは、さまざまな本に、いったいどれだけ携わってこられたのだろうか。
かなりの数のはずだし、本の数が多いということはそれだけ多くの編集者とともに仕事をしてこられているわけだ。

そのKさんの言葉である。

雑誌の編集とは、とくにそういうものだ、と最近とみに思う。
Kさんからいわれたときは、そうなのかな? ぐらいの気持だった。

ステレオサウンドという雑誌は、いうまでもなくオーディオの雑誌であり、
その編集者は、オーディオという同じ趣味を持つ者ばかりが集まることになってしまう。
ある特定の趣味の雑誌は、ほかの雑誌よりも同じ傾向の人が集まりやすいのかもしれない。
だからこそ、Kさんは、あのとき、私にいわれたのかもしれない、といまにして思っている。

同じ部屋の空気を吸うのもイヤなヤツがいる仕事場では誰もが働きたがらないだろう。
気持ちよく仕事をしたい、というけれど、
気持ちよく仕事をしたいのが、仕事の目的ではなくて、編集者であれば面白い雑誌、
ステレオサウンド編集者であればおもしろいオーディオ雑誌をつくっていくのが仕事である。

いまのステレオサウンド編集部が、どういう人たちの集まりなのかは知らない。
気の合う人たちばかりの集まりなのかどうかはわからない。
でも、少なくとも「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!!」という人は、ひとりもいないような気がする。

さらに思うのは、”new blood”と”strange blood”のことだ。

Date: 9月 19th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その5)

こんなことをつらつら考えるのは、
以前にそこに在籍したことがあるからであって、
編集経験がなかったら、こんなことを考えることはない。
考えずに、「あぁ、こんな変な日本語、書いている」と思い、
今回は笑ってしまって、それでおしまいであっても、
こういうことがこれからも2度、3度……と続くようであれば、
まず筆者を信用しなくなるし、それから編集者を信用しなくなる、はず。
つまり、このことはステレオサウンドという本を信用できなくなってしまうことへとつながっていっている。

それは読者ばかりではない、はず。
ステレオサウンドに書いている筆者も、
こんなおかしな日本語が、これからも誌面に載っていくようなことが続けば、
編集者に対する信用が少しずつ薄れていく、ということもあっても不思議ではない。

人は絶対にミスをしない生き物ではない。
得手不得手があり、ミスもする。
だから編集部は複数の編集者によっている、ともいえる。
編集部のひとりひとりが得手不得手があり、それは人それぞれ異っていて、
ある人が気がつかない、今回のようなおかしな日本語も、
別の人が気づいて訂正すればいい。

自分の書いたものがステレオサウンドの誌面に載ったとき、
もう一度読みなおす筆者(書き手)であれば、編集部による訂正に気がつき自分のミスを恥ずるとともに、
編集者への感謝の気持も涌いてくる。

ミスに気がついた筆者は、次回からは同じミスはやらかさないだろうし、
よりよい文章を書くようにつとめていくいくのではないだろうか。
そして、編集部、編集者への信用、信頼も生れてくるに違いない。

それが今回のように、そのまま誌面に載ってしまうと、
その文章を書いた筆者は気がつかない。
そうなってしまうと、これからもそのままになってしまうかもしれない。

ここ数年、ステレオサウンドには、変な技術用語が載ることがある。
このことについては以前書いているので、
どういう用語なのかについては改めては書かないけれど、
編集部に技術的なことを得意とする人はいないのだろうか、と思う時がある。

そんなことはないとは思っているけど、
いまの編集部はみな同じことを得手として、同じことを不得手とする人ばかりなのかもしれない、と。

ステレオサウンド編集部にいたころに、いわれた言葉をおもいだす。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その4)

なにも、筆者からもらった原稿はいちど必ず紙に印刷しろ、
とそんなことをいいたいわけではない。

ただメールで送信されてくる原稿、つまりはテキストファイルをパソコンの画面で確認し、
DTPでつくられるのであれば、ページのレイアウトに必要な写真や図版、
これらもデジタルカメラで撮影していたり、パソコンでつくった図版であれば、
テキスト(原稿)とまとめてデータとして、デザイナーに渡される。

つまり原稿も写真も図版も、実際にいちども手にすることがなく、作業は進んでいく。
それがDTPなのだから、いちいち紙に印刷して、ということは時間とコストの無駄でもある。

そう思いながらも、そこには陥し穴的なところが潜んでいる気もする。
昔ながら編集の仕事を経てきた者と、
最初からDTPで編集を行ってきた者とでは、
たとえデータとして送信されてくる原稿に対しての気持、そこに違いがあるのではなかろうか。

これは人によっても違ってくる要素だし、一概にはいえない、ことなのだろうが、
それでも……と思いたくなる。

ステレオサウンド編集部がそうなのかどうかは知らない。
ただいまのステレオサウンドの誌面を見ていると、
ときに原稿がテキストデータとして取り扱われているのではないか、そんな気がすることもある。

だから、うっかり、おかしな日本語が誌面に載るのではないか。
つまり編集者が、部分的ではあるにしても、オペレーターになってはいないだろうか──、
そう思うのだ。

それとも、編集部は、おかしな日本語に気がついていて、あえてそのまま誌面に載せた、
ということも考えられる。
気がつかなかったのか、それとも気がついていて、なのか。
それは私にはわからない。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その3)

私がステレオサウンドにいた7年のあいだに、電算写植が登場し、ワープロも導入された。
編集の仕事の環境が変りはじめていた時期でもあった。

入ったばかりのころは手書きの原稿に直接朱入れしていたのが、
ワープロが導入されてからは、手書きの原稿をワープロで入力するとともに朱入れも行うようになった。

私がいたころ、手書きからワープロの原稿に移行されたのが早かったのは、黒田先生と柳沢氏だった。
そのあとに長島先生もワープロにされたように記憶している。

ワープロでもらった原稿も、いちど紙に印刷して朱入れを行っていた。
そんな時代を経験してきた。

現在のDTPへつながっていくごく初期の段階だけに、
いまのパソコンが編集の道具として活用されている状況とはずいぶん異る。

原稿は手書きにしろ、ワープロによるものにしろ、原則的に受け取りにいっていた。
メールに添付されて送信されてくるなんてことは、まだ想像もできなかった。

いまの編集作業のこまかいところは、わからない。
メールで送られてきた原稿を、編集部がどう処理しているのかはわからない。
ただ朱入れもパソコンで直接行っている気がする。
紙に印刷して朱入れして、その朱入れをパソコンで訂正、更新する、ということはやっていないのではないか。

パソコンを導入してDTPで本づくりをおこなっているのに、
しかも筆者からの原稿はテキストファイルで送信されてくるのだから、
あえて紙に印刷するなど、時間とコストの無駄、といえば、たしかに無駄である。

印刷しなくても、編集という仕事が機能するのであれば、それでいい、と私だって思う。
だが、ステレオサウンド 184号のおかしな日本語が誌面に登場したのは、
実は、そういうシステムが生んでいる弊害なのではないだろうか。

私は、なにか、そこに、筆者の書いたものが単なるデータとして処理されていくだけのような、
そんな感じさえ、つい想像してしまう。
だから、おかしな日本語が、うっかり載ってしまった──、そう思えてならない。