Archive for category 五味康祐

Date: 7月 29th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その13)

五味先生がバイロイト音楽祭のエア・チェックに使われていたルボックスのA700は、688,000円している。
テレフンケンのM28AではなくM28Cは1,300,000円という価格がついていた。
スチューダーのC37の価格は不明だが、C37の後継機といってよいA80/VU MKIIが3,300,000円、
これと同格のアンペックスのATR100が4,000,000円(価格はいずれも1977年のもの)、
どちらもソリッドステート仕様であり、C37とは登場時期が異るためはっきりといえないが、
C37もこれらの機種と、ほぼ同等の価格も、もしくはさらに高価だったのかもしれない。

これらのデッキによって録音されたテープは、いったいなんなのか。
     *
答はすぐ返ってきた。たいへん明確な返答だった。間違いなしに私はオーディオ・マニアだが、テープを残すのは、恐らく来年も同じ『指輪』を録音するのは、バイロイト音楽祭だからではない、音楽祭に託してじつは私自身を録音している、こう言っていいなら、オーディオ愛好家たる私の自画像がテープに録音されている、と。我ながら意外なほど、この答は即座に胸内に興った。自画像、うまい言葉だが、音による自画像とは私のいったい何なのか。
     *
「音による自画像」という答を出して、こんどは「音による自画像」について、また自問されている。

Date: 7月 28th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その12)

バイロイト音楽祭で奏でられるのは、もういうまでもなくワグナーの音楽だけだ。
     *
ワグナーは神々の音楽を創ったのではない。そこから強引にそれ奪い取ったのだ、奪われたものはいずれは神話の中へ還って行くのをワグナーは知っていたろう。してみれば、今、私の聴いているのはワグナーという個性から出て神々のもとへ戻ってゆく音ではないか。他人から出て神に還るものを、どうしてテープに記録できるか。そんなことも考えるのだ。
     *
では、テープにおさまっているのは、いったいなんなのか。
     *
私が一本のテープに心をこめて録音したものは、バイロイト音楽祭の演奏だ。ワグナーの芸術だ。しかし同じ『ニーベルンゲンの指輪』、逐年、録音していればもはや音楽とは言えない。単なる、年度別の《記録》にすぎない。私は記録マニアではないし、バイロイト音楽祭の年度別のライブラリイを作るつもりは毛頭ない。私のほしいのはただ一巻の、市販のレコードやテープでは入手の望めぬ音色と演奏による『指輪』なのである。元来それが目的で録音を思い立った。
     *
だから五味先生は、自問される、なぜ録音するのか、なぜ消さないのか、残すのか、と。

Date: 7月 27th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その11)

エア・チェックについて、こんなことを書かれている。
     *
だから私の場合、レコードを買わずに録音をすることはまずないが、気に入ったソリストの、海外における音楽祭での演奏はできるかぎり録音し、聴きなおしている。だが、このごろはそれにもすこし倦んできた。
気にとめて放送は聴くし、なかば習慣で録音はしてみるのだが、ライブラリイに加えたく思うほどのものはしだいになくなった。二,三度聴きなおして、たいがい、消してしまう。
理由はかんたんだ。いい演奏がないのである。それに音質が気にくわない。
     *
そんな五味先生が、バイロイト音楽祭のものに関しては、消さずに残しておられる。
バイロイト音楽祭も、「海外における音楽祭」のひとつ、である。
なぜなのか。
     *
レコードを所持しないで録音する人もいるだろう。だが私の場合、すでにそれは録音してある。何年か前はロリン・マゼールの指揮で、マゼールの指揮を好きになれなんだから翌年のホルスト・シュタインに私は期待し、この新進の指揮にたいへん満足した。その同じ指揮者で、四年間、同じワグナーが演奏されたのである。心なしか、はじめのころよりはうまくはなったが清新さと、精彩はなくなったように思え、主役歌手も前のほうがよかった。
     *
このすこしあとに、
「なら、気に食わぬマゼールを残しておく必要があるか、なぜ消さないのか、レコード音楽を鑑賞するにはいい演奏が一つあれば充分のはずで、残すのはお前の未練か?」
とも書かれている。

「演奏そのものはフルトヴェングラーの域をとうてい出ないこと」をよく知っている人が、
バイロイト音楽祭以外の海外の音楽祭のものだと、「二、三度聴きなおして、たいがい、消してしまう」人が、
バイロイト音楽祭だけは特別で、私家版として残されているのは、なぜか。

Date: 7月 26th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その10)

五味先生が、バイロイト音楽祭を毎年録音されていることについては、さらっとふれるだけの予定だった。
何を録音されていたのかについてふれるだけで、高城重躬氏が録音の対象とされていたものと比較しながら、
ふたりのスタンスの違いについて書くつもりでいたのだが、
なぜか、このバイロイト音楽祭のところが、ことさら重要に思えてきた。

なぜなのか、をさぐるためにも、もうすこし、この部分の引用を続けてみよう。
それでなにかがはっきりしてくるのかもしれないし、予感だけで終ってしまうのかしれない。

なぜ毎年録音されているのか。
     *
ときには自分でも一体なんのためにテープをこうして切ったり継いだりするのかと、省みることはある。どれほどいい音で収録しようと、演奏そのものはフルトヴェングラーの域をとうてい出ないことをよく私は知っている。音だけを楽しむならすでに前年分があるではないか、放送で今それを聴いてしまっているではないか、何を改めて録音するか。そんな声が耳もとで幾度もきこえた。よくわかる、お前の言う通りさと私は自分に言うが、やっぱりテープをつなぎ合わせ、《今年のバイロイトの音》を聴き直して、いろいろなことを考える。
     *
五味先生は、どんなことを考えられていたのか。
それがハイ・フィデリティを、いま再考することにふかく関わっている、そんな予感だけがある。

Date: 7月 25th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(補足)

「ハイ・フィデリティ再考」は、私にとって「五味オーディオ教室再読」でもあること。

この項を書き始めたときは、終りだけを決めていた。
そこに、どうやって辿りつくのかは書くことによって、自然に定まっていくだろう、という予感があったからだ。

最初は、だから「ハイ・ファイ」ということばを知るきっかけでもあり、私のオーディオの始まりでもある
「五味オーディオ教室」から、いくつか引用していた。
そして引用を続けていくうちに、上記のように感じていた。

そして「終り」も微妙に変化していっている。

ハイ・フィデリティとは、最終的には聴き手側について語ることになる、と。

Date: 7月 24th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その9)

五味先生が使われてたいのは、ルボックスのA700、テレフンケンのM28A、
この二台が、ティアックのR313もお持ちだったけれど、メインとして使われていた。
そして最後には、スチューダーのC37も入手されている。

C37は、A700、M28Aとの比較でいえば、アナログプレーヤーのEMTの927Dstと930stの違いによく似てよう。
C37は927Dstに肩を並べる、そういうプロ用機器である。

五味先生のアナログプレーヤーは930st。927Dstについて語られることはなかった。
C37については、入手以前から、どうしても手に入れたいものとして、何度か、そのことについて書かれている。
927Dstについて、そのような記述はなかったはずだ。

それだけオープンリールデッキには、並々ならぬ情熱をかけられていた。
というより録音に対して、であるのだが。

だが、その録音もいわばエアチェックである。
バイロイト音楽祭の中継、それにときどきNHK-FMが行っていたコンサートの生中継、
録音されていたものは、おそらくこれらが中心だったはずだ。
それも、バイロイト音楽祭の録音のため、といってもいいのではなかろうか。

なぜ、それほどまでに毎年、「業のようなもの」といいながら録音をつづけられていたのだろうか。
     *
たしかに『ワルキューレ』(楽劇『ニーベルンゲンの指輪』の第二部)なら、フルトヴェングラー、ラインスドルフ、ショルティ、カラヤン、ベーム指揮と五組のアルバムがわが家にはある。それよりも同じ『指輪』のなかの『神々の黄昏』の場合でいえば、放送時間が(解説抜きで)約五時間半。収録したものは当然、編集しなければならなぬし、どの程度うまく録れたか聴き直さなければならない。聴けば前年度のとチューナーや、アンプ、テレコを変えているから音色を聴き比べたくなるのがマニアの心情で、さらにソリストの出来映えを比較する。そうなればレコードのそれとも比べたくなる。午後一時に放送が開始されて、こちらがアンプのスイッチを切るのは、真夜中の二時、三時ということになる。くたくたである。
     *
歳末のあわただしいときの話だ。

Date: 7月 24th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その8)

高城重躬氏がどういう経歴で、どういう人なのかは、
「五味オーディオ教室」にはそれ以上のことは何も書かれていない。

高城氏がどういう人なのかを知るようになったのは、もう少し経ってから。
ラジオ技術を読みはじめてから、である。
そのころラジオ技術で連載をもたれていたと記憶しているし、
共同通信社から「音の遍歴」という書籍も、しばらくして出た。

「音の遍歴」を読めば、五味先生と高城氏のスタンスの違いがはっきりとわかる。

五味先生は、宴会料理と家庭料理のたとえをされているが、
すこしニュアンスはちがうが、このふたりの聴いているものの違いも、
宴会料理と家庭料理の違いに通ずるものがある。

この違いを認識せずままに、ふたりの書かれたものを読んでいては、誤解だけが生まれてくるかもしれない。
一時期、五味先生は、高城氏のことを、いわば信奉されていたのが、のちに大きく変わっていく……。

五味先生は、毎年暮のNHK-FMで放送されていたバイロイト音楽祭を録音することを、年来の習慣とされてきた。
すこしでもよりよい音で収録するために、チューナーはマランツの10B、
アンテナは7素子の特製のものをモーターで回転させ、38cm2トラックのオープンリールデッキを用意されている。

「うまく録れたときの音質は、自賛するわけではないが、市販の4トラ・テープでは望めぬ迫力と、ダイナミックなスケール、奥行きをそなえ、バイロイト祝祭劇場にあたかも臨んだ思いがする。一度この味をしめたらやめられるものではなく、またこの愉悦は音キチにしかわかるまい。」
と夢中になられているのが伝わってくる。

Date: 7月 24th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その7)

五味先生と高城氏の関係についてなにも知らなかっただけに、ここまで読んで「あれっ?」と思いはじめていた。

オムニ・ディレクショナルの音はどうだったのだろうか。
     *
さて、〝オムニ・ディレクショナル〟から鳴る引きしまった低音の豊満さと、その高域の清澄な美しさに私はびっくりした。とても同じ〝スーパー3〟の音とは思えないし、岡邸で聴かせてもらった高域とも比較しようもないくらい、よい音なのである。
     *
神様のように信奉されていた高城氏設計のコンクリート・ホーンという、ひじょうに大がかりなスピーカーよりも、
ワーフデールのオムニ・ディレクショナルのほうが、美しい音を出している。

この時点では、オムニ・ディレクショナルが、どのような仕様で、どんな規模のスピーカーであるのかは、
ほとんど不明だったが、それでもコンクリート・ホーンにくらべれば、
その規模はずっと家庭にすんなりおさまるものであろうことは、容易に想像できた。

ここまで読み進んで気がついたことがある。
ワーフデールについて書かれているページよりも70ページ前に書いてあることについて、だ。
     *
ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
     *
某先生──、高城重躬氏のことだと気がついた。

Date: 7月 23rd, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その6)

高城重躬氏の名前を知ったのも、「五味オーディオ教室」である。
こう書かれている。
     *
今から二十年ほど前になるが、当時、ハイ・ファイに関しては何事にもあれ、オーディオ評論家の高城重躬氏を私は神様のように信奉し、高城先生のおっしゃることなら無条件に信じていた。理由はかんたんである。高城邸で鳴っていた、でかいコンクリート・ホーンのそれにまさる音を、私は聴いたことがなかった。経済的に余裕がもてるようになって、私も高城邸のような音で聴きたいと思い、できることなら高城邸以上のをと、欲ばり、同じようなコンクリート・ホーンを造った。設計は高城先生にお願いした(リスニング・ルームの防音装置に関しても)。
     *
ここまで読んだときは、高城重躬氏という比とのことは全く知らないけれど、
五味先生が「高城先生」と呼ばれるくらいだから、どんなにすごい人なのだろう……、と思いながら、
先を読み進めると、すこし様相が変ってくる。

五味先生は、コンクリート・ホーンの3ウェイに、低域はJBL、中音域はタンノイ、
高域のみ、高城氏のすすめられるワーフデールのスーパー3という、混成旅団でまとめられている。
高城氏は、当時、ワーフデールを好まれていて、
画家の岡鹿之介氏のスピーカーも、ワーフデールの3ウェイでまとめられている、とある。
岡氏のトゥイーターも、スーパー3である。

同じスーパー3にもかかわらず、五味先生のお宅では「鳴ってくる音がまったく違う」結果になっている。
そのため、高城氏の推奨される後藤ユニットに、中・高域のユニットを取り替えられるが、
これも「結果は前よりいっそう気にくわぬ音だった。一時、私は絶望的になっていた」ところに、
ある人の好意で、ワーフデールの “Omni directional” を入手されている。

Date: 7月 19th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その5)

「五味オーディオ教室」の冒頭に書かれてある「肉体の復活」は、強烈なことばだった。

それにこんなことも書かれているから、よけいに「肉体」について想うようになる。
     *
いま、空気が無形のピアノを、ヴァイリンを、フルートを鳴らす。これこそ真にレコード音楽というものであろうと、私は思うのである。
     *
そしてこうも書かれている。
     *
私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出でては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番の者と交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
音に目に視えない、手で触れることもできない。いわば「かたち」のないのが音そのものということになる。
けれど、その「かたち」のない音を発する人、楽器には形がある。
声を発する人、楽器を弾く人には、肉体がある。肉体が在るからこそ、音を発することが可能となる。

だから、その「肉体」を錯覚できるようにすること、
それが High Reality である、と、いまから34年前に考えたことだ。

Date: 7月 15th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その4)

五味先生は、「ナマ追求は邪道にすぎない」とされ、
次のように書かれている。
     *
レコードによる音楽鑑賞は、録音再生技術に驚異的進歩を見た今日でも、なお、ナマとは別個な、独自なジャンル──芸術鑑賞の一分野である。そこで大事なのはナマそのものではなくて、再生される美しさである。この「再生される美しさ」という点が、日本の業者にまだわかっていないようだ。業者に限らない。多くの録音プロデューサー、近ごろ群出しているオーディオ批評家、音響専門技術者のほとんどが、再生される音の美しさはどんなものかを知らずにただ、ナマを追求している。むろん大方のオーディオ・マニアも。戒心すべきことである。
     *
また、こうも書かれている。
     *
オーディオでナマを深追いしてはならない。それはけっして美しい音ではない。美しい音は、聴覚が持っている。機械が出すのではないのである。
     *
「五味オーディオ教室」から引用したいところは、まだまだある。
きりがないのでこのへんにしておくけれど、「五味オーディオ教室」を読めば読むほど、
当時はハイ・ファイ(つまり原音再生)への疑問をもちはじめていた。

五味先生は「ナマ」イコール「原音」とかならずしもされているわけではないが、
少なくとも、安易な原音再生(ハイ・ファイ)の追求は、美しい音をとり逃がすことになる、
そういうふうに中学2年だった私は受けとめていた。

だから、High Reality であるべき、と考えたわけだ。

Date: 7月 7th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その3)

「肉体」という単語は、ほかにも出てくる。
略してしまうと誤解を招くとも思うので、引用はすこし長くなる。
     *
そこで鳴っているのはモニターの鋭敏な聴覚がたえず検討しつづける音であって、音楽ではない。音楽の情緒をむしろ拒否した、楽器の明確な響き、バランス、調和といったものだけを微視的に聴き分ける、そういう内帑に適合する音であった。むろん、各楽器が明確な音色で、バランスよく、ハーモニィを醸すなら当然、そこに音楽的情緒とよぶべきものはうまれるはず、と人は言うだろう。
だが理屈はそうでも、聴いている私の耳には、各楽器のそのニュアンスだけを鳴らして、音楽を響かせようとはしていない。そんなふうにきこえる。たとえて言えば、ステージがないのである。演奏会へ行ったとき、われわれはステージに並ぶ各楽器の響かせる音を聴くので、その音は当然、会場のムードの中できこえてくる。いい演奏者ほど、音そのもののほかに独特のムードを聴かせる。それが演奏である。
ところがモニターは、楽器が鳴れば当然演奏者のキャラクターはその音ににじんでいるという、まことに理論的に正しい立場で音を捉えるばかりだ。──結果、演奏者の肉体、フィーリングともいうべきものは消え、楽器そのものが勝手に音を出すような面妖な印象をぼくらに与えかねない。つまりメロディはきこえてくるのにステージがない。
電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
     *
この文章が読みはじめすぐに出てくる。
「音」と「音楽」の違いを、ここに書かれている。
当時、中学生の私は、「音楽」に不可欠な要素としての「肉体」の重要性を感じていた。

Date: 7月 7th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その2)

ハイ・ファイということばを知ったのは、これも「五味オーディオ教室」であった。

「五味オーディオ教室」には簡単な用語解説もあって、そこでは次のように書いてあった。
     *
《ハイ・ファイ》
HiFi = High Fidelity の略で高忠実度の意。何に忠実なのかということだが、いちおう「原音に忠実に」ということにしておこう。     *
本文では、こう書かれている。
     *
レコード音楽を家庭で聴くとき、音の歪ない再生を追求するあまり、しばしば無機的な音しかきこえないのは、この肉体のフィーリングを忘れるからなので、少なくとも私は、そういうステージを持たぬ音をいいとは思わない。そしておもしろいことに、肉体が消えてゆくほど装置そのものはハイ・ファイ的に、つまりいい装置のように思えてくる。
     *
だから、オーディオに関心をもちはじめたときから、
じつはハイ・ファイということばに関しては懐疑的だったわけだ。

そして中学生の頭で考えついたのが、High Fidelity ではなくHigh Reality だった。
もちろん「五味オーディオ教室」を読んだから、であることはいうまでもない。

Date: 7月 3rd, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その1)

「誠実」を和英で引いたら、good faith; sincerity; reliability; 《文》 fidelity とあった。
fidelityもなの? と思った。

fidelityを引くと、①〔人·主義などへの〕忠実, 忠誠 ②原物そっくり, 真に迫っていること, 迫真性、とある。
オーディオでながいあいだ使われてきたHigh-Fidelityは、
②の意味で、いうまでもなく「高忠実」とされてきた。

何に対して「高忠実」であるかも、同時に議論されてきているが、
いちおう「原音」に対してということでおさまっているといえよう。

もっとも「原音」とはなにを指すのか、が、また議論の対象となるけれども、
ハイ・ファイ(ハイ・フィデリティ)ということばのなかに、
原音再生の意味合いも含まれている、といっても特に大きな問題はなかろう。

原音とは、聴き手の元に届けられるアナログディスクやCDなどのパッケージメディアにおさめられたもの、
マスターテープにおさめられたもの、マイクロフォンがとらえたもの、
録音の場で鳴り響いたもの、などであろうが、いずれにしても「音」について問われている。

だが、fidelityに、誠実や忠誠という意味があるわけだから、はたしてそれだけでいいのだろうか。
High-Fidelityを、高い忠実度→原音再生、と捉えるよりも、
より誠実であるもの、より忠誠的であるもの、とするなら、何に対して誠実で忠誠なのかは、
「音」ではなく、やはり「音楽」に、より誠実である、と解釈すべきではなかろうか。

音楽に対する高い誠実度ということになると、
これまでハイ・フィデリティということからは無視されてきたスピーカーシステムやオーディオ機器に、
光が当ってくる。

Date: 7月 2nd, 2010
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その15)

瀬川先生は五味先生のことを、どう想われていたのか。
ステレオサウンド 39号に載った「天の聲」の書評を読んでおきたい。
     *
 五味康祐氏の「天の聲」が新潮杜から発行された。言うまでもなくこれは「西方の音」の続編にあたる。《西方の音》は、おそらく五味氏のライフワークとして、いまも『芸術新潮』に連載中だから、まだ続編が出ることであろうし、そうあることを期待している。実をいえば私は『芸術新潮』の方は、たまに店頭で立読みするだけで、それだからなおのこと、こうして一冊にまとまった形でじっくり読みたいのである。
 五味康祐氏とお会いしたのは数えるほどに少ない。ずっと以前、本誌11号(69年夏号)のチューナーの取材で、本誌の試聴室で同席させて預いたが、殆んど口を利かず、部屋の隅で憮然とひとりだけ坐っておられた姿が印象的で、次は同じく16号(70年秋号)で六畳住まいの拙宅にお越し頂いたとき、わずかに言素をかわした、その程度である。どこか気難しい、というより怖い人、という印象が強くて、こちらから気楽に話しかけられない雰囲気になってしまう。しかしそれでいて私自身は、個人的には非常な親近感を抱いている。それはおそらく「西方の音」の中のレコードや音楽の話の書かれてある時代(LP初期)に、偶然のことにS氏という音楽評論家を通じて、ここに書かれてあるレコードの中の大半を、私も同じように貧しい暮しをしながら一心に聴いていたという共通の音楽体験を持っているからだと思う。ちなみにこのS氏というのは、「西方の音」にしばしば登場するS氏とは別人だがしかし「西方の音」のS氏や五味氏はよくご存知の筈だ。この人から私は、ティボー、コルトオ、ランドフスカを教えられ、あるいはLP初期のガザドウシュやフランチェスカフティを、マルセル・メイエルやモーリス・エヴィットを、ローラ・ボベスコやジャック・ジャンティを教えられた。これ以外にも「西方の音」に出てくるレコードの大半を私は一応は耳にしているし、その何枚かは持っている。そういう共通の体験が、会えば怖い五味氏に親近感を抱かせる。
 しかし内容についてそういう親近感を抱かせながら「西方の音」は私にとってひどく気の重くなる本であった。ひと言でいえばそれはオーディオに関してこういう書き方があったのかという驚きであると同時に、しかし俺にはとてもこうは書けないという絶望に近い気持であった。オーディオについていくらかは自分の世界を築いてきたというつもりが実は錯覚であって、自分の世界など無きに等しい小さな存在であることを思い知らされたような、まるで打ちのめされた気持であった。ごく最近に至るまで、オーディオについて何か書こうとするたびに、「西方の音」が重くのしかかっていたことを白状しなくてはならない。
 とてもこうは書けないという気持は、ひとつは文章のすごさであり、もうひとつは書かれている内容の深さである。文章については、文学畑の人の文章修業のすさまじさを知れば知るほど、半ばあきらめの心境でこちらはしょせん素人だと、むろん劣等感半分で開き直ってしまえばよいが、オーディオの、ひいては音楽の内容の深さについてはもう頭が上がらない。
 ひとつの観念をできるかぎり正確で簡明なしかも格調の高い言葉に置きかえるという仕事を、近代以降の日本では小林秀雄がなしとげている。その名著「モオツァルト」について、文章のうまいというのは得ですね、と下らないやきもちを焼いた音楽評論家の話はもはや語り草だが、「西方の音」や「天の聲」も、オーディオでものを書く人間には、一種の嫉妬心さえ煽り立てる。それくらい、この行間には美しい音が、ちりばめられ、まさに天の聲のような音楽が絶え間なく鳴ってくる。まさしく五味康祐氏の音が鳴ってくる。
 先に上梓された「西方の音」には、しかしオーディオへの積年のうらみが込められていたように私には思える。それは決して巷間言われるコンクリートホーンを作った技術者へのうらみではなく、筆者をそれほどまで狂おしい気持にさせ、そこまでのめり込ませずにおかないレコードとオーディオへのうらみであった。したがってそこには、オーディオ機器を接ぎかえとりかえ調節しては聴きふける筆者の生々しい体臭があった。
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。ずっと昔、まだモノーラルのころ、ヴァンガード/バッハギルドのレコードで、レオンハルトのチェンバロによる「フーガの技法」を聴いたとき、音楽が進むにつれて次第に高くそびえる氷山のすき間を進むような恐ろしいほどの緊迫感を感じたことがあった。むろんこのレコードを今聴いたら違った印象を持つかもしれないが、何か聴き進むのが息苦しくなるような感覚があった。「天の聲」の後半にも、行間のところどころに一瞬息のつまるような表現があって、私は何度も立ちどまり、考え込まされた。
     *
ここにでてくるふたりのS氏──、ひとりは新潮社の齋藤十一氏、
もうひとりの、瀬川先生にとってのS氏、音楽評論家のS氏は西条卓夫氏のことだ。