ハイ・フィデリティ再考(その5)
「五味オーディオ教室」の冒頭に書かれてある「肉体の復活」は、強烈なことばだった。
それにこんなことも書かれているから、よけいに「肉体」について想うようになる。
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いま、空気が無形のピアノを、ヴァイリンを、フルートを鳴らす。これこそ真にレコード音楽というものであろうと、私は思うのである。
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そしてこうも書かれている。
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私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出でては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番の者と交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
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音に目に視えない、手で触れることもできない。いわば「かたち」のないのが音そのものということになる。
けれど、その「かたち」のない音を発する人、楽器には形がある。
声を発する人、楽器を弾く人には、肉体がある。肉体が在るからこそ、音を発することが可能となる。
だから、その「肉体」を錯覚できるようにすること、
それが High Reality である、と、いまから34年前に考えたことだ。