ハイ・フィデリティ再考(その3)
「肉体」という単語は、ほかにも出てくる。
略してしまうと誤解を招くとも思うので、引用はすこし長くなる。
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そこで鳴っているのはモニターの鋭敏な聴覚がたえず検討しつづける音であって、音楽ではない。音楽の情緒をむしろ拒否した、楽器の明確な響き、バランス、調和といったものだけを微視的に聴き分ける、そういう内帑に適合する音であった。むろん、各楽器が明確な音色で、バランスよく、ハーモニィを醸すなら当然、そこに音楽的情緒とよぶべきものはうまれるはず、と人は言うだろう。
だが理屈はそうでも、聴いている私の耳には、各楽器のそのニュアンスだけを鳴らして、音楽を響かせようとはしていない。そんなふうにきこえる。たとえて言えば、ステージがないのである。演奏会へ行ったとき、われわれはステージに並ぶ各楽器の響かせる音を聴くので、その音は当然、会場のムードの中できこえてくる。いい演奏者ほど、音そのもののほかに独特のムードを聴かせる。それが演奏である。
ところがモニターは、楽器が鳴れば当然演奏者のキャラクターはその音ににじんでいるという、まことに理論的に正しい立場で音を捉えるばかりだ。──結果、演奏者の肉体、フィーリングともいうべきものは消え、楽器そのものが勝手に音を出すような面妖な印象をぼくらに与えかねない。つまりメロディはきこえてくるのにステージがない。
電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
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この文章が読みはじめすぐに出てくる。
「音」と「音楽」の違いを、ここに書かれている。
当時、中学生の私は、「音楽」に不可欠な要素としての「肉体」の重要性を感じていた。