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Date: 4月 10th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その10)

読み解くという行為は、読み手側に、その書き手との共通認識があってこそできることであり、
これをおもしろいと思うのか、面倒臭いと思うのか、は人によって違う。

とにかく時間を必要とする行為であるだけに、辛抱の足りない読み手は、
曖昧さを拒否し、わかりやすい表現をもとめる。

だが抽象的な音の表現にわかりやすい表現はあるのか。
しかも共通認識なしに、はっきりと伝えられる表現はあるのか。

少なくとも音色に関する表現では、まず無理だろう。
共通認識があるように思えている言葉でも、意外にも人によって使い方はまちまちであることは、
あるていど、音の表現について集中的に読んできた人なら理解されているはず。

このことは、(その6)に書いた「承認」がえやすい音、「わかりやすい」音と関係してくる。

Date: 4月 10th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その9)

編集部から与えられたテーマと分量の制約の中に、
読み手との間に共通認識を築いていくことにつながる文章を、
そこに折り込んでいけるのが、プロの書き手のはず。

だが、オーディオ雑誌に書いている人たち(以前にくらべると数は増えている)のどれだけが、
プロの書き手なんだろうか。

もちろん共通認識に関しては、書き手側だけの問題ではない。
書き手側がどんなに留意して書いていたとしても、読み手側を読みとってくれなければならない。

しかも日本語は、曖昧なところがある。
この、曖昧さは必ずしも悪い面ばかりでなく、ときには抽象的な音を書き表わすときには、
あえて、この「曖昧さ」を利用することで、いわば言葉のレトリックによって成り立つこともある。
このへんのことは、いずれきちんと書きたいと思っているが、日本におけるオーディオ評論の面白さ、独自性は、
日本語のもつ曖昧なところと結びついていることは確かだ。

だからこそ、書き手と読み手とのあいだに共通認識が、
他の言語で書かれた音の表現よりも必要とされるようにも思える。

英語にくわしいわけではないが、一般的に、日本語よりも曖昧なところは少なく、はっきりしているといわれる。
そんな言語で語られる音の表現と、日本語で語られるものとでは、表現の仕方そのものに違いがあって当然だし、
日本語での音の表現においても、書き手と読み手とのあいだの共通認識が稀薄になっていくことで、
より英語的な音の表現──いいかえればいっさいの曖昧さを拒否した表現を求める層が出てきたのかもしれない。

Date: 4月 10th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その4)

JBLのスピーカーユニットのターミナルは、会社設立当時はどうだったのだろうか。

1946年の最初の製品として登場したD101は、それほど大きくない写真をみるかぎり、
アルテックの以前のユニット同じように、指でツマミを回して締めつけていくタイプだ。

このD101というスピーカーユニットは、写真をご覧になった方はお気づきのように、
アルテックのウーファー515のセンターキャップをアルミ製に、
ボイスコイルを銅線からより軽量のアルミニウムに交換するなどして、
フルレンジとして設計し直したユニットである。
コーン紙の頂角も、D130以降浅くなっているのに対して、
アルテックの515同様、深い仕様になっている。
写真ではこまかいところまではっきりしないが、
おそらくターミナルも、アルテックとほぼ同じものだったかもしれない。

D101を発表したときの会社名は、JBLではなく、正確にはLANSING SOUNDだった。
会社名に「ランシング」とはいっていること、それに515をベースにしたと思われるD101が、
アルテックの神経を逆撫でしたのか、アルテック側からの要請(クレーム)により会社名を変更している。

そして、1948年に発表したD130は、D101と同じ15インチ口径のフルレンジユニットでありながら、
外観も、細部も大きく変っている。
いまだ確認できてないが、JBLのスピーカーユニットが逆相になったのは、このD130からだと私は思っている。

ターミナルも、この時点でJBLはアルテックよりもはやくバネ式のものを採用したようだ。

Date: 4月 9th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その3)

もちろん604-8G以降のバネ式のターミナルをオリジナルとして、
いっさい手を加えずにそのままで使うというのも、ひとつのやり方である。

アルテックの604シリーズや、
JBLのウーファー、フルレンジユニットでも、D130、150-4Cの流れを受けつぐユニット、
それにコンプレッションドライバーは、能率がかなり高い。

つまりこの手のスピーカーユニットは、小出力でも十分すぎる音圧を得られる。
最大音圧をえるのに必要なパワーはごくわずか。
ということは、オームの法則で、そのときに流れる電流はわかる。
それほど高くない値だから、スピーカーケーブルもそれほど太くある必要はない、
この程度のターミナルで十分という合理的な考え方も設計の段階であったのかもしれない。

ドイツの高能率スピーカー、シーメンスのオイロダインもスピーカー・ターミナルは、
そんな感じのする、小さなものである。
あれだけウーファー、ドライバーには贅を尽くしていても、スピーカー・ターミナルは、
ここに接続できる太さのスピーカーケーブルを使えば十分である、と主張しているようにも思える。

おまえは、もしオイロダインを手に入れてもスピーカー・ターミナルをいじるのか、と問われれば、
いじらない、と答える。

604-8Gのバネ式のスピーカー・ターミナルで私が不満に感じているのは、
接続できるスピーカーケーブルの太さに制限があることではなくて、
あの構造に起因する音の劣化の大きさだからだ。

あのターミナルがどれだけ音を変化(劣化)させるかは、
使わなくなったスピーカーケーブルを途中で切って、
このターミナルを介してつなげて一本のケーブルにして音を聴いてみれば、すぐにわかることだ。

Date: 4月 8th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その2)

正直、私は、JBLやアルテックのスピーカーユニットのターミナルをその程度にしか思っていない。
これをありがたがる気持はかけらもない。

オリジナル至上主義者は、このターミナルを絶対のものとしてありがたがっている。
このターミナルも、JBLの音、アルテックの音をつくっている一要素であるのだから、
それを使い手側で勝手に変えるのはまかりならん、というふうになる。

そんなことを言う人にきいてみたいことがある。

アルテックの604-8Gのスピーカーターミナルはバネ式だ。
私は、これを変える予定でいる。
その理由のひとつとして、オリジナル、ということを考えて、である。

604-8Gにとってのオリジナルとは、いったい何なのか。
604-8Gは、型番の末尾のアルファベットが示すように、何度かの改良が施されている。
もっとも人によっては改変であって、それは必ずしも改良ではない、ということになるけれど、
そのことはひとまず措いておく。

604シリーズは、最初の604、次に604B、604C、604D、604E、604-8G(この後もつづく)と変遷している。
604シリーズのスピーカーターミナルをみていくと、バネ式になったのは604-8Gからで、
それ以前のモデルはすべて、一般的な金属製のターミナルで、指で先端部分をまわしてしめていくタイプで、
バネ式のものよりも、スピーカーケーブルも、ずっと太くてもすんなり使える。

「オリジナル」は最初の604とする考えならば、
スピーカーターミナルはバネ式にこだわる理由は、私にとってはなくなってしまう。

Date: 4月 8th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その1)

何度か書いているからおわかりのように、私は手持ちのオーディオ機器にわりと手を加える方である。

「完成品に手を加えるぐらいなら、一から自作すべき」だという声は、昔からある。
これを否定する気はないし、真に完成品と感じるモノであれば、手を加えたりはしない。
それに手を加えるのが好きなわけではなく、できることならそのまま使っていきたい、とは思っている。
けれど、実際には、「完成品」と呼べるモノが、いったい過去を含めてどれだけあったのか、と反論したくなる。

それでも「オリジナルは尊重すべき」という声がある。
この「オリジナル」とは、いったい何を指すのか。
原音再生における「原音」と同じくらい、はっきりしているようであって、じつのところ曖昧でもある。

ステレオサウンド 60号の「プロが明かす音づくりの秘訣」の1回目に菅野先生が登場されている。
この記事をご覧になった方はご存知のように、菅野先生はJBLの075に手を加えられている。

まずホーンは砲金の削り出しに交換されていて、ダイアフラムは075用のではなく2405用にされている。
さらにバネ式のスピーカーターミナルを嫌って、バリアー・ターミナルとなっている。

JBLのスピーカーユニットもそうだが、アルテックも、バネ式のスピーカーターミナルを使っている。
ユニットの、実にしっかりした造りからすると、この部分は実にお粗末、というか、貧弱に感じられる。
スピーカーケーブルも、細いタイプのものだけ、となる。

それでも音質的に劣化の少ないつくりであればいいのだが、
バラしてみれば、どうみても劣化の度合は大きいとしか思えない。

高性能のスピーカーユニットであればあるほど、信号を受ける端子の音に対する影響には敏感であるはずなのに、
この程度のつくりである。

このタイプのターミナルはスピーカーケーブルをバネの力でくわえ込む。
ネジ式であれば、振動源であるスピーカーユニットについているわけで、
長い間の使用において、ネジがゆるんでしまうことが考えられる。
その点、バネ式であれば、まずゆるむことはない。
おそらく、このバネ式のターミナルが使われているのは、こんな理由からではないだろうか。

Date: 4月 7th, 2011
Cate: audio wednesday

第4回公開対談のお知らせ

毎月第1水曜日に行っていますイルンゴ・オーディオの楠本さんの公開対談ですが、
4回目の来月はゴールデンウィークになるため、昨日来られた方から、
できればずらしてほしい、という要望がありましたので、1週間ずらして、5月11日(水曜日)に行います。

Date: 4月 7th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その8)

どうすれば、書き手と読み手のあいだに共通認識を築いていけるのか。

これはもう書き手が、とにかく書いて書いて、書き尽くすぐらい気持で書くことからしか始まっていかない。
新製品紹介でも、スピーカーやアンプのなどの試聴記だけでなく、
オーディオ、それに音楽に関する随筆、さらにできれば音楽、オーディオから離れた話題についても、
ときには書いていくことで、
読み手は、それらを読み重ねていくことで、ある特定の書き手についての印象が形成されていく。

その書き手がどういう音楽を好み、どういう音で、どういう環境で聴いているのか──、
こういう基本的な事柄ですら、いまの書き手の中にははっきりと読み手側に伝えていない人がいる。
書き手側は一度書いたから、と思いがちだが、読み手側は、必ずしも過去の記事にまで遡って読む人ばかりではない。
仮に過去の記事を読んだ人すべてが記憶しているわけでもない。

大事なことはくりかえし書いていく、しかない。
書いたからいってすべてが伝わるわけではないけれど、書かなければまったく伝わらない。

だけど……、という反論が返ってくるかもしれない。
随筆を書いていきたいけれど書く場所がない。
編集部から、そういう以来が来ない。

こんないいわけが通ったのは、ネットが普及する前まで。
いま、ブログならパソコンとネットに接続できる環境があれば、すぐにもつくれる。
すぐにでも書く場所を得られる。
しかも、この「書く場所」はページ数の制限がない。
書きたいことを書きたい分量で書ける。
なにも長く書けるだけがメリットではなく、たった1行でも、いま伝えたいと思ったことがあれば、
すぐにでも書いて公開できる。

オーディオ雑誌では、編集部から与えられたテーマと分量がある。長くすぎる文章は削られるし、
たった1行だけの文章も拒否される。

いまオーディオ評論家の肩書きで仕事をしている人のどれだけがブログを利用して、
読み手との共通認識を築いてくことに積極的な人がいるのか。

ここでも、こんな反論があろう。
われわれ(オーディオ評論家を名乗っている人たち)は、プロの書き手である。
だからお金にならない文章は書かない、と。

Date: 4月 6th, 2011
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その19)

けれど黒田先生は、4343をAPM8にはされなかった。

ステレオサウンド 54号のちょうど2年後に出た62号で、またAPM8を聴かれている。
特集のテーマは「日本の音・日本のスピーカー その魅力を聴く」。
ここでは、パイオニアのS-F1も聴かれている。

APM8もS-F1も、そのころ日本のメーカーが積極的に開発をすすめていた平面振動板を採用、
そしてどちらも4ウェイ構成で、価格もS-F1が875,000円、APM8が1,000,000円と、そう大きな差はない。

このふたつのスピーカーシステムを、
黒田先生はAPM8をアントン・ウェーベルンに、S-F1をアルバン・ベルクに、
さらにAPM8をクラウディオ・アバドに、S-F1をカルロス・クライバーにたとえられている。

つまりAPM8のほうが響きがやや暗めでクール、それにスタティックなのに対して、
S-F1は少し明るく少し温かく、そしてアクティヴだということ。

ただこれらの表現は、あくまでもAPM8とS-F1を対比して、語られているものだということを忘れないでほしい。

1982年の時点で、黒田先生はS-F1に「ゆさぶられている」。
そしてステレオサウンド 63号につづいていく。

Date: 4月 5th, 2011
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その18)

黒田先生は、APM8のことを試聴記に、
「化粧しない、素顔の美しさとでもいうべきか」と書かれ、
さらに「純白のキャンパスに、必要充分な色がおかれていくといった感じで、音がきこえてくる」と。

この「純白のキャンパス」、「素顔の美しさ」のところが、
ウィーン・フィル、ベルリン・フィルではなく、シカゴ交響楽団を指揮してみたいにかかってくる。

ウィーン・フィル、ベルリン・フィルが化粧しているといいたいわけではないけれど、
ウィーン・フィル、ベルリン・フィルには、ほかのオーケストラにはない色(独自の音色)がある。

21世紀のいまでは、そういう、ウィーン・フィルならではの音色、ベルリン・フィルならではの音色は、
少しずつ薄れてきつつあるようにも感じることもあるけれど、
APM8を黒田先生が聴かれたの1980年である。

シカゴ交響楽団の音楽監督はショルティになっていた。第2期黄金時代を迎えていた。
主席客演指揮者として、カルロ・マリア・ジュリーニ、クラウディオ・アバドが迎え入れられていた。
ショルティとジュリーニ、ふたりの性格はずいぶん違う(ように思う)。顔つきもそうだ。
ショルティとアバドについても同じことがいえる。
それにショルティとジュリーニは世代的にはほぼ同じだが、ショルティとアバドではふたまわり近く違う。
ジュリーニとアバドも、また違う。

にも関わらず、シカゴ交響楽団は、この3人の指揮によっていくつもの名演を残してきていることは、
実演に私は接したことがないけれど、録音だけからでもはっきりといえる。
シカゴ交響楽団の高い技量に裏打ちされた柔軟性、自在性の高さに加え、
伝統というバックボーンをもつヨーロッパのオーケストラは違う、
アメリカならではのオーケストラだから可能なことなのかもしれない。

それに最初の黄金期を築いたフリッツ・ライナーもショルティもハンガリー出身ということもあろう。

ここにシカゴ交響楽団の特色があるといえるし、
だからこそ黒田先生はAPM8をシカゴ交響楽団に例えられたのだと思う。

Date: 4月 4th, 2011
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その17)

黒田先生は、ステレオサウンド 54号の試聴で聴かれた45機種のスピーカーシステムのなかで、
ソニー/エスプリのAPM8を、
そのときお使いだったJBLの4343を「出してもいいかな?」まで言われるくらいまで気に入られている。

ちなみにこのときの試聴メンバーだった菅野先生は、KEFの303を挙げられている。
客観的にはJBLの4343Bだけれども、すでにJBLの3ウェイ・システムがあるため、
4343を入れるのは大きくてたいへんだ、ということ、
それに編集部からの質問が「自宅に持ち帰るとすれば」ということもあって、大きさと値段が手頃な303を、
「この音ならば、いますぐお金を払って持ち帰ってもいいくらい」とまで言われている。

瀬川先生は、10点をつけたスピーカーシステム、
KEFの303、105II、JBLのL150、4343Bのうち、KEFの2機種はすでに持っておられる、
JBLは4343を使われているということで、9点のスピーカーシステムのアルテックの6041を、
「いままで私の家にはないタイプの音のスピーカー」ということであげられている。

黒田先生が、4343を出してもいいかな、とまで思わせたAPM8については、
瀬川先生は、価格が半値だったら(つまりペアで100万円)、文句なく10点をつけし、
さらに、「あらゆる変化にこれほど正確に鋭敏に反応するスピーカーはない」、と。
菅野先生も、半値なら10点をつけ、最も印象づけられたスピーカー、といわれている。

これらの発言、それに3人のAPM8の試聴記を読めば、
このスピーカーシステムのもつ高性能ぶりが伝わってくる。

その高性能は、黒田先生のオーケストラの例えでいえば、技量にあたるし、
ウィーン・フィルもベルリン・フィルも技量は高い。
黒田先生が指揮者となって振ってみたいオーケストラとしてあげられたシカゴ交響楽団と、
ウィーン、ベリルンのふたつのオーケストラのどれが最高の技量などということは、
誰にもいえない高みにある。

なのに黒田先生は、シカゴ交響楽団をあげられ、APM8をこのオーケストラにたとえられている。

Date: 4月 3rd, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その7)

抽象的な音を、具象的な言葉で表現することの難しさ、
しかもそれをまったく面識のない人に誌面をつうじて文字だけで伝えていくことの難しさは、
いまさら、ここで私がいうまでもなく、書き手も読み手も感じていること。

同じ表現を使っていても、書き手によって、そこに含まれている意味あいは、
まったく同じこともあれば、微妙に違うこともあるし、ときには大きく違うこともある。

たとえば「乾いた音」。
ずいぶん以前から使われてきている、この音の表現でも、果してすべて同じ意味あいで使われているかというと、
決してそうではない。
ときには、ある人は、いい音の表現として使い、またあるときには、別の人は、ややネガティヴな表現としても使う。

だから読み手も、この人が「乾いた音」という表現を使うときには、こういう意味あい、
あの人の場合には、また違う意味あい、ということを知っていないと、
ただ、自分の感覚だけで「乾いた音」──、
この簡単な表現ですらも、誤解が生じてしまう。

結局、書き手と読み手のあいだに、共通認識が生れていなければ、
言葉で音を表現し、それを伝えることは、まず無理でいえる。

この「共通認識」を、どうすればつくっていけるのか。

Date: 4月 2nd, 2011
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その15)

いまでも、レコード(いうまでもないけれどSP、LP、CD、SACDなどを含めたパッケージメディアのこと)を、
残念なことにナマの演奏会の代用品としてとらえている人たちがいる。

演奏家の中にも、そういう人たちがいるかもしれない。
けれど、ショルティは、レコードを代用品とはとらえていなかった、と、私は思っている。
コンサートをドロップアウトこそしなかったものの、
グレン・グールドに近いところにいた指揮者ではないか、とも思っている。

録音に対して積極的な指揮者といえば、まずカラヤンが浮ぶ。
ショルティもそのひとりだ。

でも、このふたりのレコーディング、レコードに対する考え方は、微妙なところで違っていると感じるし、
どちらかといえばグールドに近い感じるのは、ショルティではないだろうか。

私が感じている、レコードに対する「カラヤンらしさ」がもっとも色濃いのは、
やはり1970年代のドイツ・グラモフォンへの録音であって、
そのころのカラヤンの録音と、録音のフィールドだけで活躍していたグールドの録音と、
その取り組み方には、共通するところよりも、まったく違う世界のように感じてもいた。

指揮者とピアニストという違いからくるものすはかりではない、と思っていたけれど、
80年代前半にあれこれ聴き比べていたときは、はっきりと、その違いをつかむことができなかった。

カラヤンとグールドの、録音物に対する考え方の違いは、レーザーディスクの登場によってはっきりしてきた。

Date: 4月 1st, 2011
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その14)

「天性の童心」をもつマーラーの裡で鳴っていた「音楽」、それに「音」とはどういうものだったのか、
聴き手は、指揮者の解釈を俟つしかない。

交響曲第6番の大太鼓の強打音に不満をもち、お手製の楽器をもちこんだマーラー。
しかも一度で懲りずに、次の演奏会場にまで運んでいるマーラー。
そのマーラーが、貪欲に求めていた、彼の音楽のために必要な「音」とは、
果して、かれが 生きていたころの現実の楽器で、実現できていたのか。

従来の大太鼓のほうが、ずっとまともな音をだしたにも関わらず、
マーラーはあきらめていない。

そんなマーラーが、交響曲第2番の冒頭で求めていたのは、
もしかするとショルティがレコードにおいてのみ実現できた音だったかもしれない。

つまり、言いかえればマーラーが貪欲に求めていた「音」は、
ナマの演奏会では実現できずに、録音という手段を介することで実現できた、ということになる。

Date: 4月 1st, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスの事(その41・補足)

誤解してほしくないので強調しておきたいことがある。
SL600にかぶせた吸音材はウール100%の天然素材である、ということだ。

じかに手で触っても不快なところはなく、むしろ心地よい感じのするもので、
ぎゅっと力をくわえても、ガサッ、とか、ゴソッ、といった音はしないものだ。

吸音材ということでグラスウールを想像する人もいるだろうが、
天然素材のものとグラスウールとでは、吸音材とひとくくりにはできないところもある。

グラスウールを素手で、喜んでふれる人はいないだろう。
それにグラスウールにぎゅっと力を加えると、ガラス繊維のこすれ合う音が聞こえる。
吸音材といっても、グラスウールをSL600の音にかぶせてしまっては、
私が書いていることとは別の結果が得られることになる。