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Date: 5月 6th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その13)

AmazonのA.M.T. Oneの、その型番が示しているように、
Air Motion Transformer型のトゥイーターを搭載している。

AMT型トゥイーターは、ハイルドライバー型を原形とするもので、
ドーム型、コーン型、コンプレッションドライバーなどが、振動板を前後方向にピストニックモーションさせて、
音の疎密波をつくりだしているのに対して、AMT(ハイルドライバー)型は、
振動板(というよりも膜)をプリーツ状にして、この振動膜を伸び縮みさせることで、
プリーツとプリーツの間の空気を押しだしたり、吸い込んだりして疎密波を生む。

これも、ジャーマン・フィジックスのDDDユニット、マンガーのMSTユニットと同じように、
ベンディングウェーブ方式の発音方式であり、
この動作方式は古くはシーメンスのリッフェル型から実用化されている(日本への紹介は1925年)。

つまりシーメンスも、ジャーマン・フィジックスも、マンガーもドイツである。
ハイルドライバーはアメリカで生まれているが、開発者のオスカー・ハイルはドイツ人である。

ハイルドライバーはアメリカのESS社のスピーカーシステムに搭載されて、1970年代に世に登場した。
のちにスレッショルドを興したネルソン・パス、ルネ・ベズネがいた時代である。

ESSからはずいぶん大型のハイルドライバーまで開発され、
同社の1980年代のフラッグシップモデルTRANSAR IIでは90Hzと、かなり低い帯域まで受け持っている。

オスカー・ハイル博士は、ドイツにいたころ、このAMT方式を考え出したものの、
当時の西ドイツでは製品化してくれるところがなく、アメリカにわたってきている。
ESSはハイル博士の、その情熱に十分すぎるほど応えているといえたものの、
日本ではそれほど話題にならず、ほとんど見かけることはなくなっていった。

そのハイルドライバーがAMTと呼ばれるようになり、ドイツでは、いまや定着したといえるほどになっている。
ELACのCL310に搭載された JETトゥイーターもそうだし、
ムンドルフ、ETONといったドイツのメーカーからも単体のAMTユニットが登場している。
ドイツではないが、スペインのメーカー、beymaもAMT型トゥイーターを出している。
これら以外にも、もうすこしいくつかの会社がAMT型のユニットを作っている。

Date: 5月 5th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その12)

ウーファーの開口部を四角にすることのデメリットはある。
そのデメリットをさけて、さらに指向特性もよくしていこうとすれば、
必然的に2ウェイから3ウェイ、さらに4ウェイへとなっていく。

ここに、瀬川先生が、4ウェイ構成をとられてきたことの大きな理由がある、私は考えている。

もちろん4ウェイにも、メリット・デメリットがあり、指向特性に関してもメリット・デメリットがある。
それぞれのスピーカーユニットに指向特性のいいユニットを採用して、
さらに指向特性が良好な帯域だけを使用したとしても、それで指向特性に関してはすべてが解決するわけではない。

指向特性には水平方向と垂直方向があり、
4ウェイにおいて4つのスピーカーユニットをバッフルにどう配置するかによって、
水平・垂直両方向を均等に保つことは、ほぼ不可能なことだ。

4341、4350、4343、4345などで4ウェイ路線をすすめてきたJBLも、
1981年に2ウェイ構成のスタジオモニター4430、4435を発表している。
ホーンの解析がすすみ、バイラジアルホーンの開発があったからこその、
4300シリーズの4ウェイ・モニターに対する2ウェイの4400シリーズともいえる。

ただ、この項では、2ウェイなのか、4ウェイなのかについては、これ以上書かない。
この項では、独自のLS5/1を作ってみたい、ということから始まっているので、
あくまでも2ウェイのスピーカーシステムとして、どう作っていくかについて書いていく。

ウーファーの開口部は、LS5/1と同じように四角にする。
これはLS5/1と同じように、38cm口径のウーファーに1kHz以上までうけもたせるからである。

BBCモニターも、LS5/8、PM510の初期モデルでは採用していたが、途中からやめている。
そんなぐあいだから、現在市販されているスピーカーシステムで、
この手法を採用しているものはないと思っていたら、意外には、ひとつ見つけることができた。

ドイツのAmazonのA.M.T. Oneという2ウェイのスピーカーシステムだ。

Date: 5月 4th, 2011
Cate: audio wednesday

第4回公開対談のお知らせ

毎月第1水曜日に、イルンゴ・オーディオの楠本さんと行っています公開対談は、
ゴールデンウィークと重なり、できれば翌週にしてほしい、と要望がありましたので、
今月だけ、来週水曜日、11日に行います。

場所は、四谷三丁目にある喫茶茶会記です。
これまでと同じようにスペースをお借りして行うため、1000円、喫茶茶会記に支払いいただくことになります。
ワンドリンク付きです。

今回は、阿佐谷にある「ギャラリー白線」のユニークな折り曲げ式平面バッフル・スピーカーが用意されています。

Date: 5月 4th, 2011
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その17)

黒田先生の文章の中で、見落してほしくないのは、次の一節だ。
     *
シンガーズ・アンリミテッドの声は、パット・ウィリアムス編曲・指揮によるビッグ・バンドのひびきと、よくとけあっていた。「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」は、アップ・テンポで、軽快に演奏されていた。しかし、そのレコードできける音楽がどのようなものかは、すでに、普段つかっている、より大型の装置できいていたので、しっていた。にもかかわらず、これがとても不思議だったのだが、JBL4343できいたときには、あのようにきこえたものが、ここではこうきこえるといったような、つまり両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった。だからといって、あれはあれ、これはこれとわりきっていたわけでもなかった。どうやらぼくは、あきらかに別の体験をしていると、最初から思いこんでいたようだった。
     *
「両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった」とある。
ここが、「いい音を身近に」の「身近」であるということが、
どういうことなのかをはっきりとさせていってくれる、と私は感じた。

オーディオマニアの性として、どうしてもなにかと比較してしまう。
たとえばアンプを交換したら、やはり前のアンプとの音の差が気になるし、
いま使っているアンプ・メーカーから改良モデルが出たら、やっぱり気になる。
友人宅、知人宅で、愛聴盤を聴かせたりすると、
表には出さなくとも、頭の中でつい自分のところで鳴っている音と比較しているし、
帰宅後に、やはり自分の装置で、もういちど、その愛聴盤を聴いてみたりする経験はおありだろう。

製品とは関係のないところでも、システムを調整していくことは、いままで鳴っていた音との比較で、
ひとつひとつステップをあがっていくことでもある。

さらには自分の裡で思い描いている音(鳴り響いている音)と、現実に鳴っている音との比較があり、
どんなにオーディオ機器間の比較ということから解放された人ですら、これからは逃れられないはず。

なのに、黒田先生は、テクニクスのコンサイス・コンポを、ビクターの小型スピーカーと、
B&OのBeogram4000との組合せを、キャスターのついた白い台の上にのせた一式に対しては、
比較ということから──それは一時的なことだったか永続的なことだったのかわからないが──、
とにもかくにも忘れることができた、ということだ。

それは解放という言葉であらわされるものだったのか、無縁という言葉であらわされるものだったのかは、
考えていく必要はあるものの、
少なくとも「比較してどうのこうのいうような気持」がなかったことはたしかだし、大事なことだ。

Date: 5月 3rd, 2011
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(資本主義においてこそ)

「持ちつ持たれつ」は、こういう資本主義(むしろ、悪い意味での商業主義)の世の中においては、
もたれ合い的な意味あいで、ネガティヴな印象のほうが強くなっている気もする。

オーディオ雑誌も、資本主義の中で出版されている。
クライアント(国内メーカー、輸入商社)が広告を出稿することで、
いまの雑誌出版というシステムは成り立っているわけで、
それはなにも広告に関してだけでなく、取材のために製品を調達するのにも、
クライアントの存在は不可欠である。

すべてのオーディオ機器を購入して取材すべきだ、ということを言う人がいる。
けれど実際にそんなことをやっていたら、どうなるか。
すこし頭を働かせればわかることである。

購入するにも資金は要る。購入した器材を保管するスペースも要る。
それに購入した器材は資産と見なされるし、調整・修理などの維持に手間がかかる。

だからクライアントから製品を借りることになる。
広告も出してもらっている。

そこで、いわゆる「制約」が生じる。
この制約を一切無視して、文章を書いている人は、いない。
書き手だけでなく、編集者も、その制約の中にいる。

「持ちつ持たれつ」である。
この「持ちつ持たれつ」こそ諸悪の根源だと見なす人がいる。
はたしてそうだろうか。

「持ちつ持たれつ」は、いわば人間関係である。
この関係を無視して、文章を書く人が仮にいたとして、
そんな人の書いたものを読みたいとは思わない。

それに制約があるからこそ、主張が生れてくる、とも思っている。
もちろん制約の中には、取り除かなければならない制約がある。
それらのすべての制約は取り除けるのか、取り除いていいものだろうか。

オーディオは、つくづく「人」だと思うようになった。
持ちつ持たれつが生みだしていくものは、きっとある。

悪しきもたれ合いは、たしかにいらない。
悪しきもたれ合いは、批判的な表現を隠していこうとする。
クライアントに対して、その取扱い製品に対して、批判的なことは表に出せない。
それもわからぬわけではないが、そのことがすでに行き過ぎてしまっているために、
賞讃の表現のもつ輝き・力をも、同時に殺してしまっている。

このことになぜ気がつかないのか。
言葉も「持ちつ持たれつ」という関係の中で生きてきて、輝きをもつものだということを。

Date: 5月 3rd, 2011
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(「聴こえるものの彼方へ」のこと)

今月の29日に公開できるように、いま黒田先生の文章の入力にとりかかっている。
すでにaudio sharingで公開している「聴こえるものの彼方へ」をEPUBにするのだが、
そのままEPUBにするよりも、未収録の文章もできるかぎり載せたい、と思い立ったからだ。

「聴こえるものの彼方へ」は、
ステレオサウンドに連載されていた「ぼくは聴餓鬼道に落ちたい」が基本になっている。
「ぼくは聴餓鬼道に落ちたい」はいったん42号で終了し、
43号から「さらに聴きとるものとの対話を」と題名が変り、始まっている。

「聴こえるものの彼方へ」には、「さらに聴きとるものとの対話を」は収められていない。

いま入力しながら、読み返していると、あらためて、
これらの黒田先生の文章を最初に読んだときの気持を思い返すことができることに気づく。
もちろん、ほぼ30年以上前に、どう感じていたかをすべて思い出しているわけではないが、
あのとき、黒田先生の文章から、なにを大事なものとして読んでいたのかは、そのまま思い出せる。

黒田先生は、「オーディオはぼくにとって趣味じゃない。命を賭けている」と言われたことがある。
1988年、ゴールデンウィーク明けの、黒田先生のリスニングルームにおいて、はっきり聞いた。

これがどういうことなのかも、「さらに聴きとるものとの対話を」のなかに書かれていたことに、
いま気づき、音楽を「きく」ということとは
(黒田先生は、聴く、とも、聞く、とも書かれずに、つねに「きく」とされていた)、
いったいどういうことなのか──、
あのときとなにが変ってきて、なにが変ってきていないのかを含めて、
ひとりでも多くの人に読んでもらいたいと思っている。

Date: 5月 2nd, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その14)

瀬川先生は、よく「オーディオパーツ」という表現を使われていた。
アンプやスピーカーシステム、カートリッジなどをひっくるめて、オーディオ機器、とはいわずに、
オーディオパーツといわれていた。

アンプにしろ、スピーカーシステムにしろ、なにがしかのオーディオ機器を買ってくるという行為は、
完成品を買ってきた、とつい思ってしまう。
でも、いうまでもなく、アンプだけでは音は鳴らない。スピーカーシステムだけでも同じこと。
以前ならカートリッジ、プレーヤーシステム、アンプ、スピーカーシステムが、
いまならばCDプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが最低限、音を出すためには必要となる。

つまりCDプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが揃った状態、
つまり音を出すシステムそのものが、実のところ「完成品」であって、
それ単体では音を出すことはできないだけに、アンプも、スピーカーシステムも、CDプレーヤーも、
システムを構築するためのパーツであると考えるならば、オーディオパーツという表現には、
瀬川先生のオーディオに対する考え方が現われている、ともいえるはず。

市販されているアンプやスピーカーシステムを、パーツということに抵抗を感じる方はおられよう。
パーツとは、アンプなりスピーカーを自作するときの構成要素のことであって、
アンプの場合では、トランジスター、真空管、コンデンサー、抵抗、コイル、トランスなどがパーツであって、
アンプそのものはパーツではない、という考え方ははたして正しいのだろうか。

アンプを自作する人がいる。どんなに徹底的に自作するひとでも、トランジスターや真空管は作れない。
コイルはつくれても、コンデンサー、抵抗を作ることも、意外と大変だ。
トランジスターアンプの出力段のパワートランジスターのエミッター抵抗は0.47Ωとか0.22Ωなので、
凝り性の人は自分で巻く人もいるかもしれないが、高抵抗値のものを作っている人はいないと思う。
ここまでやられる人でも、銅線から自分で作る、というわけにはいかない。

つまり市販されているトランジスター、真空管、コンデンサー、抵抗なども、パーツであるとともに、
完成品ともいえるわけだ。
アンプの自作においても、これらの完成品のパーツを買ってきて、それを適切に組み合わせて(設計)して、
組み上げて(作り上げて)いるわけだ。

CDプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムを組み合わせてシステムを構築するのと同じことであって、
このふたつの違いは、その細かさ、つまりの量の違いでしかない。

Date: 5月 1st, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(余談・続々K+Hのこと)

K+HのOL10は当時160万円(ペア)、O92は150万円(ペア)で、
ほとんど価格差はない、といっていい。
どちらも3ウェイのマルチアンプドライブで、
内蔵パワーアンプの型番はO92用がVF92、OL10用がVF10と異っているものの、
ステレオサウンドに掲載されている写真を見るかぎりは、同じもののような気がする。

ユニット構成は、というと、ウーファーは25cm口径のメタルコーンのウーファーを2発、
10cm口径の、やはりメタルコーン型をスコーカーに採用しているのはOL10、O92に共通で、
トゥイーターのみ、O92はドーム型、 OL10はホーン型となっている。

大きな違いはエンクロージュアにある。正面からみれば、どちらも密閉型のようだが、
O92はアクースティック・レゾネーター型と称したもので、
エンクロージュアの裏板を薄く振動しやすいようにしてあり、
中央に錘りをつけてモードをコントロールしてある。

ここが、O92とOL10の音の違いに、もっとも深く関係しているように、
瀬川先生の試聴記を読みなおすと、そう思えてくる。

O92の試聴記には、こうある。
     *
ただ曲に酔っては、中低域がいくぶんふくらんで、音をダブつかせる傾向がほんのわずかにある。とくに案・バートンの声がいくぶん老け気味に聴こえたり、クラリネットの低音が少々ふくらみすぎる傾向もあった。しかし総体にはたいへん信頼できる正確な音を再現するモニタースピーカーだと感じられた。
     *
完全密閉型のOL10に対しては、
O92に感じられた2〜3の不満がすっかり払拭されている、と書かれている。

O500CはO92の後継機だが、アクースティック・レゾネーター型ではない、バスレフ型だ。

Date: 5月 1st, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(余談・続K+Hのこと)

あきらめてはいても、ときどきふっと思い出すことはある。
先日、そういえばK+Hって、いまもあるんだろうか、と思い、検索してみると簡単に見つかった。
いまも活動している会社だった。

ステレオサウンドにはK+Hと表記してあったが、
正しくはクライン・ウント・フンメル(Klein und Hummel)社で、
いまはノイマン/ゼンハイザーの傘下、もしくは協力会社のようだ。

K+Hのサイトの”Historical Products”の項目をクリックすれば、この製品が表示される。
そこにあるのは、092ではO 92だった。0(ゼロ)ではなくO(オー)だった。

O92は1976年から1995年まで製造されていたことがわかる。
資料もダウンロードできる。
OL10は1974年から78年まで、わずか4年間だけの製造で、しかも資料がなにひとつない。
これは残念だったけれど、O92のところに”Follow-up model is O 111″という表記がある。
O111のところには”Follow-up model is O 121/TV”とあり、
O121/TVのところには”Follow-up model is O 500C”とある。

このO500Cが、現在のK+Hのモニタースピーカーのラインナップのトップモデルになる。
外観の写真を見ると、ジェネレック(Genelec)のスピーカーのOEMか、と思ってしまった。
1037Cにユニット構成も、スコーカーとトゥイーターのまわりに凹みをつけている処理も似ている。
バスレフポートの形状が違うくらいで、雰囲気はそっくりである。
しかも1037CもO500Cもパワーアンプ内蔵のアクティヴだ。
ここまではK+HのO92も同じである(ただしエンクロージュアはバスレフ型ではない)。

これで終りだったら、O500Cに惹かれない。
O500Cは”Digital Active Main Monitor”と表記してある。

Date: 5月 1st, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(余談・K+Hのこと)

若いオーディオマニアの方は、もうそうでもないのかもしれないけれど、
私ぐらいまでの世代だと、スタジオモニター、モニタースピーカーというものに、
いまでも反応してしまうところがある(少なくとも私はいまでもそう)。

モニタースピーカーで思い浮べるスピーカーシステムは、けっこうバラバラかもしれない。
まっさきにアルテックの銀箱をイメージする人もいれば、やっぱりJBLの4320、いや4350とか、
私のようにBBCモニターだったりするだろう。

1978年3月に出たステレオサウンド 46号は「世界のモニタースピーカー そのサウンド特質を探る」が特集だった。
ダイヤトーン、JBL、アルテックといった代表的なモニタースピーカーのブランドのなかにまじって、
K+HとUREIが、新顔として登場していた。
UREIのスピーカーシステムは、その後もステレオサウンドに何度か登場している。
K+Hはというと、46号とその次の号(47号・ベストバイの特集号)に登場したきりである。
輸入元は河村研究所だったこともあり、記憶されていない方のほうが多いように思う。

K+Hには2モデルあった。
OL10とO92である。

記憶のよい方だと、O92ではなくて、092だろ、と思われるはず。
ステレオサウンド 46号、47号には092となっている。
だから私もつい最近まで092だと思っていた。

OL10と092では、型番のつけかたに、なんら統一性がない、とは以前から感じていたけれど、
疑うことまではなかった。
それに私が聴きたかったのはOL10のほうだったこともある。

46号で、瀬川先生は、書かれている。
     *
私がもしいま急に録音をとるはめになったら、このOL10を、信頼のおけるモニターとして選ぶかもしれない。
     *
47号では、☆☆☆をつけたうえで、「ほとんど完璧に近いバランス」と書かれている。

OL10は、瀬川先生が、どういう音を求められていたのかを実際の音で知る上でも、
どうしても聴いておきたかったスピーカーシステムのひとつなのだが、
そういうスピーカーに限って、実物すらみることはなかった。おそらくこれから先もないだろう。

Date: 4月 30th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その13)

ラインケーブル、スピーカーケーブル、それに電源ケーブルも、
使い手が自由に選べる方が、使いこなしの自由度が広くなり、より自分の求める音に近づけることができる、
そういうふうにとらえられがちである。

そういう一面は、たしかにある。ケーブルを交換することを否定はしない。
でもまずは一度ケーブルが付属してくるのであれば、それで接いだ音をきちんと聴いてみるべきである。

コントロールアンプで、ラインケーブルが付属していたとすると、
そのコントロールアンプを送り出したメーカーは、コントロールアンプの領域として、
そのケーブルを含めて考えていることになる。
スピーカーシステムも、スピーカーケーブルが付属してくるものもある。
やはり、これも、そのメーカーのリファレンスということで、たとえそのケーブルが、
いま使っているケーブルと比較して、価格的に安かったり、貧弱そうにみえても、一度そのケーブルで聴いてみる。
電源ケーブルにしても同じことである。

電源ケーブルが着脱式になっているのはだめだとは言わない。
交換できるのであれば、それを積極的に利用するのはいい。ただむやみにやるのはすすめない。
でも、交換できないからと文句をいうのは、考え方・捉え方として、おかしい。

製品を手を加えることに否定的ではない私がいれば、その一方に手を加えることに否定的な人もいる。
でも、その人たちに問いたいのは、あるコントロールアンプを購入したとする。
ケーブルが付属してきた。長さもちょうどいい。
なのにいま使っている他社製のケーブルで使って、そのコントロールアンプをシステムに導入する。
このことは、完成品に手を加えていることにならないのか、と。

これも、私にいわせれば、付属の純正ケーブルをほかのケーブルに交換した時点で、
完成品に手を加えていることになる。
長さが足りなければ、付属してきたケーブルの長いものを購入すればいい。

アンプの天板をとって、中をいじることだけが、完成品に手を加えることではない。
それぞれのオーディオ機器の領域を考えるならば、完成品には絶対手をつけないという人は、
付属ケーブルがあればそれをそのまま使うべきである。
ケーブルがいっさい付属してこないものだったら、自由にケーブルを選ぶのはいい。

だが、くり返すが、付属ケーブルをほかのケーブルに変えることは、完成品に手を加えることになる。
そういう意味では、多くの人が意識せぬうちに完成品に手を加えていることになる。

Date: 4月 29th, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(その21)

少し話がずれてしまったが、無色透明であることがモニタースピーカーの条件ではない、ことはいえる。

1960年から70年にかけてスタジオモニターとして
各国のスタジオで使われることの多かったアルテックの604を収めたスピーカーシステムは、
誰が聴いても無色透明とは遠いところにいる音である。
イギリスの録音の現場で使われることの多かったタンノイにしても、その点は同じである。
音色としての個性は、どのスタジオモニターであれ、はっきりともっていた、といえる。

そういうスピーカーでモニタリングされながら、名盤と呼ばれるレコードはつくられてきた。

いまここでスタジオモニター、といっているスピーカーシステムは、
レコード会社の録音スタジオで使われるスピーカーのことである。

この項は「BBCモニター考」である。「スタジオモニター考」でも、「モニタースピーカー考」でもない。
これは日本だけのことなのかもしれないが、BBCモニター、とこう呼ばれている。

BBCはいうまでもなくイギリスの国営放送局で、BBCモニターはその現場で使われるスピーカーシステムのことで、
型番の頭には、LS、とつく。

ステレオサウンド 46号は、モニタースピーカーの特集号である。
この中で、岡先生が、当時の世界中のスタジオで使われているモニタースピーカーのブランドを数えあげられている。
資料として使われたのは、ビルボード誌が毎年発行している(いた?)
インターナショナル・ダイレクトリー・オブ・レコーディング・ステュディオスで、
この本は世界中の大多数の録音スタジオの規模、設備がかわるもの。

それによると、1975年当時、962のスタジオの使われていたスピーカーのブランドは次の通り。
 アルテック:324
 JBL:299
 タンノイ:91(うちロックウッドと明示してあるのが40)
 エレクトロボイス:60
 ウェストレーク:21
 KLH:17
 K+H:14
 カダック:13
 AR:12
これを国別でみると、イギリスとフランスで圧倒的に多く使われていたのはタンノイで、
イギリスではタンノイ:20/ロックウッド:18、フランスではタンノイ:1/ロックウッド:12。
西ドイツではK+Hとアルテックがともに同数(9)でトップ。

気づくのは、BBCモニターを作っているブランドがない、ということ。
もっとも岡先生があげられたブランドの合計は851だから、
のこり100ちょっとスピーカーシステムの中にはBBCモニターのブランドがはいっている可能性はあるが、
少なくともARの12よりも少ない数字であることは間違いない。

Date: 4月 28th, 2011
Cate: Autograph, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その55)

菅野先生が、ウェストミンスターは60Hz以下の低音は諦めている設計だと言われた理由も、
菅野先生に「なぜウェストミンスターは、あんなに大きいの低音が出ないのか」と相談された方がそう感じた理由も、
ウェストミンスターのバックロードホーンが受け持つ、この構造ならではの量感の独特の豊かさが、
実のところ、それほど低い帯域まで延びていないためだと思っている。

ウェストミンスターが、もしオートグラフと同じコーナーホーン型であったら、
あの豊かで風格を築く土台ともなっている低音は、もう少し下まで延びていく、と考える。
でもウェストミンスターはエンクロージュアの裏側をフラットにして、コーナーに置くことをやめている。
コーナー・エフェクトによる低音の増強・補強を嫌った、ともいえる。

その結果として、ウェストミンスターはオートグラフよりも、使いやすくなったスピーカーシステムといえる。
堅固なコーナー、しかも5m前後の壁の長さを用意しなくてもすむ。
設置の自由度もはるかに増している。

ステレオサウンドの試聴室ではじめてウェストミンスターを聴いたときも、
五味先生のオートグラフとの格闘の歴史を、何度もくり返し読んでいただけに、
拍子抜けするほどあっさりと鳴ってくれたのには、驚いた。
これがスピーカーの進歩かもしれないけど、反面、物足りなさも感じていた。

オートグラフでは、まず設置の難しさがある。
それだけに理想的なコーナーと壁を用意できれば、
あの当時のスピーカーシステムとしては低域に関してもワイドレンジだといえる(はずだ)。

ウェストミンスターは、そんな設置の難しさはない。
それだけに低域に関しては、ワイドレンジとはいえないところがある。

このことは、私にとって、以前「タンノイ・オートグラフ」で書いたこと、
オートグラフはベートーヴェンで、ウェストミンスターはブラームス、ということにつながっていく。

Date: 4月 28th, 2011
Cate: Autograph, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その54)

エソテリックのサイトではなくタンノイのサイトで、ウェストミンスターのスペックを見ていて気づくのは、
CROSSOVER Frequency(クロスオーバー周波数)のところに、
200Hz acoustical, 1kHz electrical とあるところだ。

1kHzに関しては説明は必要ないだろう。内蔵のネットワークによる。
200Hzは、ウェストミンスターのエンクロージュアの構造によるもので、
200Hz以下はバックロードホーンが受け持つ帯域となる。
オートグラフは、350Hz以下をバックロードホーンが受け持つ、とカタログにあったと記憶している。

ウェストミンスターにしてもオートグラフにしても、
このバックロードホーンの開口部はエンクロージュアの左右に設けられており、面積にするとかなり広い。
スピーカーユニットに同軸型を採用し、音源の凝縮化をはかっているのに、
200Hz(もしくは350Hz)以下の低音に関しては反対の方向をとっているといえる。

これが、ほかのスピーカーシステムでは得られない
オートグラフ(ウェストミンスター)ならではの音の世界をつくっている要素になっているわけで、
オートグラフでは20Hzまでバックロードホーンによるホーンロードがかかっているように、
カタログからは読みとれる。

ただいかなる条件下において20Hzまでホーンロードがかかっているのかというと、はっきりしない。
おそらく実際に堅固なコーナーにきちんと設置して、
しかも壁の一辺が十分な長さを持っているときに限るのではないか、と思う。

正直、この辺になると実際にコーナー型(それもコーナーホーン型)のスピーカーシステムを、
自分の手で、しかも部屋の環境を変えて鳴らした経験がないため、推測でしかいえないもどかしさがあるが、
コーナーホーン型が理屈通りに壁をホーンの延長として使っているのであれば、間違いはないはずだ。

結局、このところがオートグラフとウェストミンスターの、(少なくとも私にとっては)決定的な違いである。

ウェストミンスターの低域が-6dBではあるものの18Hzまでレスポンスがあるのは、
タンノイがスペックとして発表している以上、疑うことではない。
ただそれはレスポンスと測定できることであって、果してウェストミンスターのバックロードホーンが、
18Hzまでホーンロードがかかっていることの証明にはなっていない。

Date: 4月 27th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その17)

カラヤンが、もしデッカの「オテロ」を不満に思っているとしたら、
その理由は、やはりカルショウのしかけた録音にある、と思う。

ほんものの大砲の音を使ったことに代表されるように、
デッカの「オテロ」には、カルショウがしかけた録音のおもしろさがある。
これは、ショルティとの「ラインの黄金」からはじまったカルショウの録音テクニックの開発が、
さらに花開いた、という印象で、本来、「録音」というものは演奏者を裏から支える技術であるはずなのに、
カルショウの手にかかった「オテロ」では、
ショルティの「ニーベルングの指環」がときに「カルショウの指環」が言われるのと同じようなところがある。
当時のショルティよりも、「オテロ」のカラヤンは前面に出てきている、とはいうものの、
ときにカルショウの録音のしかけ──ソニック・ステージといいかえてもいいだろう──が、
カラヤンの演奏よりも印象が強くなるところがある。

ここのところが、カラヤンのもっとも不満に感じていたところではないのだろうか。

視覚情報のない録音において、それがステレオになったときにカルショウは、
モノーラル録音ではなし得なかった大きな可能性を見出している。

カルショウは自署「ニーベルングの指環──録音プロデューサーの手記」(黒田恭一氏訳)で、
このことをはっきりと書いている。
できれば全文引用したいところだが、この章だけでもかなりの長さなので、ごく一部だけ。
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そういう次第で、ステレオは、使われるべき手段のひとつなのである。結局は、あなたがステレオをどう考えるかである。そのもっともすばらしい例として、二十年前には考えることもできなかったような方法で、家庭生活にオペラを持ち込むことが、ステレオは出来るのである。いくつかの理由により、オペラハウスでのような効果はえられない。家庭でレコードを聴いている人は、集合体の一員ではないのである。その人が認めようが認めまいが、個室におけるその人の反応は、公の中での反応と同じものではないのだ。私は、あるひとつの環境が他の環境より良いと主張しているのではなく、ただたんにそのふたつが違っていて、だからまた、人びとの反応も違うといっているのである。良い条件のもとでの演奏の好ましいステレオ・レコードの音は、家庭においても、聴き手の心をとらえるであろうし、劇場で聴いている時よりもはるかにそのオペラの登場人物たちに、心理的に近づいているかもしれない。自分がそのドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである。聴き手は、言葉と音楽とを聴くことができ、主人公たちが立っている場所を聴きわけることができ、彼らが動く時には、彼らの動きに従うことができるのである。だが、その登場人物たちが、どのような格好をしているかとか、どんな舞台装置の中を歩きまわっているかといったことについては、その聴き手なりに、頭の中で想像図を描かねばならない。そうなると、その聴き手は、他人の演出したものを鑑賞するかわりに、無意識に自分自身のものをつくり出すことになるのである。(アンドリュー・ポーターは、「ラインの黄金」を批評して、「グラモフォン」誌に、次のように書いている。「このレコードを聴くのと、舞台に目をむけずにオペラハウスに身をおいているのとは、違う。これは、ある神秘的な方法で、演じている人たちの中ではなく、作品の中に、より親密に私をとらえるのである」。)
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ここで見落してはならないのは、
「自分がドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである」。
これこそが、ソニック・ステージの根幹、カルショウの録音の基盤になっている、といっていいはずだ。