素朴な音、素朴な組合せ(その17)
カラヤンが、もしデッカの「オテロ」を不満に思っているとしたら、
その理由は、やはりカルショウのしかけた録音にある、と思う。
ほんものの大砲の音を使ったことに代表されるように、
デッカの「オテロ」には、カルショウがしかけた録音のおもしろさがある。
これは、ショルティとの「ラインの黄金」からはじまったカルショウの録音テクニックの開発が、
さらに花開いた、という印象で、本来、「録音」というものは演奏者を裏から支える技術であるはずなのに、
カルショウの手にかかった「オテロ」では、
ショルティの「ニーベルングの指環」がときに「カルショウの指環」が言われるのと同じようなところがある。
当時のショルティよりも、「オテロ」のカラヤンは前面に出てきている、とはいうものの、
ときにカルショウの録音のしかけ──ソニック・ステージといいかえてもいいだろう──が、
カラヤンの演奏よりも印象が強くなるところがある。
ここのところが、カラヤンのもっとも不満に感じていたところではないのだろうか。
視覚情報のない録音において、それがステレオになったときにカルショウは、
モノーラル録音ではなし得なかった大きな可能性を見出している。
カルショウは自署「ニーベルングの指環──録音プロデューサーの手記」(黒田恭一氏訳)で、
このことをはっきりと書いている。
できれば全文引用したいところだが、この章だけでもかなりの長さなので、ごく一部だけ。
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そういう次第で、ステレオは、使われるべき手段のひとつなのである。結局は、あなたがステレオをどう考えるかである。そのもっともすばらしい例として、二十年前には考えることもできなかったような方法で、家庭生活にオペラを持ち込むことが、ステレオは出来るのである。いくつかの理由により、オペラハウスでのような効果はえられない。家庭でレコードを聴いている人は、集合体の一員ではないのである。その人が認めようが認めまいが、個室におけるその人の反応は、公の中での反応と同じものではないのだ。私は、あるひとつの環境が他の環境より良いと主張しているのではなく、ただたんにそのふたつが違っていて、だからまた、人びとの反応も違うといっているのである。良い条件のもとでの演奏の好ましいステレオ・レコードの音は、家庭においても、聴き手の心をとらえるであろうし、劇場で聴いている時よりもはるかにそのオペラの登場人物たちに、心理的に近づいているかもしれない。自分がそのドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである。聴き手は、言葉と音楽とを聴くことができ、主人公たちが立っている場所を聴きわけることができ、彼らが動く時には、彼らの動きに従うことができるのである。だが、その登場人物たちが、どのような格好をしているかとか、どんな舞台装置の中を歩きまわっているかといったことについては、その聴き手なりに、頭の中で想像図を描かねばならない。そうなると、その聴き手は、他人の演出したものを鑑賞するかわりに、無意識に自分自身のものをつくり出すことになるのである。(アンドリュー・ポーターは、「ラインの黄金」を批評して、「グラモフォン」誌に、次のように書いている。「このレコードを聴くのと、舞台に目をむけずにオペラハウスに身をおいているのとは、違う。これは、ある神秘的な方法で、演じている人たちの中ではなく、作品の中に、より親密に私をとらえるのである」。)
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ここで見落してはならないのは、
「自分がドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである」。
これこそが、ソニック・ステージの根幹、カルショウの録音の基盤になっている、といっていいはずだ。